前哨戦
翠は疲れが取れない身体に鞭を入れながら、蒼の後を追うように、木を掴みながら山を登って行く。
昨夜、少量のお粥を取り、布団で眠った事で、多少の生気が顔に戻ってきた。
衣装は昨夜まで着ていた、あの巫女衣装を再び着て、やはり目が悪かったのか、本日は赤ぶちの眼鏡をかけている。
雨雲のうえ、さらに木の枝か光を遮り、結びの結界の中は日暮れのように薄暗い。その中をまだ悪霊が漂っていて、木々の間から視線が感じたり、後ろから何が着いてくる気配が後を絶えないが、今は無視して進んだ。
頭の中には昨夜聞いた、篠田の言葉が何度も浮かんでくる。
『二つの約束をして欲しい。一つは、時が来れば今から憑いてもらう式守神を、一度だけ俺の指示通りに出してくれ』
それは、式守神に憑いてもらうにいたって、最初から約束している内容なので迷いなく頷く。
『そしてもう一つは、今から行く場所で、君は想像を絶するものを見るだろう。しかし、それを口外せず忘れる事。この二つが守れるなら、式守神の契約をなんとしても成功させる』
珍しく真剣な顔で、篠田は翠が頷くまで待った。
意味が解らないので、否定も肯定も出来ない事だが、翠の目的は式守神に憑いてもらう事だ。
口外するなと言われれば、別に他人に言う必要もないし、そんな事ぐらいは守れる。翠は戸惑いながらも頷いた。
これからここで、一体何が起こるのか。
篠田の言う想像を絶するものとは何なのか。
翠は少しだけ曇った顔で、山の頂上をみる。
頂上はまだまだ先で、急がなくてはそれに間に合わないかもしれない。しかし、身体がうまく着いてきてくれない。
翠は疲れで足を七度止めた後に、やっと目の片隅にその姿を見つけた。
体を木の物陰に隠し、荒い息を落ち着かせて、そこから少しだけ顔を出して様子をうかがう。
攻防を続けている二つの存在。
まず目に飛び込んできたのは、体長は四メートルは越える大柄な身体だ。
巨大な体に赤黒い肌をもち、額に大きな角を二本持つ鬼。
これは式守神にしようとしてたので翠にはわかる。
霧ヶ峰の人喰い鬼だ。
確かに式守神にするには向いていない様な存在だが、強力と言えばすごく強力な存在である。霊能力の乏しい、翠がこれを式守神にすれば大いに役立ってくれるだろう。
霊力だけを考えれば、砂那の憑いてもらっている八禍津刀比売や、篠田の憑いてもらっている三火八雷照よりも、強力な存在だからだ。
しかし、それはあくまでも、式守神になってくれればの話ではあるが。
そしてもう一人は、昨夜、砂那が連れてきた、篠田がハルと呼んでいた人物だ。
そのハルは、昨日会った時はどこもおかしく無い、普通の人物で有った。しかし今は、人間では有りえない形態をしている。
左右の腕の長さが合っていない。
右腕は地面に着きそうなほど長く、二の腕の半ば辺りから、緑色の鱗に覆われている。指も三本で細長い。
翠にはその腕が、物語に出てくるような龍の腕のように思えた。
これが、篠田の言っていた想像を絶するものの正体であろうか。
ハルは、鬼の振り下ろされる攻撃に、自分の鱗の付いた腕で弾き返す。全く持って信じれない光景だった。
霊体の鬼に対して、囲いや結びと言った技ではなく、原始的な殴り合いの様に見える攻防。その力が同等なのか、ハルは鬼の攻撃を押し返している。
しかし、その力が拮抗していたのはわずかで、ハルは焦っているのか、他に心配事があるのか、集中出来ない様子で、次第に反応が遅れがちになる。
ハルはイラついたように「ちっ」っと短く舌打ちすると、鬼の懐に潜り込み、緑色の鱗に覆われた長い腕を使い、渾身の力で鬼の胸元を一撃する。
さすがは強力な霊体だ。その攻撃にも霧ヶ峰の鬼は動きを止めず、まったくダメージを受けた様子はなく立ちはだかる。
ハルは後ろに跳び退き、鬼と距離をとった。
「これでは効きにくいか、くそったれ!」
そう暴言を吐き、そして、短く呟いた。
「アンインストール!」
その途端、緑色の鱗に覆われた右腕が消える。
そして次の言葉を聞き、翠は驚きで大きく目を見開いた。
「ダウンロード、―――三火八雷照!」
次に現れた右腕は、炎を纏った発光体。バチバチと雷鳴を響かせる。
これは何かの間違いであるはずだ、そんなことが有るはずがない。だってそれは――――、
「それは、篠田、さんの………」
翠は独り言のように小さく呟いた。
「式守神!」
これから雨が強くなるのか、雷鳴が聞こえだす。
砂那はダガーを握りしめ男に切りかかる。投げていては、いずれ底を付いてしまうから、直接攻撃に移ったのだろう。
匕首の程の大きな刃物だ。当たればタダでは済まない。
砂那はそんな大きな刃物を、切りつけながら男に問いかける。
「あなたは何者? なぜ、わたし達の邪魔をするの?」
日本語が分からないのか、男は何も答えない。ただ、余裕が有るのか、男はハットを押さえながら、砂那の攻撃をギリギリでかわし、口元の緩みは消えなかった。
確かに砂那は、憑き物以外の者に、刃物を向けて攻撃するのは初めてで、相手を傷つけることに躊躇して本気が出せていない。だからそれは、牽制の意味で攻撃しているのであろう。しかし、相手もそれを読んでいるのだ。
だから、態とよけずに、砂那が攻撃の手を弛めた瞬間に、人差し指と中指を振り下す。
九字切りである。
砂那はそれを目で追いながらも、男に近付きすぎて、その攻撃をかわせないと奥歯を噛みしめ、衝撃に備えた。
そこに、こぐろが少女の姿で二人の間に飛び込み、砂那の代わりに、まともに九字切りを受ける。
「にゃっ!」
こぐろが短く鳴いてはね飛んだ。
「こぐろ! どうして?」
『………すまん』
蒼の電話越しの短い謝りで、砂那は咄嗟に理解できた。
今の謝りは砂那に対してでは無く、こぐろの対して言ったものだ。蒼は砂那を守るため、こぐろを犠牲にしたのである。
それは使い魔や、式神、式守神と言った、術者を助ける者の使い方としては間違いはなかったが、砂那は激昂した。
「蒼は手を出さないで! わたしが何とかする!」
砂那はイヤホンマイクに向かって叫ぶ。そして、仔猫にの姿に戻って、草むらに倒れこんだこぐろに、一瞬目を向けて安否を確認してから命令した。
「こぐろは怪我してるんだから、蒼の言うことは聞かない! 休んでなさい! 直ぐ終わらせるから!」
先ほどとは打って変わって、傷ついたこぐろを前にして、砂那の覚悟が決まったのだろう。ダガーを握る手に力がこもる。
そこから砂那の攻撃は激しさを増し、さらに男に詰め寄った。
相手が九字切りを繰り出せないように連続で攻撃する。それも、切りつけるのではなく突いてだ。こちらの方が殺傷力が強い。
男はたまらず後ろに飛び退いた。その場所に一メートル四十センチの大剣が横に払う。砂那の式守神の追撃である。
運動神経のいい男だ。それも屈んでかわすと、さらに後ろに跳び砂那との距離を開けた。
しかし、さすがに男の口元からは笑みは消える。
砂那は八禍津刀比売を直ぐに消して、再びダガーを構えた。
式守神も使い魔と同じで、九字切りとは相性が悪い。しかし消していれば式守神に攻撃できない。だから攻撃するときだけ出せば、式守神はダメージを受けないで済む。
それが正解だったらしく、再び男に詰め寄ろうとした砂那は、その男の焦り声を聞いた。
「――――臨!」
やばい!
その一言で、砂那は鳥肌を立てた。
九字切りの印契うや、九回空を切らないと現れない九字切りを、だだ、指を振り下ろしただけで発動していた男が、追い込まれたのか、初めて神仏を表す九種類の印契を詠もうとしていた。
本来なら詠むだけでは効力が薄いのだが、何もしなくてあの威力だ。確実に今までより威力は上がるであろう。
「兵! 闘! 者!」
男の印契はカウントダウンの様に続けられる。
「出てきて、八禍津刀比売!」
焦る砂那は式守神と共に、一気に詰め寄り攻撃するが、男はその攻撃を全てかわし、印契を詠むのを止めない。
「皆! 陣! 裂! 在くっ、」
そして、あと一文字の所で、男は口を閉じて、大きく体をひねり、今まで使っていた通常の九字切りで攻撃を放つ。それは砂那達に向いてではなかった。
男は彼女たちとは、逆方向の草むらに向かって三度放つ。それから警戒した様に、指を構えて砂那の後ろを見た。
今の戦闘は、砂那たち以外に、他の攻撃が混じっていたのだ。
砂那も男が印契を止めたことで、一度呼吸を整える。
その真横を大型の黒豹が通り過ぎた。
「………えっ?」
砂那は突然現れた、大型のネコ科生物の姿に目を奪われる。
黒豹は頭を下げた攻撃態勢で、男との距離を測っている。背中の筋肉が盛り上がり、隙あれば飛びつこうとしている。
「今度はなに? 黒い、トラ?」
『砂那、それはベネディクトさんの使い魔だ』
イヤホンマイク越しに蒼が安堵の溜息を吐く。何だかんだと言いながら助けに来てくれたのだ。
「蒼の上司の?」
『あぁ、そうだ。ベネディクトさんの使い魔は強い。砂那、そこは任せて大丈夫だから、こぐろを連れて、囲いの準備に戻ってくれ』
そう言われても、やられっぱなしで癪に障るが、このまま戦闘を続けては、人喰い鬼と対峙している蒼に危険が及ぶ。
砂那はしばらく男をキツイ釣り目で睨んでいたが、諦めたように頷いた。
「………解ったわ」
それから、こぐろを抱きかかえると傷の状態を見る。ぐったりとしているが外傷は無く、砂那が受けた様に疲労のような状態がきつくなったものだろう。
砂那は胸を撫でおろし、それから再び男を見た。
男は黒豹に注意を向けながらも、余裕が有るのか、砂那に対してハットを少し持ち上げ、挨拶のような真似をする。それからは、目の前の黒豹よりも、後ろの草むらを気にしていた。
砂那は黒豹に「気を付けてね」と呟くと、再び囲いを張るために走る。
蒼の声を聞いている分にはまだ余裕がありそうだが、危険な状態なのも変わりない。それに、また、別の邪魔をしてくる者が現れる可能性もある。
この外国人の男は何者で、なぜ砂那達の邪魔をしてきたのか解らないが、急いだ方が良さそうだと、戦闘によって疲れた身体を無理やり動かせた。
ベネディクトは隣の山から、阿紀神社のある山を見下ろしていた。
「ウィギンズ、そいつからの攻撃は気を付けろ、サガン、お前は読まれている。ウィギンズの攻撃で注意が切れたら仕留めろ」
ベネディクトは使い魔に的確に指示を与えていく。
今回の戦闘に当たって、ベネディクトは三体の使い魔を用意した。
持ちての黄色い鍵〈ベネディクトはジョーヌの鍵と呼ぶ〉で呼び出す、大型の黒い豹ウィギンズ。主に直接的な物理攻撃担当で、形態からわかるように、スピード、パワーともに優秀な、ベネディクトが一番よく使う使い魔である。
次は、持ちてが白と赤のツートンカラーの鍵〈ベネディクトはア・ポワの鍵と呼ぶ〉で呼び出す、三本足の八咫烏のヴォクレール。主に偵察に使う使い魔だ。現在も空から男の動向を監視している。
最後に、持ちての緑の鍵〈ベネディクトはヴェールの鍵と呼ぶ〉で呼び出す小動物。トカゲのようだが動きが早くて明細が不明なサガン。後ろ足に致死量の毒の爪と、動きを止める神経毒の爪を持つ、危険生物だ。小さくて動きが早いことから、本来は暗殺用に用いられる。先ほどから男が警戒しているのはこちらの方だ。
この三体はベネディクトが普段からよく使う使い魔で、名前は全て、有名なフランスの自転レースの、トップジャージを取った選手から付けたものだ。
蒼に言わせれば、彼女の使い魔達に、その名は似合っていないらしいが、ベネディクト本人は満足しているようである。
「やはり妙なのが混じって居たな」
ベネディクトの勘が正しかったのだ。
彼女は目を細め、上空のヴォクレールから視界の片隅に見える篠田を意識する。
雨が降ってきたことにより、篠田は社務所の日陰にはいり、雨宿りしている。もう一人の男は、雨に濡れるのも御構い無しで、結びの結界が消えることにより、山から出てくる悪霊を囲っている様だ。
そこで、篠田は何かに気付いたように、フッと顔を上げる。
その顔は、少しだけ笑って居て、挨拶をするように右手もあげた。
「今回は、お前の思惑通りか。あまり楽しく無いな」
ベネディクトそう呟くと、黒豹のウィギンズが相手する男に視線を戻す。
男の仕事は砂那の足止めだけだったのか、今は逃げる機会をうかがっている。ベネディクトは使い魔達にワザと隙を作るように指示をして、男の退路を作った。
男は素直にそれに従い姿を消す。
「でも、私はここまでにするよ。後は二人で何とかしな、右腕の無い少年」
ベネディクトは傍観者を決め込んで、ヴォクレールに砂那の後を追わせた。




