事件編(2) 『十二人目』
リビングのドアが開いたとき、戻ってきたのは佐々木一人だった。
僕は思わず佐々木の背後に視線を向けたが、廊下には誰もいない。
「あれ? 佐々木、和希は?」
「小川先輩なら、用事があるからと、一度自分の部屋に戻りました」
佐々木はいつもと変わらない、感情の起伏がない声で淡々と答えた。
「……わざわざこんな時に?」
「はい」
少し的外れな気もしたが、自分の家なのだから何か思い出した用事でもあったのだろう。僕はそれ以上深く追及するのをやめた。
ちょうどその時、玄関の方から「じゃあ、塾行ってくる!」と春子の元気な声が聞こえ、続いてバタンッと重いドアが閉まる音が響いた。
テレビの音量を下げたリビングは、ひどく静かだった。
僕は手持ち無沙汰さを紛らわせるように、スマートフォンの画面をスクロールし、SNSやニュースの画面を意味もなく眺めていた。椅子に座る佐々木も、じっと自分の膝の上を見つめたまま動かない。
カチ、カチ、カチ。
壁の時計の音が、やけに耳につく。
カチ、カチ、カチ
カチ、カチ、カチ、カチ。
……さすがに、遅すぎないか?
スマホの画面から目を離し、再び時計を見る。
七時四十九分。和希が部屋に向かってから、もう十五分が過ぎている。
いくら用事があるとはいえ、ゲストをリビングに放置したまま戻ってこないなんて、あの気配りな和希らしくない。
「……ちょっと、和希の様子見てくる」
僕が立ち上がると、佐々木は小さく頷くだけで、やはり何も言わなかった。
リビングを出て、薄暗い廊下を進む。和希の部屋は二階だ。階段を上り、突き当たりにある彼の部屋のドアの前に立つ。
隙間から明かりが漏れているが、中からは何の音も聞こえない。
「おい、和希。何やってんだよ、遅いぞ」
ドアを軽くノックする。
しかし、返事はない。
「……和希?」
もう一度。今度はノックをしながら、ドアノブに手をかけて力を込めた。
ノブは途中で引っかかった。
――鍵が、かかっている。
「──……、……………─── 」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。不穏な予感に、心臓の鼓動が早くなる。
この感覚は、予感というより予知に近い。
「おい、和希! 寝てんのか!? 開けろよ! 」
呼びかける声が、自分でも驚くほど荒くなっていく。激しくドアを叩く音が、静かな家の中に響き渡った。
「──…先輩?」
階段の方から、静かな声がした。
振り返ると、異変を察した佐々木が、怪訝そうな表情で階段を上ってくるところだった。よほど僕が取り乱していたのか、彼女の眉が、わずかに潜められている。
「佐々木、これ……鍵がかかってて……、和希の返事がないんだ」
焦りで声が震えそうになるのを抑えながら、僕はドアノブを掴んだまま彼女を見た。
和希の部屋のドアの鍵は、中央に細い溝がある、外からでも硬貨などで回せるタイプのものだ。
「佐々木、財布に小銭あるか!? 持ってたら貸してくれ!」
「えっ……あ、はい」
僕のただならぬ様子に戸惑いながらも、佐々木は小さな財布から10円玉を引っ張り出し、僕に差し出してきた。
僕は礼も言わずに、受け取った10円玉をドアの溝に差し込み、力を込めて横に回した。
カチャリ、と金属音が響き、ロックが外れる。
「和希、入るぞ――」
その問いかけに、応答はない。
「──────っ!」
僕は腕に全体重をかけて、ドアを力一杯に押し開けた。
その勢いで転びそうになったが、体が反射的にブレーキをかける。
──それは、バランスを崩して転びそうになったからではない。脳の命令よりも早く、全身の細胞が「これ以上進んではいけない」と激しい拒絶の信号を発したからだ。
忌わしい。
邪悪で……
不愉快で……
非日常的で……認めたくない情景。
死。
「………。………、……… 。………………、 ………」
僕は何かを呟き、右足を一歩踏み入れる。
そして、
小川和希が死んでいた。
しゅるり。和希の手首から、赤いリボンがほどけ落ちる。




