【15】 松木教官からのメッセージ
競技場の重い扉を出て、長い帰り道を歩く。
ガラガラと虚しい音を立てて転がるスーツケースの音が、爽香の心に重く響いた。
速水爽香(終わっちゃった……)
欠場1回、あとは全部、最下位。
速水爽香(養成所で言っちゃったな……『事故完走でズボン、3着以内でシューズ。もうゲットしたようなものです。教官、約束ですよ!』なんて……。バカみたい。甘すぎたんだ……)
足を止めると、視界が急激に歪んだ。
速水爽香(無事故完走もできなかった。泣かないって約束も……もう無理……)
ポロポロと涙がこぼれ落ち、一度あふれ出すと止まらなくなった。
爽香はその場にへたり込み、道路の端で小さく丸まって声をあげて泣いた。通行人がチラチラと不憫そうな視線を向けて通り過ぎていくが、立ち上がる気力すら湧かない。
こんなことで、プロとしてやっていけるのだろうか。
どのくらい泣いただろう。何度も袖で顔を拭い、真っ赤な目でフラフラと立ち上がった時、ポケットのスマホがブブッと震えた。
画面を見ると――『松木教官』。
速水爽香(……教官。お叱りかな。『ほら見たことか』って笑うのかな……見たくない……)
指が震える。だが、見ないわけにはいかなかった。恐る恐る画面をタップする。
件名:無題
松木教官「結果は残念だったな。
今頃泣いているのか?
お前は昔から泣き虫だったからな。」
爽香は思わず周囲を見回した。誰もいない。
速水爽香(なによ……見てたみたいに言うんだから……。そうよ、泣いてるわよ!)
松木教官「泣くのも気分転換だ。今日だけは許してやる。
涙で競艇場の水面があふれるくらい、今日は泣いておけ。
ただし! その分、明日からは死ぬ気で練習しろ。
ガンバルンバ、ルンバ、ルンバ。」
速水爽香「……グスッ」
思わず鼻が鳴った。くだらない駄ジャレに、ほんの少しだけ口元が緩む。
松木教官「いいか、よく聞け。
選手ってのはな、負けた分だけ精神も技術も伸びるんだ。
逆に、へたに勝った奴ほど伸び悩む。
負けたことを恥じるな。そんなもん全員が通る道だ。
『負けは成長のための栄養素』だと思え。
明日からは負けても泣くな。
負けたら『練習しよう』、そう思え。
トップレーサーは全員、失意のどん底から這い上がってきたんだ。
分からないことがあったら、いつでも連絡してこい。
私も大して分からんが、なんとかなる。ガハハ。
愚痴ならいくらでも聞いてやるからな。」
速水爽香(教官……)
松木教官「追伸:
長財布にいつも30万円入れて持ち歩いてるんだが、
お前の祝いに使おうと思ってたのに使えなかったぞ。
おかげで財布が札束でパンパンで壊れそうだ。じゃあな。」
涙で濡れた顔に、クスッと笑いがこぼれた。
速水爽香「なによ、30万なんて入ってないくせに……見栄張っちゃってさ……」
空を見上げると、いつの間にか暗雲の隙間から、やわらかな夕光が差し込んでいた。
◇
数日後。福岡県柳川市――ボートレーサー養成所・職員室。
荘野教官「松木さん、速水爽香のデビュー節、散々でしたねぇ」
同僚の荘野教官(57)が、コーヒーを飲みながら苦笑いした。
荘野教官「周回展示で転覆しちゃって」
松木教官「まあ、あんなもんだろ。一人で『水神祭』やったと思えばいい」
荘野教官「ハハッ、豪快な水神祭ですね」
松木教官「本物の水神祭(初勝利)なんて、何年先になるか分からんからな!」
ガハハと笑いながら、松木はポケットから古びた長財布を取り出し、パカッと開けた。
それを見た荘野が、思わずコーヒーを吹きそうになる。
荘野教官「……ちょっと松木さん。それしか入ってないんですか?」
長財布の中に鎮座していたのは、しわくちゃの千円札が2枚だけだった。
松木教官「あれっ!? 諭吉がいないぞ!? どこへ遊びに行きやがったんだ?」
荘野教官「勝手に出て行きませんよ! 野口英世がふたりで留守番してるだけじゃないですか!」
松木教官「おかしいなぁ……双子の英世しかいないとは……」
荘野教官「いつもはもっと入ってるんですか?」
松木教官「当たり前だろ!」
荘野教官「いくらですか?」
松木教官「30万!」
荘野教官「ウソつけ!」
松木教官「ガハハハハ!」
職員室に、松木の豪快な笑い声が響き渡った。
(了)
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【後書き】
最後までお読みいただきありがとうございます。
デビュー節、爽香にとってはあまりに高く険しい壁でした。
周回展示での転覆に、松木教官との約束……。ラストの道端で泣き崩れるシーンは、胸が締め付けられる思いです。
でも、どん底まで落ちた後は、這い上がるだけです。
松木教官の「ガンバルンバ」という言葉(笑)、そして二千円しか入っていない財布。そんな教官の優しさが、彼女の力になると信じています。
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【選手宿舎と本作品】
ボートレーサーの方々は、ボートレースが始まると選手宿舎の監禁生活が始まり、パソコン、タブレット、スマートフォンがいっさい使えなくなります。これは外部の人間と連絡を絶ち、八百長行為などを防ぐためです。
作者としましては「ボートレース」をテーマとした作品ですので、ボートレーサーの方々に選手宿舎でぜひ読んでいただきたいのですが、スマートフォンなどのデバイスが使えないのが残念でたまりません。
自主出版をして本に出来れば良いのですが、それほどの財力が無いので本当に申し訳ない限りです。m(__)m
選手の皆様、いつも楽しませていただくと同時に、たくさんの勇気と元気を与えていただきありがとうございます。 m(__)m
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