第三話 【精霊使い】リンネ・ユーファラテス
その日の午後。
王立英雄学園、SSクラスの教室では、授業開始を待つ生徒たちが一つの話題で盛り上がっていた。
「なあ、今日の午後って精霊術の実技だよな?」
「そうだけど。それがどうかしたの?」
「リンネ先生が担当するんだろ? あの先生、実際どれくらい強いんだろうな」
話題の中心にいるのは、昨日赴任してきたばかりの新人教師――リンネ・ユーファラテス。
腰まで伸びた銀髪に、透き通るような白い肌。華奢な体つきと整った顔立ちは、どう見ても年若い美少年のものだった。
物腰は柔らかく、誰に対しても丁寧。生徒一人ひとりに真摯に向き合う姿勢も好印象で、すでにSSクラスの生徒たちからは好意的に受け入れられている。
ただし、教師としての実力については未知数だった。
「精霊術科の教師なんだから、相応の精霊とは契約してるんだろ?」
「上級精霊くらいなら普通に使役できるんじゃないか?」
「でも、精霊術って契約している精霊の格が重要なんだろ? どんな精霊と契約してるか気になるな」
「そもそも、あの見た目で教師っていうのが不思議だけどな」
「本人は成人してるって言ってたじゃん」
「分かってるよ。分かってるけどさ……」
そんな会話が交わされていた、そのとき。
ガラリ、と教室の扉が開いた。
「皆さん、お待たせしました」
「あ、リンネ先生!」
「こんにちは!」
「先生、今日の授業って何をするんですか?」
生徒たちの声に、リンネは穏やかに微笑む。
「今日は精霊術の実技ですね。まずは皆さんの現在の実力を確認して、それぞれに合った指導をしたいと思っています」
「実技か!」
「先生の指導、楽しみです!」
「ふふ。ありがとうございます。では、演習場へ移動しましょうか」
そうして、SSクラスの生徒たちは一斉に席を立った。
彼らはまだ知らない。
自分たちがこれから目にするものが、精霊術という学問の常識を根底から覆すものであることを。
◇
王立英雄学園、精霊術演習場。
広大な敷地には強固な防護結界が張り巡らされており、上級魔術の行使にも耐えられるよう設計されている。
そんな演習場の中央に立ったリンネは、生徒たちを見渡した。
「それでは、まずは皆さんの実力を見せてもらいましょう。契約している精霊の種類と、得意な術式を確認させてください」
「分かりました!」
最初に前へ出たのは、青髪の少女だった。
彼女が手を掲げると、足元に小さな水の精霊が現れる。
「水の精霊よ、我が呼びかけに応えよ――!」
詠唱とともに、少女の周囲に水が集まった。
やがてそれは一本の槍となり、演習場の標的へ向かって一直線に飛翔する。
ドンッ!
標的の中央に命中。
見事な威力だった。
「お見事です」
「ありがとうございます!」
「ただ、水槍を形成する際に、精霊へ少し無理をさせていますね」
「……え?」
「もう少し精霊の意思を尊重してあげると、威力も精度も上がると思いますよ」
少女は目を丸くした。
そして、足元にいる水の精霊へ視線を落とす。
小さな精霊は、まるで『その通り!』と言わんばかりに、ぴょんぴょんと跳ねていた。
「……本当にそう思ってるんだ」
「ええ。精霊術は、精霊に命令するだけの技術ではありませんから」
リンネは柔らかく微笑んだ。
「精霊たちと協力して、一緒に術を作り上げる。それが大切なんです」
「なるほど……!」
少女は感心したように頷いた。
その後も、次々と生徒たちが実技を披露していく。
火の精霊を操る者。風の精霊を使って飛翔する者。土の精霊に防壁を作らせる者。
流石はSSクラス。どの生徒も高水準の技術を身につけていた。
リンネは一人ひとりの術を観察し、的確な助言を与えていく。
その指導は驚くほど丁寧だった。
欠点を指摘するだけではない。生徒本人が気づいていない長所を見つけ、それを伸ばすための方法まで提示してくれる。
エルネアの厳格な指導とはまた違った魅力があった。
「……先生って、すごいですね」
「え?」
「私たちの精霊のことまで、ちゃんと見てくれているんですね」
「もちろんです。皆さんの大切なパートナーですから」
リンネの言葉に、生徒たちは顔を見合わせた。
精霊術師にとって、契約精霊は大切な存在だ。
しかし、それを単なる術式の補助として扱う者も少なくない。
リンネのように、精霊そのものを尊重する教師は珍しかった。
そして――。
「……ところで、先生」
一人の男子生徒が手を挙げた。
「なんでしょう?」
「俺たちの実技は見てもらいましたけど、先生自身の実技も見せてもらえませんか?」
「あ、それ私も見たいです!」
「先生って、どんな精霊と契約してるんですか?」
「やっぱり上級精霊ですか?」
生徒たちの視線がリンネに集まる。
どうやら、彼らも気になっていたらしい。
新人教師であるリンネの実力。
精霊術科の教師を務める以上、相応の実力を持っているはずだ。
それを自分たちの目で確かめたい。
そんな期待に満ちた視線を向けられ、リンネは少し困ったように笑った。
「僕ですか? そうですね……」
少し考えてから、頷く。
「実演を見せるのも教師の仕事ですから。簡単なものをお見せしましょう」
「本当ですか!」
「ええ。あまり派手なことはできませんが」
「……リンネ先生が実演するの?」
そのときだった。
演習場の入口から、鈴を転がすような美しい声が響いた。
振り返ると、そこには腰まで伸びた金髪を揺らす女性が立っていた。
エルネア・カイザー。
【天雷】の異名を持つ、王立英雄学園最強格の魔術講師である。
「エルネア先生!」
「見学に来たんですか?」
「ええ。少し時間が空いたから、様子を見に来たの」
エルネアはそう答えると、リンネへ視線を向けた。
「邪魔をするつもりはないわ。気にせず続けて」
「分かりました」
リンネは頷き、演習場の中央へと歩いていく。
そして、生徒たちに向き直った。
「僕が得意としているのは、水属性の精霊術です」
そう言って、右手を軽く掲げる。
次の瞬間。
――空気が、変わった。
「……っ!?」
最初に異変を感じ取ったのは、水属性を得意とする青髪の少女だった。
演習場に満ちていた空気が、わずかに震える。
それは風でも、魔力の奔流でもない。
もっと根源的な何か。
まるで世界そのものが、誰かの訪れを歓迎しているかのような感覚だった。
そして。
演習場のあちこちから、小さな光が集まり始めた。
「え……?」
「精霊……?」
水の精霊。
契約者のいない野良の精霊たちだ。
普段なら人間に興味を示すことすら少ない彼らが、次々とリンネの周囲へ集まってくる。
その数は、十や二十ではない。
数え切れないほどの水の精霊たちが、まるで懐いた小鳥のようにリンネの周囲を飛び回っていた。
「こんなにたくさんの精霊が……?」
「嘘だろ。野良の精霊って、普通は人間の言うことなんて聞かないはずじゃ……」
生徒たちがざわめく。
しかし、リンネ本人は特に気にした様子もない。
「ふふ。みんな、今日はよろしくお願いしますね」
その言葉に応えるように、精霊たちが一斉に光を強めた。
まるで、嬉しくて仕方がないと言わんばかりに。
その光景を見たエルネアは、思わず目を細める。
(……やっぱり、そうなのね)
彼女は魔術師として、世界でも最高峰の実力を持っている。
だからこそ、理解できた。
リンネは精霊を無理やり従わせているわけではない。
契約によって縛っているわけでもない。
彼らが自分の意思で、リンネのもとに集まっているのだ。
それも、まるで彼を敬愛するかのように。
「少しだけ、手伝ってくださいね」
リンネが微笑み、指先をすっと滑らせる。
――その瞬間。
演習場に存在する、すべての水が動き出した。
空気中に含まれる水分。
演習場の隅に設けられた水路。
地表に残ったわずかな水滴。
そのすべてが、重力を忘れたかのように宙へと浮かび上がる。
そして、リンネの周囲で形を変えていった。
水球が花となり、花が鳥となり、鳥が魚となる。
無数の水が、寸分の狂いもなく連動しながら、幻想的な光景を作り上げていく。
「わぁ……!」
誰かが、小さく声を漏らした。
美しい。
ただ、その一言に尽きる。
それは攻撃魔術でも、防御魔術でもない。
ただ水を操っているだけ。
なのに、誰も目を離せなかった。
「……待って」
そんな中、エルネアが小さく呟いた。
「魔力の消費が……ほとんどない?」
彼女の赤い瞳が、リンネの周囲を見つめる。
魔術師ならば、術の規模に応じた魔力の流れを感じ取れる。
これほど大量の水を操るのなら、相応の魔力を消費しているはずだ。
だが、リンネ自身からは、ほとんど魔力の流れが感じられない。
では、いったい何が術を成立させているのか。
答えは単純だった。
精霊たちである。
彼らはリンネに命令されているのではない。
リンネと一緒に術を作り上げることを、心の底から喜んでいるのだ。
(……これが、精霊術?)
エルネアは息を呑んだ。
違う。
これは、彼女が知る精霊術とはまるで別物だった。
術者が精霊を使役するのではない。
精霊たちが自ら進んで、術者の願いを叶えようとしている。
それはもはや、術というよりも――。
精霊との対話そのものだった。
「では、仕上げです」
リンネが軽く手を握る。
次の瞬間。
ズズズズズッ!!
演習場に存在していた膨大な水が、一斉に集束した。
十メートルを超える巨大な水柱が幾本も立ち昇り、それらが複雑に絡み合いながら、一点へと集まっていく。
「なっ……!?」
生徒たちの誰かが声を上げた。
これほどの水量を、これほど精密に制御する。
それだけでも異常だというのに。
リンネはさらに、それらを圧縮していく。
膨大な水が、手のひらほどの大きさになり、拳ほどになり、やがて指先に浮かぶ一滴へと変わった。
そこにあるのは、透き通った宝石のような水滴。
しかし、その内部には先ほどまで演習場を満たしていた水のすべてが収められている。
「――これが、僕の普段使っている水属性の精霊術です」
リンネが指を弾いた。
パチン。
水滴が弾け、極めて細かな霧となって演習場全体へ広がる。
けれど。
生徒たちの服も、髪も、一切濡れていなかった。
霧は彼らを避け、演習場の床に付着した汚れだけを寸分違わず洗い流していく。
そして、すべてが終わったとき。
そこには、まるで新品のように清潔になった演習場と、澄み切った空気だけが残されていた。
「…………」
沈黙。
誰も何も言わない。
生徒たちは、ただ目の前の光景を見つめていた。
精霊術の実演を見せる。
その言葉から想像していたものとは、あまりにもかけ離れていた。
やがて。
「……あれ?」
リンネが首を傾げる。
「参考になりましたか?」
「…………」
「皆さん?」
「……は、はい!」
ようやく我に返った生徒たちは、引きつった笑顔のまま激しく頷いた。
参考になったかどうか。
そんなことは、もはや問題ではない。
彼らは今、精霊術の頂点というものを目撃してしまったのだから。
◇
授業終了後。
演習場には、リンネとエルネアだけが残っていた。
「……リンネ」
「はい?」
「あなた、自分がどれだけ異常な領域にいるか理解しているの?」
エルネアの表情は真剣そのものだった。
対するリンネは、きょとんと首を傾げる。
「異常……ですか?」
「そうよ」
「でも、精霊術師なら、これくらいはできるものだと思っていました」
「できないわよ」
即答だった。
「世界中を探しても、あなたと同じことができる精霊術師なんて、そうそういないわ」
「そうなのですか……」
リンネは本当に意外そうな顔をしていた。
その様子に、エルネアは額を押さえる。
(……相変わらず、自分の凄さに無頓着なんだから)
彼は自分がどれほど特別な存在なのか、まるで理解していない。
あれほどの精霊術を披露しておきながら、本人は『少し得意なことを見せただけ』くらいにしか思っていないのだろう。
呆れる。
けれど、それ以上に愛おしい。
「……まあ、いいわ」
「?」
「あなたの凄さを理解していない人がいても、私だけが知っていれば十分だもの」
「何か言いましたか?」
「いいえ。なんでもないわ」
エルネアはリンネの前に立つと、そっと彼の銀髪に手を伸ばした。
「今日も素敵だったわよ、リンネ」
「ありがとうございます。エルネア先生にそう言っていただけると嬉しいです」
「……っ」
何気ない一言。
けれど、エルネアにとっては十分すぎるほどの威力があった。
(本当に……ずるい人)
彼女は小さく息を吐く。
この人は、昔からそうだった。
何も知らず、何も求めず、ただ自然に誰かの心を救ってしまう。
だからこそ、忘れられない。
◇
その日の夕方。
自室に戻ったエルネアは、窓辺に立っていた。
夕焼けに染まる空を眺めながら、静かに目を閉じる。
思い出すのは、遠い昔のこと。
まだ幼かった頃の記憶だった。
エルネアは、生まれつき膨大な魔力を持っていた。
同年代の子供とは比較にならないほどの魔力量。
幼い頃から大人顔負けの魔術を扱い、周囲の人間は彼女を天才と呼んだ。
けれど、それは決して幸福なことではなかった。
彼女の力を恐れる者。
彼女の力を利用しようとする者。
彼女を遠ざける者。
誰もが、彼女を一人の子供として見てはくれなかった。
『化け物』
『近寄らないで』
『あの子は危険よ』
そんな言葉を何度聞いただろう。
いつしかエルネアは、誰かに期待することをやめた。
誰かを信じることをやめた。
泣いたところで、誰も助けてはくれない。
そう思い込んでいた。
そんなある日のこと。
彼女の前に、一人の銀髪の少年が現れた。
『君、いつも一人でいるね』
何の警戒もなく、少年は話しかけてきた。
エルネアは答えなかった。
どうせ、この少年も自分を恐れるのだろう。
どうせ、いつか自分から離れていくのだろう。
そう思っていた。
けれど、少年は去らなかった。
『僕とお話ししない?』
『……どうして?』
『君が一人でいるのが、寂しそうだったから』
あまりにも当たり前のように、少年は言った。
その言葉が、エルネアには信じられなかった。
自分の魔力を見ていない。
自分の力を欲しがっているわけでもない。
ただ、自分という人間を見てくれている。
それが、どれほど嬉しかったことか。
そして、別れ際。
少年は、彼女にこう告げた。
『たとえ世界中が君を嫌おうとも、僕だけは絶対に君の味方だよ』
その言葉を聞いた瞬間、エルネアの心に張り詰めていた何かが、音もなくほどけた。
あの日。
彼女の世界に、初めて温もりが生まれた。
それから、ずっと。
エルネアは彼を探していた。
どれほど時間が経っても、あの日の銀髪の少年を忘れることはなかった。
そして現在。
王立英雄学園への赴任資料に目を通していたとき、彼女は一枚の写真を見つけた。
そこに写っていたのは、見間違えるはずもない銀髪の青年。
名前は、リンネ・ユーファラテス。
写真を見た瞬間、エルネアは確信した。
間違いない。
あの日の少年だ。
(あなたはきっと、あの日のことなんて覚えていないのでしょうね……)
リンネにとっては、ほんの些細な出来事だったのかもしれない。
通りすがりに声をかけただけ。
孤独そうな子供に、少しばかり優しくしただけ。
それだけのことだったのだろう。
けれど。
エルネアにとっては、違った。
あの一言がなければ、今の自分はいなかった。
あの日、彼が差し伸べてくれた手があったからこそ、今の自分がある。
(だから今度は……)
エルネアは窓の外から視線を戻した。
(今度は、私があなたの味方になる)
誰があなたを侮辱しようとも。
誰があなたを利用しようとしようとも。
誰があなたを傷つけようとしようとも。
自分が、絶対に許さない。
あの日、少年が自分にくれたものを、今度は自分が返す番だ。
「……好きよ、リンネ」
誰にも聞かれることのない部屋の中。
エルネアは、そっと微笑んだ。
それは、普段の彼女を知る者ならば、決して信じられないほど優しい笑顔だった。
◇
翌朝。
王立英雄学園、職員室。
「おはようございます、エルネア先生」
「おはよう、リンネ」
いつものように挨拶を交わす二人。
エルネアはリンネの姿を確認すると、途端に表情を柔らかくした。
「今日も最高に可愛いわね」
「……ありがとうございます?」
「髪も綺麗。今日も触っていい?」
「ええ、構いませんよ」
「ふふ。ありがとう」
さらり。
エルネアの指が、リンネの銀髪を優しく梳く。
その光景を遠巻きに眺めていた教師たちは、揃って頭を抱えていた。
「……なあ」
剣術科の教師、ガルド・ヴァレンタインが呟く。
「なんですか?」
「俺たちが知っているエルネア先生って、あんな人だったか?」
「いえ、違いますね」
「だよな……」
普段のエルネアなら、朝の挨拶を交わすだけでも一苦労だ。
機嫌が悪ければ、挨拶の声が小さいという理由だけで雷が落ちることすらある。
それなのに、今はどうだ。
新人教師の髪を撫でながら、幸せそうに微笑んでいる。
「……あの新人、一体前世でどんな徳を積んだら【毒薔薇】をあんなデレデレにできるんだ……?」
「さあ……」
誰にも答えは分からなかった。
ただ一つ確かなことがある。
王立英雄学園が誇る最強の魔術講師は、銀髪の新人教師にだけ、どうしようもなく甘い。
そして当の本人は――。
「?」
周囲の視線に気づくこともなく、不思議そうに首を傾げていた。
今日もまた、リンネ・ユーファラテスの平穏な教師生活は、本人の知らないところで波乱を呼んでいるのだった。




