1「スプーン」
夏の緑のにおいを運ぶ微風が庭先から吹いて、私たちの体を撫ぜていく。縁側の端に座って、足をぷらぷらと遊ばせる妹の美音を見つめているのも相まって、この暑さを忘れてしまいそうな気がする。
同年代の子たちよりも酷く小さな体を、橙色の花柄のシャツと水色のデニム生地のショートパンツに包んで、音楽を聴いているかのようにゆらゆらと揺れながら、美音は瑞々しいソーダの棒アイスをかじっている。
私も美音と同じ棒アイスを握っていて、もう少しで食べ終えるところだ。少し溶けかけていて、雫がつうっと腕にまで流れてくる。
「美音、ティッシュ取って」
「えぇ」
「いいから、早く」
美音は嫌そうな顔をして立ち上がり、どたどたと乱暴な足音を鳴らしながら部屋にまで行った。
すぐに戻ってきてティッシュの箱を投げ置くと、座ってからまたアイスをかじる。
私のすぐ側に置かれた蚊取り線香が煙をもくもくと上げている。時々、煙のにおいが鼻をツンと刺激するのだが、別に嫌ではない。
私は先ほど美音が投げ置いた箱からティッシュを一枚だけ摘み取り、濡れた腕を拭いた。
ふと、外壁のある一点を見つめる。そこには薄い黄色のシミがあった。このシミは随分前、私と喧嘩した美音が苛ついて大きな芋虫を壁に叩きつけた時のものだ。芋虫はもちろん弾け散って、体液をこの外壁に染み付かせた。家族は気持ち悪がってこの壁のこの部分にだけ触れようとせず、結局誰も掃除することなく、跡が残ってしまったというわけだ。奇跡なのか、雨が降ってもこの跡は流れ落ちない。
美音だけは虫に触れる。それが彼女にとって良いことなのか、悪いことなのか、私には分からない。
ただ本人は楽しそうに虫を触ったり、時には感情をぶつけたりする対象として利用するので、良くも悪くも虫という存在は近しい場所にあり、決してそれを引き剥がすことはできないだろうと、私は考える。
私が考えている内に、美音がアイスを食べ終えてしまった。彼女は「ちぇっ」と言って部屋へ戻っていく。おそらく棒に「あたり」の文字が見当たらなかったのだろう。
私はアイスの、最後の一口を口に含んだ。
棒アイスはとっくに水っぽくなっていたが、それでも美味なことに変わりはない。ソーダの爽快な味わいが口の中に広がっていく。
棒を確認する。
「おっ、あたりだ」
と、私は美音に聞こえないよう小さな声で言うのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
半袖の白いスクールシャツと、膝頭までの丈の藍色のスクールスカートを履いて、肩に紺色の通学鞄の紐を引っかけた美音が帰ってきた。
「おかえり、美音」
「ただいま、お姉ちゃん」
戸口を潜った美音と軽く挨拶を交わす。私は今日に限ってわざわざ玄関の方にまで美音を出迎えに行った。
「なんかいいにおいする」
「カレー作ったの」
「いいね。お姉ちゃんの作るカレー、美味しいもん」
今日から一週間、両親は旅行に行って家にいない。美音が中学生になってから度々二人は旅行に行くようになった。相変わらず、いつまでも仲の睦まじい夫婦である。
冷蔵庫に入れておけば夏でも日持ちの良いカレーを作ったのは、それが理由。後一つ理由を付け足しておくのならば、単純に美音の好きな料理がカレーだからである。
いや、理由の立場が逆だ。日持ちのことなんて考えずとも、ただ私は美音の好きな料理を作りたかったのかもしれない。
とっくに日の暮れた薄暗い景色を隠すように扉を閉めて、美音は土間の上に足を揃えてからローファーを脱ぐ。ローファーを上がり框に沿うように並べたのを見計らって、私は台所の方へ戻った。
少し後から床の軋む音が聞こえてきた。おそらく美音が歩いているからだろう。
この家は父方の祖父母が昔に建てたもので、古いと言われてしまえば否めない。確かに老朽化も進んでいる。しかし、私たち家族にとっては何よりも大切な場所である。
父方の祖父母は私の記憶がまだ朧げな幼い頃、美音が生まれたばかりの時に亡くなってしまった。だがその思い出は残されている。
例えば居間に置かれた長方形の座卓は、その脚に私が書いた幾つもの落書きが残っているし、畳の間の襖なんかには美音が誤って物を投げてしまった時の小さな穴が残されている。
祖父母は私と美音がそんなことをしても決して怒ることはなく、優しく受け入れてくれた。
祖父の優しい目を、祖母の温かい手を、私は覚えている。
私が思考している内に、いつの間にか部屋着へ着替えた美音が居間の方にやってきていた。
彼女は長方形の座卓の上に何枚かのプリントを並べる。
「親がいないのにこんなたくさんプリント渡されても」
美音が溜め息交じりに言うのが聞こえた。
カレーが出来上がってからしばらく経っているので、私はカレーを温めるべく火を点ける。
数分ほど経過してカレーがぐつぐつと煮え滾ってきたので、火を止める。
私は食器棚から二つの大皿を取り出して、杓文字を手に炊飯器からご飯をよそう。おたまでカレーを掬って、ご飯を片方に寄せているのでそのスペースに流し込む。
座卓の方にまで皿とスプーンを持っていってやる。
「プリント、どけて」
「はーい。どうせ読まないよね? 捨てよ」
私の返事も聞かず、何枚もあったプリントを一気にくしゃっと潰して、美音はゴミ箱へ投げ入れた。
ちらりとだけ見えた表題から察するに、学校紹介的なプリントだったのだろう。他のプリントは分からないが、美音の態度から察するに大事なものはなかったようだ。
美音が座布団を敷いてその上に座り、運ばれてきたカレーを見つめる。スプーンを渡して、私も座布団を敷いて座る。エプロンは付けたままだが、外すためにいちいち立ち上がるのも面倒だったので、そのまま食事をすることに決めた。
「いただきます」
「いただきまーす!」
私は手を合わせて小さく、美音は快活な調子で言って手を合わせた。
リモコンを手に取って、テレビの電源を点ける。適当なコメディー番組にしておいて、私は黙々とカレーを味わいながらそれを観た。
ふと、美音の方を見やる。彼女がスプーンでカレーとご飯を掬って、口に運んでいく様子を眺める。彼女と目が合ってしまう前に、私は視線をテレビへ戻した。それを何度か繰り返す。
ちらちらと美音の食事の様子を窺いながら視聴していたせいか、番組の内容が頭に入ってこない。
「お姉ちゃんさ、今日私が皿洗うよ」
料理を作ってくれた私を気遣ってか、美音がそう話を切り出した。
「いやいいよ」
私が首を横に振るも、
「だってお姉ちゃんはご飯作ってくれたんだし、私も何かしないとさ」
「本当に大丈夫だって」
「でも」
と、美音は引かない様子だった。
「なら明日洗って」
「うーん、それなら明日洗う」
なんとか彼女を納得させた私は、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
沈黙が訪れる。いつの間にか、私より先に美音がカレーを食べ終える。
彼女が流し台にまで皿を持っていく様子を一瞥してから、私もまたカレーの最後の一口を口にした。
「それじゃ、私お風呂入って来るから」
「うん」
美音はそう言って居間を出て行った。一人残された私は、食器を片手に流し台を覗き込む。
カレーの跡が残る大皿の中に、美音が使った桃色のスプーンが入っている。私は手が汚れることも気にせず、大皿に手を突っ込み、そのスプーンを取り出した。
私はゆっくりと自分の口元へスプーンの先を近付ける。口に咥え、舌を動かしてスプーンを舐める。わずかにカレーの味がした。
途端に私の心は痺れた。




