女神とストーカー
月曜日の午前4時30分。渋谷駅、始発の山手線。
車内はまだ閑散としていた。そこに漂うのは、これから始まる地獄の一週間をいち早く感じている人間たちの、泥のような絶望。座席に疎らに座るサラリーマンたちは、まるで魂を吸い取られたゾンビのようだ。
「はぁ~、哀れな人間諸君! 実に可哀想で、実に愛おしいやん!」
そんなゾンビたちの真ん中で、一人だけ、五月晴れのように爽やかな笑顔を浮かべている奴がいた。
その正体は天界の自称エリート天使、笑望使である。
笑望使は心底ウキウキしていた。それもそのはず、彼は週末の二日間、人間界のあらゆる娯楽を夜通し遊び尽くした帰りなのだ。神聖な光輪と純白の羽をもつ高潔な天使像からはほど遠い存在だ。人間には天使の声も聞こえなければ、姿が見えないことを良いことに、自由気ままに車内で悪態をつきまくっていた。
「週明けから労働とか、どんな罰ゲームやねん。いやー、天使に生まれて本当に良かったわ。神様ありがとなー!」
透明化した状態で、吊り革にぶら下がりながら高みの見物を決め込む。
しかし、その全能感に満ちたドヤ顔は、次の瞬間にフリーズすることになった。
ガタゴトと揺れる電車の、ちょうど向かいの席。
そこに、一人の女性が座っていた。
「…………っ!?め、女神さまや!女神さまがおるやんか!」
笑望使の心臓が、天界の鐘の音のごとく激しく鳴り響いた。
息をのむほどの美しき女性だった。透き通るような白い肌に、夜の帳を切り取ったかのような、見事な黒髪ロング。そのビジュアルは、笑望使のストライクゾーンのど真ん中、否、ピンポイントで世界の中心を射抜くレベルだった。
だが、何かがおかしかった。
「……死んでる?」
そう、彼女の目は完全に死んでいた。
――鬼塚ひとみの目の下には、世紀末の戦士のようなドス黒いクマが刻まれている。ハイライトの消え失せた瞳は、宙の一点を見つめたまま微動だにしない。
彼女はこれから出勤するゾンビではない。10日間の徹夜デバッグを終え、シャワーを浴びるためだけに一時帰宅する、限界を超えた『プログラマーという名の英霊』だった。
ガタゴト、と虚しく響く電車の音。
笑望使は吊り革から飛び降り、吸い寄せられるように彼女の目の前へと移動した――。
近くで見るその女性は信じられないくらい美しかった。
笑望使は、彼女に見とれていたが、とある駅に着くと、急に彼女が動き出し電車を降りて行った。
電車を降りて行く女神さまの背中を見送り、雷に打たれたように立ち尽くす笑望使。
――そして、運命の出会いから1か月後。笑望使は天界で頭を抱えていた。
「うーん...」
「どうした?人間界で犬にでも噛まれたのか?」
そう声をかけてきたのは、唯一の友人である笑友使だ。
「いやぁ、実はある人間のことで悩んでいてね」
笑望使は真剣な顔で答えた。
「人間?何でお前が人間のことで悩んでるんだ?馬鹿なのか?」
笑望使は笑友使の言葉を無視して、1枚の写真を手渡した。
「これを見てくれ」
「何だこの写真は?映っている人間は誰なんだ?」
「彼女の名前は『鬼塚ひとみ』。俺の女神さまだ」
「キモイぞお前。この写真はどうした?」
「ふっ。撮ってきたに決まってるやろ。天使だぞ。不可能なことはない」
「本人に内緒でか?」
「何か問題でも?」
「...お前バカか?そもそも天使規約違反だぞ」
「そんな事はどうでもいいんだよ。ひとみさんは笑わへんねん。ぜんぜん」
「ひとみさん?」
「話を聞いてへんかったんか?彼女の名前や。『鬼塚ひとみ』やって、言うたやろ!」
「で、何で名前呼びなの?」
「『鬼塚さん』って他人行儀だし、名前が硬いし、何より全然可愛くない!! あんな儚げで可憐な美しき女性に向かって『鬼塚さん』なんて呼べるわけないやろ!アホか!」
「他人だろ。お前。それ以前に種族が違うぞ」
「だから、そんなことはどうでもええの!ひとみさんが笑わへんって言うてんねん!」
「これ見て。この1ヶ月間、ひとみさんのことを調べてん。そしたら、ひとみさん、1回も笑ってないねん」
「お、お前、何これ?『マル秘、ひとみさんの全て。汗と涙の調査結果報告書』って」
「報告書や!...で、気になって、アカシックレコードで過去も調べてん。そしたら5年前ぐらいから一回も笑ってないねん。どう思う?絶対おかしいやん!そう思うやろ?」
「よし、行こう」
「一緒に来てくれるんか!?」
「警察に」
「なんでやねん!」
「当たり前だろう!お前、完全にストーカーだ。今住んでいる家、身長、体重、趣味、好きな声優さん、ゲームまで。それにこの数年間の行動パターン、学生時代の部活や実家の住所に至るまで調べてるじゃないか!」
「ふっ。ここまで調べるのに苦労したんやで」
「何で威張っての!」
「やかましい。天使に人間界の法律は適応されませーん!あっ!」
笑友使は無言で笑望使が言い終わる前に、笑望使の左頬を殴った。
「な、何すんねん!」
「殴られただけで、済んだことを神様に感謝しろ。……ん?ちょっと待て。この報告書に書いてあるスケジュールは何だこれ。AM 5:00出社、翌AM 4:00退社……これが月曜から日曜日までびっしり……? 睡眠時間は?」
「デスクでの気絶が平均2時間や。彼女、高校卒業してから5年間、ずっとこの『デスゲーム』を戦い続けてるんや!だから笑い方なんて忘れてしまってんねん!」
「それに、なんだ「エナドリはレッド○ル派」とか、たまに「アリナミン○」というメモは?」
「あ、それ!よう気づいたな。体壊されたら困るからな!こっそり差し入れしてるねん。……って、そこやない!問題はどうしたらええかってことや」
「知るかぁ!お前は関係ないだろが!」
「なぁ、俺はどうすればええかな。惚れた女のために何かしたいんや!」
「だーかーらー、お前に何の関係があるんだよ」
「やっぱり!ひとみさんの笑顔を取り戻すしかない!それが、それこそが、俺が生まれてきた意味や!」
「人の話聞いてる?」
「そうと決まれば、行かなあかん。ひとみさーーん」
「あ、ちょっと待て!ダメだ。あいつを一人にしたら、何をしでかすかわからない。行くしかないか...ちょっと面白そうだしな」
深夜のオフィス。天界からの転移で容易にオフィスに侵入した二人の天使の姿があった。
「な!よー見てみ。笑友使。今、何時やと思う。深夜3時やで。女神さまと社畜共のキーボードを叩く音が響いてるやろ」
「頑張っている人たちに謝れ!」
「ひとみさん。今日も美しいなぁ~」
「お前、何しに来たんだよ」
「そうや。ひとみさんの笑顔を取り戻すんやった」
「何か当てでもはあるのか?」
笑望使はスッとキーボードを指さした。
「あれを使うんや。あれに入ってひとみさんに触れてもらうんや」
「変態だなお前」
「もとい、キーを操作して、ひとみさんが見ている画面に、渾身のギャグを映し出して笑ってもらうんや!よう見とけよ。笑友使」
自信満々で笑望使はキーボードに憑依した。シュン、と光の粒子となって、ひとみが愛用するキーボードへと溶け込んでいく。
「さあ、モニターを見て、ひとみさん! これが天界のエリートである俺のギャグや!」
鬼塚ひとみのタイプとともに、モニターに笑望使の渾身のギャグが表示された。
そして無音の世界が広がった。
その静粛を断ち切るかのように、鬼塚ひとみが無言ですっと立ち上がり、キーボードをゴミ箱に捨てた。




