はじまり
ガーベッジ街の片隅にテラの曽祖父の頃からやっている小さな診療所がある。
石造りの建物に重たい木のドアがついていて、手入れされていない蔦が絡みつき、一見診療所には見えない。
まぁ無免許な医者なら看板も出せないからちょうどいいだろう。
テラは自宅兼診察室でゴロンと横になり、うとうとしていた。今日も、誰も来やしないだろう。今日は街の炊き出しがあるから晩飯にはありつける。街はまだカタツムリの噂でもちきりだろうな。
カタツムリの酔っぱらい事件から半月経とうとしているが、カタツムリは断固として大きなねずみ頭の蜘蛛が街中に消えていったと言い張っていた。
一人でガス灯の守は恐ろしくて出来ないといい、護衛を付けるのを希望したため、護衛は入れ歯が担当した。
みんなはカタツムリが幻を見たことにし、この話に決着をつけようとしていた。
しかし、ひとつ大きな疑問がある。
ねずみが行方不明なのだ。
テラは寝返りを打ち、カタツムリの見た幻の事を考えた。
カタツムリは患者で診たことがあるが、決して隠れて酒を飲むようなタイプではない。
しかし、ねずみ頭の蜘蛛というのは信じがたい。
単純に考えて何かを見間違えたのではないか?
夕飯までもうひと眠りしようと、もけもけした毛布を自分にかけなおしていたところ、バタンとドアが開いた。
(ああ、鍵を締め忘れたんだな)と考える間もなく、郵便屋がズカズカ入って来た。
「先生に手紙だよ」
郵便屋はテラの痩せた腹の上に手紙を乗せると、くたびれた体に気合いを入れるようにカバンをぐいっと引き上げた。
「先生、街は大変だ、寝てる場合じゃないぞ」
そう言うと再びズカズカとドアから出ていった。
手紙? 珍しいこともあるものだ、私みたいなヘボ医者に用事があるとは。
テラはズボラにも寝転んだままゴワゴワとした封筒を開けた。
中には羊皮紙が一枚と大きなビンが入っていた。
羊皮紙にはこう書かれていた。
「街に奇病が発生した。
我々はこの奇病を発見者の名に敬意を表し、マルツオネス病と名付けた。
初期症状として妄言があげられる。
第二症状で目が赤く濁る。
もっとも恐ろしい末期症状では、体から頭が落ち、落ちた頭に足が生え、まるで蜘蛛のようにごそごそと這いまわるようになる。
こうなると人を襲い食べ始めるため非常に危険である。
予防薬トレアンを服薬させることができれば進行を抑えることが出来る。
各診療所にトレアンを無償で配布する。なお、飲ませた者たちの追跡調査に協力せよ。」
奇病?
テラはベッドから起き上がった。
確か先ほど郵便屋も言っていたな。
街は大変だ、と。
私のような端くれの医者にもこのような連絡が来るとは。
政府はよほど警戒しているに違いない。
大きなビンを開けると、中にはショッキングピンクのカプセルが入っていた。
これがトレアンか?なんとも石油臭いにおいがする。
こんな薬をみんなに配れと?
重い体を動かし、テラは診察室の机に向かった。
マルツオネス病……。
末期では頭が落ち人を食うようになるとはなんとも恐ろしい。
私は蜘蛛のようにごそごそ這いまわるという一文を見つめた。
カタツムリが言っていたねずみ頭の蜘蛛とは、もしかしてマルツオネス病の患者ではないだろうか?
その話を聞いてからもう半月は経っている。
これはもしかしてとんでもない事になっているのかもしれない。
そうこうしているうちに、患者が来た。
「……おはようございます、先生」
「みみずさん、おはようございます 今日はどうされました?」
「奇病の噂、お聞きになりまして?わたくしもう怖くて怖くて」
みみずは震えている。
「街ではもう噂でもちきりですよ、マルツオネス病って言うんですか?治るんですか?」
「みみずさん、ご心配なさらず。政府が先導しております。政府を信用なさってください」
テラは握っていたトレアンの薬瓶を後ろに隠した。
まだ、日はある。
確実に安全な薬とわかるまで皆には渡さないでおこう。
「……ええ 先生がそうおっしゃるなら」
みみずはなるべくくねくねしないよう、おしとやかに帰っていった。
次に入ってきたのは目深にフードをかぶった見覚えのない男だった。
「……先生、折り入って相談がある。」
その男はフードを脱いだ、首に巻いている真っ赤なスカーフがよく似合う。
「私は親指という名だ、テラ先生の事は調べさせてもらった」
テラは少し警戒した顔をした。
「一体何事でしょう」
「先生、誤解しないでくれ、これには事情があるんだ。
政府から手紙が来たことと思う。
マルツオネス病は薬品工場で作られた人口病だ。
オレの弟が意図せず関与してしまった。
トレアンが危険な薬だと街の診療所へ警告しに、回っているが、だれも信用してくれない。
先生、頼む。トレアンのカプセルの中身を捨てて、プラシーボつまり偽薬を詰め、地区に配布してくれないか?」
テラの手の中にあるトレアンのビンが急に重たくなる感じがした。
このトレアン、一体なんなんだ。
親指は再びフードをかぶり、裏口へと向かった。
「……くれぐれも先生、服用するんじゃないぞ」
親指はそう告げると裏口の錆びた鉄製のドアを開け、来たとき同様、すーっと出て行った。
テラは薬瓶を注意深く見た。
(医者は服用を禁ずる)
と書いてあった。
テラは流しの上でカカプセルを開けてみた。
中身は真っ黒のどろどろした臭いタール状の液体が入っていた。
一体なんなんだ?
テラはしばらく悩んでいたが、 意を決し全てのカプセルの中身を流しに捨てた。
シンクの上に落ちた液体がジュッと嫌な音を立てる。
テラは暖炉の炭を粉々につぶし、カプセルに詰めた。
これでプラシーボの完成だ。
私の判断が間違っていたらどうしよう……。




