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22.

 ミストに着いたと気付いた瞬間、急に楽になった。

 少なくともお腹を抱えて呼吸ができる。

 いつもの席に座っていたから、そのままカウンターテーブルに顎を乗せて深呼吸する。

 さっきは鳩尾から何かが飛び出した感触があったけれど、よれよれTシャツはいつも通りだ。いったい何が起こったのだろう。


「間に合ったようだな」


 カウンター内からのテンシさんの声に顔を上げる。


「ああ、お兄さんも元気そうで良かった良かった」


 水を持ったヒサくんの向かう方向へ目をやれば、顔色の悪いアツが腕を組み眉を寄せてテーブル席に座っていた。

 壁に寄りかかって、まだ辛そう。

 いや、この様子を見る限り元気ではないでしょうに。


「ヒサ、少し近い」


 何やら嬉しそうにしているヒサくんに対して、店長から咎めるような声がかけられる。肩を竦めたヒサくんは、


「俺たちを睨む余裕があるから、てっきり。あ、それともあれですか、独占欲!」

「ヒサ」


 今度はテンシさんに地を這うような声を出されて、ようやくヒサくんはテーブルから離れた。

 相変わらず距離感がおかしい。外でアツと遭遇した時はむしろ一歩退いた雰囲気だったのに。


「純さんはいつものカレーね。お兄さんはどうします?」


 いきなりの内容に面食らう。食べるの? がっつりと?


「体力を取り戻したいですからね」


 いつも通りに穏やかに笑った店長が、隣のカウンター席に座る。そう言われればお腹が減っている。


「あなたも。まずは食べてから話をしましょう」


 話を振られたアツはテーブルを指でトントンと叩いて数秒考えてから、


「どうしますも何も、わたしはメニューを知りませんよ。饗場さんと一緒のもので」


 大きく溜息をついて目を閉じた。

 完全なる外行きモードの口調だけれど、あからさまな不快感を出している。珍しい。


「それもそうですね。マスターの分も含めて、ダブルカレー3つ入りまーす」


 やっぱりどこか嬉しそうなヒサくんがフライパンを取り出す。あれ?


「ヒサくんが作るの?」

「テンシさんは聞く方みたいなんで。それに、俺はもう黙ってろ、って2人して怒ってるのが見えてね」


 ちらりと2人に目をやってもう一度肩を竦めてから、ヒサくんは奥の冷蔵庫へと向かっていく。

 アツに近寄るのは怖い。

 顔を合わせたり話をしたりするのにも何となく気が乗らなかったから、私はカウンターテーブルに身を預けたままヒサくんの動きを目で追った。

 少しの間でいい、何も考えずにいたい。


 出されたカレーを前に、ちょっと逡巡した。

 アツ、顔色あんまり良くなかったけれどカレー大丈夫かな。そもそもあんな騒動の後に食べられるのかな。

 振り返るとアツもこちらを見ていた。

 私がスプーンを握っているのを見たからか、少し笑ってスプーンに手を伸ばした。

 さっきより顔色は良いようでホッとする。

 横では、既に食べ始めていた店長がヒサくんにダメ出しをしている。厳しいことだ。

 いつも通りのミストの雰囲気に、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

 さっきの出来事が少し遠くなったような。

 黙々と食べてスプーンを置いたら、カウンター越しにスッとグラスを出された。

 これは……お酒?


「いいから飲んでくださいね。飲んで落ち着いた方がいいんです。饗場さんの場合、強いお酒を飲むと安定しやすい」


 アツに水のお代わりを注ぎながら、店長が頷く。

 店長の言わんとすることは何となく分かった。

 お酒は気を楽にする。あの騒動とは正反対の方へ気分を持っていける。

 そういうことだろう。


「ちなみにそれ、ウィスキー・ミストです」


 ヒサくんの得意げな顔に、肩の力が抜けた。

 なるほど、Mist(ミスト)ね。

 私は一つ頷き、ありがたくグラスを手に取った。



 ***



「さて、種明かし……というよりも諸々の説明かな、それをしていきましょうか」


 PRIVATEの扉の奥からA2サイズ大のホワイトボードを運んできた店長。

 壁際の4人掛けテーブル席を選んで、ボードを立てかけてから私とアツを呼んだ。

 怖々スツールから降りたら、店長に、何も起きないから大丈夫です、と微笑まれた。

 確かにここでは大丈夫という気になる。お酒を飲んで落ち着いたのも良かったのだろう。

 ここに来た時よりも随分と気が楽だ。

 店長に頷いて、アツと向かい合うように座る。

 テンシさんは隣の2人掛けテーブルに腰を下ろした。

 ヒサくんはカウンター内で後片付け。

 さて、と再び呟いて、店長がホワイトボードへ絵を描き始める。

 ボードの上部に人をかたどったイラストが2つ並んだ。


「まず、僕たちの(からだ)は、身体(しんたい)精神体(せいしんたい)というものからできています」

「店長、ストップ、ストップ。高等院までで習ったことのない単語が出てきたんですが」


 キュッキュイッとペンを鳴らしながら書かれた文字に、さっそくついていけなくなった。

 体と身体は同じものではないのか。


「公式研究はされていませんし、一般的には学ばないことです。でも、一部では存在が知られているんですよ? 例えば、医学分野」


 テーブル上のアツの手がピクリと動く。


「まだそこは置いておきましょう。存在が知られていなくても、饗場さんたちはそれを使ってお仕事をしていますよ」


 人体情報を抜き出して機械に組み込むこと?

 首を捻っていると、店長の横にフローティングウィンドウが出現した。

 テンシさんは顔色を変えないけれど、私とアツは息を呑む。

 今まさに研究している、脳波だけでのウィンドウ呼び出しそのものに見えたからだ。

 カウンターへ身を乗り出したヒサくんが、大きく挙手して喋りたいアピールをしている。店長が頷いた。


「俺はそんなに頭良くないから分からないんですけど、今のそれって難しいことなんですか?」

「難しいも何も、まだ完成していない技術です。ほら、前に私の研究内容を話したことがありますよね?」

「あ、フローティングウィンドウがどうの、ってやつですか」


 それは覚えていたようで、ヒサくんがコクコクと頷いている。

 理論の仮説はあるけれど、まだ基礎の研究も終わっていない。実用化どころの話ではない。


「店長、一緒に研究しませんか?」

「饗場さん」


 アツがテーブルの下で軽く蹴ってきた。他人に見えないように蹴るのはどうかと思う。


「研究が更に進むよ?」

「そういう問題ではないでしょう?」


 こめかみを押さえてしまった。大丈夫、冗談だよ。

 けれど、厳重なセキュリティで守られているはずの情報や技術が外部に存在しているのだから、何かある前にこちらに引き込みたいというのも本音だ。


「心配なさらずとも、僕がこれを悪用することはありませんよ。これは僕個人の能力によって動かしているだけですので、汎用性は全くないのです。饗場さんが目指しているのは、同じようなことを誰でもできる技術ですよね」


 動きもなくウィンドウを消して、店長はホワイトボードへと向き直った。

 質問する間もなく店長の話が再開される。


「脳波というのは、精神体の特性の1つなんです」

「えぇと、脳の機能の一部が精神体というものに含まれている、という理解でいいですか?」

「大雑把に言ってしまうとそうです。脳波は、身体にある脳から発せられ、一旦精神体を経由して、また身体へと戻って仕事をする。あるいは、精神体に残り様々な作用をもたらす」


 ボードのイラストに線を描き加えながら店長は説明を続ける。


「検出しやすいのは身体のものよりも精神体のものです。ですので、饗場さんたちは体の脳波を測っているつもりで、身体の脳ではなく精神体の脳に相当する部分を測っているのですね」


 ううむ、ややこしい。

 身体にも精神体にも脳の機能があって、合わさったものが一般的に脳だと認識されている、ってことか。


「でも、そもそも精神体というものを見たことがないのですが」

「ええ、基本的には不可視です。ですので、普通は精神体の存在自体に気付かない。そうですね、まずは精神体の話をしましょう」


 ボード消しで手早くイラストを消した店長。


「精神体と身体は、影のような関係性にあります。身体が動くのに合わせて精神体がついてくるような状態です。あるいは、身体に纏った香りのようなものとも言えます。地面との境だけで繋がっているのではなく、全体が重なる感じですね」


 再びボードへ向き直った店長はペンを鳴らしながら説明を続ける。

 ボードに人のイラストが描き直された。


「不可視というだけじゃなく、実体もないってことですか?」

「身体で触れることができない、という意味では実体がないことになりますか。気、オーラ、霊体、といった呼ばれ方もされますから、物理的な存在ではないと考えてください」


 ああ、そちらの方がイメージしやすい。


「精神体の特徴は様々で、例えば身体との接続が弱いもの……身体に対して精神体が小さいもの、あるいは大きいもの……一部分だけが大きいもの……色が付いているもの……」


 次々とモデルが増えていく。

 バリエーションが多いのか、横に描き連ねていくうちに右端まで到達してしまった。


「脳波だけでなく、体の機能の一部は精神体が担っています。手のように何かを掴んだり、目のように何かを感知したり、耳のように音を拾ったり。そんなことも身体とは独立して行うことができます。様々なものがありすぎて、ここでは紹介しきれない程です」


 (かすみ)のような存在がそんなことまでできるのか?

 やっぱりピンとこないけれど、アツの方は特に難しい顔をしているわけではない。

 テンシさんも、カウンターの中にいるヒサくんも、理解不能という様子はない。

 置いて行かれているのは私だけか。


「例えば、異様に耳の良い人がいますよね。彼らは身体の耳とは別に精神体の耳を使いこなしているので、通常よりも遠くの音を拾うことができるのです。

 同じように耳の例でいくと、どこまで高い音を聞き取れるか、といった性能差は精神体の力に左右される部分が大きい」


 通常よりも高性能な場合はそれがその人の精神体の特徴かもね、ってことかな。


「さて、ここからが本題です。中には『変異種』とでも言うべき、異常な能力を持つ精神体があります」


 通常の遺伝では出てこない性質を獲得するのが突然変異だ。

 しかし、精神体の変異とは一体どういうものなのだろう。


「そういった異種の能力は『外能』、それを持つ人は『外能者』と呼ばれています。外能の例を挙げてみると、他の精神体に溜まった感情を吸い取るもの……他の精神体の思考を読み取るもの……他の精神体に蓄積された過去の情報を読み取るもの、等があります」


 イラストを描き加えながら店長は話し続ける。


「他にも、何かを動かすもの……何かを壊すもの」


 最後の一言で思い至る。

 私はおそらく、何かを壊す能力を持っているのだ。



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