8.
今日はいつも通り15時過ぎの出勤。
ジェームズとのチャットミーティングの予定が23時、だから帰るのは24時くらいかな。これもいつも通りだ。
そろそろ梅雨も終わりそうだ。今日は珍しくカラッと晴れていて日差しが眩しい。
湿った暑さではないから過ごしやすいと天気予報は言っていたけれど、暑いことには変わりない。
キャップを被ってきたのは正解だったけれど、リュックサックに詰め込みっぱなしのカーディガンは邪魔だ。
いいかげん置いてこなければ。
構内へ入ってから、少し横道に逸れる。
門から研究室へ向かう道には自動販売機もミニショップもなく、従って路肩のゴミ箱がないのだ。
適当なゴミ箱を見つけ、後ろ手にリュックの脇ポケットを探り、来る時に飲み干したペットボトルを捨てる。
さて仕事するか、と踵を返すと、道を横切るアツの姿が見えた。
今日はポロシャツにジーンズ、スニーカーと、随分ラフな格好をしている。
真夏ですら襟付きワイシャツにスラックスを着るアツだ。今日のような姿は珍しい。
「アツ、こんな所で何してるの」
会議でないことだけは確かだ。
「あ、あいちゃん、おはよう。うん、そろそろ袋がいっぱいだったから焼却炉にね」
「ああ、なるほど」
アツが言っているのは、産業廃棄物業者へ気軽に渡せないような書類の残骸を、物理的に抹消してきた、という話だ。
どこぞの教授がアナログ好きで、決裁書類や会議資料など何から何まですべて紙媒体でないと受け付けてくれない。
紙の良さは認める。
特に記録媒体としてはデータよりも堅牢だ。だからこそ学術誌や専門書は定期的に紙書籍の発刊がある。
重要な情報だから紙で出せというなら従おう。
けれど、単なる打ち合わせ資料をプリントアウトして、まとめて綴じる等の体裁を整えて、会議室までわざわざ運んで、使用後は細断して、嵩を増した紙屑を捨てに行く……この工程を考えてもらいたい。
正直面倒だ。
徒労だ。
だいたい、10年単位で残しておきたい情報などそうそうない。1年2年残すだけなら電子データだけで充分なのだ。
私が生まれた頃のようにデータ管理が不安定な時代ならともかく、現代でそこまでやる人間は数少ない。
おそらく彼らは、データがすべて飛ぶなどの手痛いダメージを30年前に経験したのだろう。だから未だに恐れる。
気持ちは分からなくもないけれど、付き合わされるこちらの身にもなってほしい。
雑用をやらされている研究生くんは、
「そんなに古いものが好きなら石版にでも刻んでおけ」
と呪詛まで吐いている。
彼のそういう極端なところ、嫌いではない。そして私も同感だ。
ただ、アナログだアナログだと文句を言ってはいるものの、世間一般ではまだ紙が主流だ。
院は技術が一世代ほど先を行っていると言われている。だから世の中から見ると変なのは我々の方で、某教授はごく普通なのだろう。
ここにいると世間とは乖離する一方だ。
別に問題ないやと思う人間がここで快適に生きていく。あるいは双方のバランスを取れる人間が世渡り上手として生きていく。
言うまでもなく、前者が私で後者がアツだ。
ともあれ、そんな事情から書類屑は発生する。
ある程度溜まったからまとめて焼却してきたらしい。
今日は研究生くんがお休みだからアツが出向いた、と。
私が雑用をしないから准教授が時間を割く。他の研究室ではあり得ない光景だろう。
アツは帰り道で手ぶらだし、今更私が何を手伝うもない。向かう先が同じだから、並んで構内を歩いていく。
角を曲がると、2人の壮年男性が立ち話をしているのが見えた。
アナログを貴ぶ教授がいる一方、技術最先端を駆け抜けたい教授もいる。
書類すべてを電子データで済ませるのは当然のこと、会議はオンライン前提。
セキュリティは汎用化された製品だけでなく実験段階のものもすべて駆使。
出退勤・行き先・仕事・休憩などIDバッジから情報を同期させ、リアルタイムで研究室に表示。
標準デバイスが新型になる度に全員に支給。
他にもあらゆる部分で最新技術を導入していると研究生くんが噂していた。
費用の概算でもしようかと考えたこともあったけれど、うちと関係なければどうでもいいやとすぐに放り投げた。
アナログとハイテク、凸凹コンビでかえって仲良くなりそうでもあるけれど、まぁ順当にそりが合わないようだ。
穏やかに話し合っているように見えても油断してはいけない、巻き込まれる前に逃げるべし……研究生くんたちの間では口伝で広まっているらしい。
そんな2人が目の前にいる。
私とアツの足が同時に止まる。
「どうだろうあいちゃん、僕、少し遠回りして気分転換したいんだけど」
「奇遇だね。私もアツにそうしたらどうかと提案するつもりだったんだ」
誰かに聞かせるつもりもないけれど言い訳がましく口にして、すぐに別の道へと歩を進める。
下手に関わって面倒なことになりたくない。
させたくない。
顔の利くアツはこういう時に大変だ。周りの方から避けてもらえる私は本来関係ないのだけれど、アツに付き合う形で道を逸れた。
普段はあまり足を運ばない場所を歩く。
アイデアが降ってくることも多いから、散歩は好きだ。アツも似たような嗜好がある。
今も大回りした道筋を選んでいるけれど、これは趣味の問題ではなく、単に、念には念を入れているだけなのかもしれない。
「ミコち、じゃーねー」
「また美月に行こうな!」
建物の向こう側から、はしゃぎ声が聞こえてくる。
わらわらと出てきた人たちは、見た限り他学部の研究生たちか。
この辺りは他学部の研究室が集まっているから、その学部の子たちが出没する……らしい。
一緒に歩いているアツに今教えてもらった。
こちらへ来たら面倒だなと思ったけれど、キャイキャイはしゃいだ研究生たちは私たちと反対側へ歩いて行く。
少し詰めていた息をそっと吐き出した。
その後から、1人の男がふらりと姿を現した。
先程の集団と同年代のようだから、この人も研究生か。その姿にどこか見覚えがあるような気がして、何となく目で追う。
ああ、分かった、ミコトくんか。
ミストでの華やかな雰囲気とは違うけれど、確かにミコトくんだ。
そうか、ここの研究生だったのか。ただでさえ研究生たちと接触がない上に他学部ともなれば、知らなかったのも頷ける。
1人納得していたら、そのミコトくんがガクンと膝を折った。
「ミコトくん!?」
そのまま倒れ伏したのに驚いて駆け寄る。
他に人気のない中、放っては置けない。気持ち悪さをこらえつつ膝をついて顔を覗き込むと、いつも以上に顔が赤い。
荒い息の合間、ぐうっ、と喉の奥から絞り出したような唸り声がしたと思ったら、
「苦しいから離れてっ」
と腕を振られた。
そうだ、ミストでは近くにいても問題なさそうだったけれど、倒れている今は私の気持ち悪さが辛いのかもしれない。
急いで2メートル程離れてからアツに彼の介抱を頼む。
こちらをチラッと見てから私が跪いたのと同じ位置にしゃがみ込み、ミコトくんと一言二言言葉を交わして肩を貸し立ち上がった。
「保健管理部へ行ってくるよ。あいちゃんは戻っていて」
アツの言葉に素直に頷く。けれど、何だか少し怖い。
どこか普段とは違う空気が流れているのだ。
私とアツを交互に見ているミコトくんは、苦しそうな呼吸をしているのに眉を片方上げて「不審です」と顔に出している。アツからは外行きの笑顔が消えている。
普段物怖じしないタイプの私でも怖いと感じるのだから、当人同士は何を感じ取っているのやら。




