十二.母との別れ
関白の正室、北政所とあろうものがとあきれられるかもしれない。けれど私は身分などかなぐり捨てるような気持ちで廊下を駆けた。
「お茶々様……」
母上の部屋の前に控えていた侍女が私に気づいて泣きそうな顔になる。彼女は私が幼い頃から母上に仕えているので、私のことを北政所となった今でも名前で呼んでくれるのだ。
「母上は?」
「今、お医者様がそばについておられます。もはや意識も朦朧とされていて……」
私の問いかけに、侍女は目に涙を滲ませながら言った。
「ですが、きっと天長院様にはお茶々様がいらっしゃったことがお分かりのはずです。おそばについてさしあげてくださいませ」
「……ああ」
頷くと、侍女は扉を開ける。薬の匂いがする室内、その中央に敷かれた布団に、母上が横たわっていた。傍らには医者が控えていて、私を見て一礼する。そして母上に呼びかけた。
「天長院様。一の姫様……お茶々の方様が参られましたぞ」
その呼びかけに答える声はない。私は室内に入り、医者の向かい側に腰を下ろした。
「……母上」
布団の上で目を閉じる母上。その顔は最後に会ったときよりもずっとやつれて青ざめており、すっかり病人の様相を呈していた。力なく投げ出された手を握るとひんやりと冷たく、私の手を握り返してくれることもない。今にも絶えてしまいそうな弱い、急くように浅い呼吸が聞こえた。
「母上……私です、茶々が参りましたよ」
呼びかけるけれど、母上の反応はない。
最後に会ったのは秀政と完子の婚儀のとき。母上の顔色を案じていた秀次様の勧めもあって、養源院へ行こうとはしたのだ。けれどそのたびに、あまり身体が丈夫ではない千代が体調を崩したり、秀次様への謁見に正室として同席したりと色々とあった。結局あれから一度も養源院へ行くことのないまま、母上は危篤になってしまった。後悔してももう遅い。前世の母と別れたときのように、満足に言葉も交わせないまま母上を失ってしまうのだ。同じ轍を踏みたくはなかったのに、私の慢心が招いた結果だ。
「母上……母上っ……」
それでも何度か呼びかけた。手を握り、さすって、母上を呼んだ。
「……茶、々……?」
何度目か分からない呼びかけのあと。握っていた手がわずかに動き、声がした。沈痛な面持ちで俯いていた医者がはっとしたように身を乗り出す。
「天長院様っ」
「――母上!」
母上がゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない虚ろな目がゆっくりとではあるが動き、私の顔を捉える。
「茶々……」
私の名前を呼び、母上は穏やかに微笑む。けれど呼吸は浅く、今にも絶えそうだ。おそらく、こうして母上と話せる時間はそう長くない。それならば、言いたいことはきちんと伝えなければいけない。
「母上……私たち姉妹を産み育て、慈しんでくださり、ありがとうございました。母上の娘として生まれてくることができ、私は幸せにございます……!」
「……」
私の言葉に、母上の笑みは深くなる。
「……私こそ、そなたには、感謝せねばならぬ……あの日、勝家様とともに、散ろうとした、私を……止めてくれて、ありがとう……」
「っ……」
「そなたと、初と、江の、成長を……見守ることができた。孫を、抱くことが、できた。……孫同士の、婚儀も、見ることができた……私は、この上なく……幸福であった」
浅い息を吐きながら、母上は目を細めた。本当に幸せそうな顔だった。
「そして……こうして、そなたに、手を握られ……長政様のもとへ逝くことができる……本当に、幸せじゃ……ありがとう……茶々」
「母上……!」
噛みしめるように、ゆっくりと、母上は言う。母上の心からの言葉に、私は涙が止まらなくなった。
「茶々……幸せになれ。子供たちと、健やかに……幸福に、生きよ。私も、長政様も……それに、勝家様も、そなたたちの、幸福を、願っておる」
「――!」
涙が溢れて頬を伝う。止まらない。
「初と、江にも……伝えよ。姉妹それぞれ……生きる場所は、違えども……そなたたちは、私の誇りじゃ……幸福にと、伝えよ……」
「はい……はい、母上……!!」
私は何度も何度も頷いた。年甲斐もなく泣きじゃくる私を、母上は優しい目で見てくれている。こんな風に母上に見てもらえるのも、あと少し。そう思うと、余計に涙が止まらなかった。
それから二日、母上は小康状態を保った。意識が戻ることはなかったけれど。
そして、私と同じタイミングで文を受け取ったらしい初も駆けつけてくれた。さすがに江戸にいる江は間に合わなかったけれど、私と初は母上の手をしっかりと握ってその最期を看取ることができたのだ。
慶長八年末。私たちの母、お市の方は旅立った。史実よりもずっと長く生き、孫を腕に抱き、最期は我が子の手のぬくもりを感じながら、長く別れていた父上のもとへと旅立っていったのだった。




