異世界での出会い 前編
その日の帰り道は、いつもよりわずかに遅い時間となっていた。
短大の講義を終えたミサキは肩に掛けたバッグを押さえながら、駅へと続く道を早足で歩く。空はすでに夕暮れの色へと染まり始めていた。
「まずいな……。今日は思ったより遅くなっちゃった」
スマートフォンを取り出し、時刻を確認する。まだ帰宅が困難になるほどの時間ではない。
しかしミサキは、暗くなる時間帯をやや苦手としていた。幼い頃から、夜道を一人で歩くことに抵抗があった。特に、人通りの少ない場所は得意ではない。
「今日は寄り道せずに、まっすぐ帰ろう」
そう小さく呟き、歩く速度をさらに上げる。
明日の講義。提出期限の課題。卒業後の進路。そんなことをぼんやりと考えながら歩いた。
そして、信号の先にある曲がり角を曲がると駅はもうすぐそこに見えてくる。…と思ったのだが、そこでふとミサキは足を止めた。
「……あれ?」
突然、先ほどまで聞こえていた車の走行音が聞こえなくなる。
人の話し声もなくなり、住宅街を歩いているはずなのにそこは異様なほど静まり返った。
──何かがおかしい。
ミサキは周囲を見回す。
いつも通っていた道が違って見えた。
「……こんな道、あったっけ?」
見慣れているはずの景色も同じく違って見える。街灯の数も少なく、建物も見当たらない。気づけば道の両側には、いつの間にか木々が立ち並んでいた。
「え……?」
一歩、後退する。
スマートフォンを確認すると、画面には圏外の表示。ここは都会のド真ん中。圏外なのはおかしかった。
「なんで圏外…?」
困惑し、首を傾げる。
その瞬間、足元が淡く光った。
「え?」
地面に、見覚えのない紋様が浮かび上がる。
円形の魔法陣。赤黒い光が、ミサキの足元からじわじわと広がっていった。
「は?な、何これ……!?」
逃げようとするも、しかし足が動かない。
「ちょっと待って!──きゃあッ!!」
光はさらに強さを増し、視界を白く塗りつぶしていく。
最後に聞こえたのは、遠くから響くような正体不明の声だった。
+
「……っ」
冷たい。
どのくらい気を失っていたのか、頬に触れる地面の冷たさでミサキは意識を取り戻した。
「……ん、んん…っ。ここは……?」
ゆっくりと身体を起こす。
最初に目に入ったのは木々だった。しかも、一本や二本ではない。視界の限り、木、木、木。頭上には巨大な枝葉が広がり、その隙間からはすでに夜の色が覗いている。
「……ここ、森?」
ミサキは呆然と呟いた。
立ち上がり、周囲を見渡す。
「どうして……?」
先ほどまで自分がいた場所は、こんな森ではなかった。
駅へ向かう道だった。自宅へ帰る途中だったはずだ。それなのに、今いるのは見知らぬ森の中。何故。
「……夢?」
頬をつねる。
「痛い……」
強くつねったため、頬が赤く染まる。現実だった。
スマートフォンを取り出すと、圏外。だが時計は正常に動いている。画面も特に異常はない。
「だ、誰かー!」
助けを求めようと声を出す。
しかし声を発した瞬間、自分の声が森に吸い込まれていくような感覚に襲われた。
しばらく待ったみたが返事はない。ミサキはバッグを強く抱きしめた。不安が胸の奥からじわじわと広がっていく。
「どうしよう……」
とにかく、ここから動かなくちゃ。
その一心で、ミサキは歩き始めた。
+
「はぁ、……はぁ…」
どれほど歩いただろうか。
十分?二十分?あるいは、それ以上かもしれない。
「……道、どこにもない」
ミサキは足を止めた。
どこを見ても木々ばかり。
似たような木。似たような岩。似たような草。
「完全に迷ってる…よね。…これ」
スマートフォンのライトを点灯する。頼りない光が、暗い森をわずかに照らした。
「誰かいないかな……」
そう思い、周囲を見渡す。
その瞬間。ガサッ。と茂みが揺れた。
「!」
驚いて、ミサキはその場で固まる。
「…………」
再び茂みがカサカサと動く。
「ひっ……」
反射的に一歩後ずさる。
すると茂みの中から、小さな生き物が飛び出してきた。
「……え?」
それは小さな鹿のような動物だったが、しかしミサキの知る鹿とは異なっていた。
その鹿のような生き物には額に小さな角が二本生えている。
「……鹿?」
その動物はミサキを一瞥すると、すぐに森の奥へと駆け去っていった。
「び、びっくりした……」
胸に手を当てる。
「もう……驚かせないでよ」
ホッと息を吐く。しかしまたその直後。森の奥から低く唸るような音が響いた。
「…………」
ミサキの表情が強張る。
「……今の、何!?」
答えはない。
ミサキは急いでその場を離れた。
+
さらに歩き続ける。
足は重くなり、空腹も感じ始めていた。
そして何より、恐怖が増している。
「……はぁ」
小さく呟く。
「お母さん……」
家族の顔が脳裏に浮かぶ。
いつもの家。いつもの部屋。
当たり前だった日常。それが、今はどこにもない。
「……帰りたいよ」
声が震える。
涙をこらえながらミサキは歩き続けた。ゆっくりながらも確かに歩を進めていく。するとやがて、木々の隙間から何かが見えてきた。
「……え?」
遠くに淡い光。
街灯ではなく、炎のように揺らめく光。それと複数の人影が見えた。
「人……?」
目を凝らす。
見間違いではない。あれは人だ。
「よかった……!」
安堵の表情を浮かべ、ミサキは思わず駆け出す。
「すみません!」
声を張り上げる。
「助けてください!」
人影がこちらを振り向いた。
その中に、一人だけ異質な存在がいた。
銀色の鎧を身にまとった青年。月光を受け、鎧が淡く輝いていた。腰には剣と、肩には濃紺のマント。
ミサキは一瞬だけぎょっとしたが、その青年へと近づく。
「す、すみません…!あの、よかったです。人に会えて…!……あのっ、もしよかったら、ここがどこなのか教えて──」
「……!」
青年は即座に剣の柄へ手をかける。青い瞳が鋭く彼女を見据え、ミサキは思わず足を止める。
「───?」
「……え?」
青年が言葉を発した。
言葉……なのだろうか。意味が分からなかった。明らかに日本語ではない。聞き覚えのない言語だった。
「───」
「え、えっと……」
青年が再び何かを発する。
ミサキは戸惑いながら首を振った。
「ごめんなさい。何を言っているのか分かりません……」
青年の言葉がミサキに伝わらないように、ミサキの言葉も青年には伝わらない。当然、その言葉も彼には通じなかった。
二人の間に沈黙が落ち、青年はミサキを観察する。見慣れない服装。見慣れない鞄。そして未知の言語。警戒心がさらに強まる。
「………(何なんだろ、この人?)」
一方のミサキも、目の前の青年から目を離せなかった。
銀の鎧。腰の剣。そして自分を警戒する鋭い視線。
「……騎士?」
ぽつりと呟く。
だがその言葉も青年には通じない。
「オルフェード、この女は一体……」
「……………」
同じく銀色の鎧を着た兵士が青年に近づく。
青年の名はオルフェード・アイスブラッド。エルテア王国騎士団に所属したばかりの新米騎士だった。
「何を話しているのか分からなかったが、魔物なのか?」
「……いや。魔物とは違うみたいだが……」
そしてこの瞬間、彼がミサキに抱いた第一印象はただ一つ。
――不審な人物。
「……(警戒はしておいた方がいいか)」
オルフェードは困り果てたミサキを見つめ、眉をひそめる。
こうしてこの夜、異なる世界で生きてきた二人は初めて邂逅した。




