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第4話 公爵令嬢、贅沢に育つ

 町へ出かけた翌々日、アルフレッドは剣舞の指導者を屋敷へ連れてきた。


 あの日、舞台袖で剣を振るっていた女性である。


「旅芸人一座で剣舞を担当しております、セレナと申します。お嬢様が私の舞を気に入ってくださったと伺い、光栄にございます」


 赤い衣装ではなく、今日は動きやすそうな黒い服を着ている。それでも背筋を伸ばして立つ姿は格好よかった。


「よろしくお願いいたしますわ!」


 私も新しく作ってもらった稽古着で庭へ出た。


 淡い青色の上着と、足首まであるゆったりとしたズボン。上から同じ色の布を巻いているため、遠目にはドレスのようにも見える。


 そして、今日のために用意された扇。


 青く染めた布へ銀糸で花が刺繍され、開くと細かな光が散る。五歳児でも扱えるよう、骨は軽い木で作られていた。


 素晴らしい。


 服も扇も申し分ない。


 問題があるとすれば、庭の端に医師と治癒術師が待機していることだろう。


 護衛も普段の倍はいる。


「お父様。私、戦争へ行くわけではありませんわ」


「分かっているとも。しかし、万が一ということがある」


「扇を持って歩くだけで、どのような万が一が起きますの?」


「転ぶかもしれない!」


 五歳児なら普通にある。


 お父様の主張を否定できなかった。


 セレナは私から扇を預かると、庭の中央へ立った。


「まずは足運びから始めましょう」


「扇は使いませんの?」


「足元が定まらないうちに扇を動かせば、姿勢が崩れてしまいます。剣舞は腕だけで舞うものではございません」


 格好よく扇を開く自分を想像していたが、最初から予定が外れた。


 私は言われたとおり、右足を前へ出した。


 続いて左足を引き寄せ、斜め後ろへ下がる。


 たったそれだけなのに、思っていたより難しい。足元へ意識を向けると背中が丸まり、姿勢を正すと次の一歩を間違える。


「お嬢様、急がずに。もう一度、最初から参りましょう」


「はい!」


 前へ二歩。


 横へ一歩。


 身体の向きを変え、後ろへ下がる。


 何度か繰り返し、ようやく一連の動きを間違えずに終えたところで、後ろからお父様の声が飛んできた。


「少し顔が赤い! 休ませた方がいいのではないか!?」


「運動をしておりますので、多少は赤くなります」


 医師が冷静に答えた。


「しかし、汗もかいている!」


「運動をしておりますので」


 医師も大変そうである。


 私はまだ続けられたが、セレナから休憩を勧められた。侍女が日除けの下へ椅子を運び、冷たい果実水を差し出してくれる。


 一口飲んだところで、今度は蜂蜜を使った小さな菓子が出てきた。


 たった数歩の稽古に対して、休憩が豪華すぎる。


 だが、せっかく用意されたものを断る理由はない。


 菓子を味わい、お母様に汗を拭いてもらい、十分に休んでから練習へ戻った。


 次は扇を閉じたまま、腕を動かす。


 右から左へ。


 胸元へ引き寄せ、顔の横まで持ち上げる。


 足運びを加えると途端に分からなくなったが、何度か繰り返すうちに一度だけ綺麗に動けた。


「お見事です、お嬢様」


「できましたわ!」


「レティは天才だ!」


 お父様の拍手が、誰よりも大きかった。


 まだ扇すら開いていない。


 それでも褒められるのは悪くない。


 もう一度やってみようと構えたところで、セレナが本日の稽古を終えると告げた。


「もう終わりですの?」


「初日から無理をしてはいけません。身体が動きを覚えるまで、少しずつ続けてまいりましょう」


 お父様は大きく頷いている。


「そうだとも。念のため、明日から三日は休もう」


「休みすぎですわ!」


 どうにか話し合い、次の稽古は二日後に決まった。


 練習を終えた私は、そのまま浴室へ連れていかれた。


 温かな湯には香草が浮かべられ、爽やかな香りが立ち上っている。汗を流したあとは、柔らかな部屋着に着替え、長椅子へ横になった。


 侍女が香油を手に取り、私の足を丁寧に揉みほぐしていく。


 まだ幼い身体なので、力はごく弱い。それでも、温まった手で撫でられているうちに、全身から力が抜けていった。


 そばの卓上には、冷たい果実水と一口大の菓子まで置かれている。


 至れり尽くせりである。


 前世で運動をしたあとに待っていたのは、汗だくの服と、自分で用意する飲み物だった。


 今は違う。


 汗を流す湯も、着替えも、マッサージも、飲み物も、すべて誰かが用意してくれる。


 私は目を閉じ、香油の甘い香りを吸い込んだ。


 これである。


 私は、こういう暮らしをするために公爵令嬢を希望したのだ。


「お嬢様、お加減はいかがですか?」


「最高ですわ。明日も稽古をしたいくらいです」


「明日は休息日だよ、レティ」


 いつの間にか、お父様が長椅子の横に立っていた。


「私の部屋にまで見張りにいらしたのですか?」


「見張りではない。心配しているんだよ」


 やはり、剣舞を覚えるには、先生より先にお父様を攻略しなければならないらしい。


 もっとも、剣舞の稽古は順調に続いた。


 最初は足をもつれさせ、開いた扇で自分の額を叩いたこともある。回転した拍子にふらつき、お父様が医師を呼んだこともあった。


 それでも、少しずつできることは増えていった。


 足運びを覚え、音楽に合わせて扇を開き、腕から肩へ流れるように動かす。


 六歳になる頃には、短い曲なら最初から最後まで踊れるようになった。


 身体の成長に合わせて稽古着も新しくなり、扇も作り直された。二本目は白地に青い鳥、三本目は深い青地に銀の星が刺繍されていた。


 セレナの一座が領都を離れている間は、教わった動きを繰り返す。戻ってくるたびに新しい型を教えてもらい、私は毎年少しずつ剣舞を覚えていった。


 稽古のあとの香草湯とマッサージも続いた。


 むしろ年を追うごとに種類が増えた。


 季節ごとに香草が変わり、香油も肌の状態に合わせて選ばれる。果実水には領地で採れた果物が使われ、ときには料理長が稽古後専用の菓子まで作ってくれた。


 剣舞は楽しい。


 その後も素晴らしい。


 私は何一つ損をしていなかった。


 もちろん、楽しみは剣舞だけではない。


 領都へ新しい劇団が来れば、劇場の特等席から芝居を見た。


 王都を訪れたときには美術館を巡り、古い絵画や彫刻を眺めた。音楽会へも行ったし、夏には避暑地、冬には温泉地へ家族で滞在した。


 前世では画面や写真で見るだけだった場所へ、今は馬車で出かけられる。


 公爵令嬢とは、実に素晴らしい身分である。


 そう思っていた七歳のある日、私は西の自治領にカジノがあると知った。


「私、ここへ行ってみたいですわ!」


 居間の卓上へ地図を広げ、該当する町を指差した。


 お父様は地図を覗き込み、嬉しそうに笑う。


「レティが旅行へ行きたいなんて珍しいね。少し遠いが、馬車の中で疲れないよう日程を組めば――」


「旦那様」


 アルフレッドが静かに止めた。


「西の自治領までは片道十二日ほど掛かります。それ以前に、お嬢様の目的地はカジノでございます」


「観光ですわ!」


「賭け事をなさるおつもりですね」


「少しくらいは」


「カジノへの入場は十六歳以上と定められております」


 私は耳を疑った。


「公爵令嬢でも?」


「身分にかかわらず、十六歳未満は入場できません」


「お父様に貸し切っていただいても?」


「なりません」


「建物ごと買い取りましても?」


「年齢はお買い求めいただけません」


 お父様なら本当に買いかねないため、アルフレッドがいてくれてよかったのかもしれない。


 しかし、納得はできない。


「あと九年もありますわ……」


「カジノは逃げません」


「九年もあれば、経営者が変わるかもしれません」


「そこまで心配なさる必要はございません」


 私は予定表を開き、十六歳の誕生日の翌日に印をつけた。


 楽しみは早めに押さえておくものである。


 そうして遊びの予定は着々と増えたが、好きなことだけをして暮らせたわけではない。


 私は公爵家の一人娘であり、正式な跡継ぎだ。


 礼儀作法、歴史、地理、法律、領地経営、帳簿の読み方。将来、公爵領を治めるために必要な教育が、年齢に合わせて次々と始まった。


 こちらは思っていたより楽だった。


 もちろん、この世界の制度は一から覚えなければならない。それでも、税を集めるには人手と費用が必要だとか、収入より支出が多ければ財産が減るといった考え方は前世と変わらない。


 教師の話も最後まで聞ける。


 分からないところは質問できる。


 帳簿に不自然な数字があれば、それが何に使われたのか確かめる。


 それだけで、教師たちは私を驚くほど優秀だと褒めた。


 当然である。


 私の中身は、転生した時点ですでにアラフィフだった。そこへこの世界で過ごした年月まで加えれば、アラカンも見えてくる。


 幼い子供たちと同じ基準で比べられては困る。


 だが、語学だけは別だった。


「本日から、四つ目の言語を始めます」


 教師が新しい教本を卓上へ置いた瞬間、私は笑顔のまま動きを止めた。


「四つ目ですの?」


「公爵領は三つの国と交易しております。外交で広く使われる言葉も含め、領主となられる方には最低でも四か国語を身につけていただきます」


「最低でも」


「はい。お嬢様ほど習得が早ければ、余裕を見て五つ目も――」


「余裕はありませんわ」


「ございます」


 即座に否定された。


 確かに、前世よりは覚えやすい。


 一度聞いた発音は耳に残りやすく、単語も以前より早く頭へ入る。教師によれば、同年代の子供とは比べものにならない速度で進んでいるらしい。


 だが、私にはその実感がなかった。


 知らない単語は覚えなければならず、似た発音は何度も聞き分けなければならない。昨日覚えた言葉が、朝になれば綺麗に抜け落ちていることもある。


 私は語学が苦手なのだ。


 今世の地頭と幼い耳に助けられているだけで、その事実は変わらない。


「お嬢様。こちらの課程は、予定より三か月早く終わっております」


「三か月も頑張ったのに、次の教本が増えましたわ」


「予定より三か月早く、でございます」


「早く終われば、その分だけ観劇へ行けると思っておりました」


「次の学習へ進めます」


 勉強を早く終わらせると、勉強が増える。


 余裕があるように見せると、五つ目の言語を勧められる。


 公爵令嬢とは、もっと優雅なものだと思っていた。


 美しいドレスを着て、お茶を飲み、ときどき舞踏会へ出ればよいのだと。


 甘かった。


 領主になる公爵令嬢は、四か国語を学ばなければならない。


 余裕があれば、それ以上である。


 それでも私は、剣舞を続け、芝居を見て、美術館を巡り、音楽を聴き、美味しいものを食べながら育った。


 苦手な語学も投げ出さなかった。


 なぜなら、やるべきことを終えなければ、心置きなく遊べないからだ。


 カジノにだけは、まだ入れてもらえない。


 それ以外に、大きな不満はなかった。


 そして今夜。


 私は湯上がりの足を侍女に揉んでもらいながら、翌日の予定を眺めていた。


 朝は家族だけで食事をし、そのあと新しいドレスへ着替える。昼には親しい者を招いて祝い、夜には大広間で宴が開かれる。


 贈り物も、すでに別室へ運び込まれているらしい。


 九歳最後の夜まで、実に贅沢だった。


 明日は、私の十歳の誕生日だ。

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