第3話 五歳令嬢、町へ行く
「お父様、お母様。私、お外を見てみたいですわ!」
朝食の席で私がそう切り出した瞬間、お父様の手から銀のフォークが落ちた。
「お外……!? つまり、屋敷の庭園から出たいということかい!?」
「ええ。せっかくこの世界に生まれたのですもの。まだ私、このお屋敷と、ご馳走と、財産目録と、アルフレッドしか見ておりませんわ」
「パパとママも見ているだろう!?」
「わたくしも数に入っておりますのか」
後ろに控えていたアルフレッドが、眼鏡の位置をわずかに直した。
もちろん、お父様とお母様のことを忘れていたわけではない。ただ、異世界らしいものとして数えた結果、この顔触れになっただけである。
お母様は嬉しそうに手を合わせた。
「それなら、今日は一緒にドレスを見に行きましょう。レティの春物を仕立てたいと思っていたのよ」
「ドレスですか?」
「ええ。領都に、とても腕のいい仕立屋があるの。新しい布地も入ったそうよ」
それは楽しそうだ。
前世では、服を買うときは値段、着回し、洗濯のしやすさを考えた。気に入っても、「似たようなものを持っているから」と棚へ戻すことも珍しくなかった。
しかし、今の私は大陸有数の公爵家の一人娘である。
値札を見る前に諦めなくていい。
欲しいと思った服を、自分のために仕立ててもらえる。
「行きたいですわ!」
「よし! すぐに王都へ――」
「領都がいいですわ」
立ち上がりかけたお父様を止める。
王都などへ行けば、あの自意識過剰な第一王子や、社交界の面倒そうな人々に見つかる危険がある。
私はまだ五歳なのだ。
婚約だの王妃教育だのではなく、まず異世界を満喫したい。
「最初は、我が家のお膝元を見てみたいですわ」
「なるほど! 自分の領地を先に知りたいのだね。さすがレティ、次期当主としての心構えが――」
「いいえ。普通に遊びに行きたいだけですわ」
「そ、そうか」
お父様は少しだけ残念そうだったが、お母様は楽しそうに笑っている。
「では、お買い物をして、美味しいものを食べましょうね」
「はい!」
「アルフレッド、すぐに準備を! 護衛を五十人――」
「十人で十分でございます」
「しかし、レティの初めてのお出かけだぞ!?」
「五十人で囲みますと、お嬢様から町が見えません」
アルフレッドの冷静な指摘により、護衛は十人に決まった。
◇
豪華な紋章入りの馬車が、石畳の上を軽快に走っていく。
柔らかな座席に腰掛けた私は、窓に張りつくようにして外を眺めていた。
「レティ、そんなに乗り出すと危ないわよ」
「ごめんなさい、お母様。でも、あれは何ですの?」
「あちらは水車小屋ね」
「では、向こうの高い塔は?」
「町の鐘楼よ。決まった時刻になると鐘を鳴らすの」
見るものすべてが新しい。
畑で働く人々も、荷車を引く馬も、遠くに見える風車も、絵本の中から抜け出してきたようだった。
領都へ入ると、景色は一段と賑やかになった。
整然と敷かれた石畳の両側に、煉瓦や漆喰の建物が並んでいる。市場には色鮮やかな布が張られ、見たことのない果物や香辛料が山のように積まれていた。
焼き菓子の甘い香りに、肉の焼ける匂い。職人が店先で木を削り、子供たちが笑いながら通りを駆けていく。
(これよ! 私が見たかった異世界は、これなのよ!)
領地の収益も、町の発展性も、今日は考えない。
私はただの五歳児として、この世界を楽しむのだ。
馬車が最初に止まったのは、大通りに面した服飾店だった。
店へ入るなり、仕立屋の主人と店員たちが一斉に頭を下げる。その奥には、色とりどりの布やレース、刺繍見本が並べられていた。
「まあ、こちらの薄紅色はレティに似合いそうね。青もいいわ。白地に銀糸の刺繍を入れてもらいましょうか」
お母様の目が輝いている。
次々と布を私の肩へ当て、リボンを選び、襟や袖の形を仕立屋と相談していく。
着せ替え人形にされるのは覚悟していた。
けれど、見本として出されたドレスには、たっぷりと布が使われている。袖には膨らみがあり、襟元にはレース。腰回りにも飾りが多く、見る分には文句なしに可愛い。
ただし、これを着て走り回れるかと聞かれたら難しい。
「お母様。私、もう少し楽な服が欲しいですわ」
「楽な服?」
「今のドレスは、少し窮屈なのです。飾りが少なくて、腕や足を動かしやすいものはありませんか?」
お母様と仕立屋がそろって目を瞬いた。
五歳の公爵令嬢が、ドレスの華やかさより動きやすさを求めるとは思わなかったらしい。
「可愛い服が嫌なの?」
「可愛い服は好きですわ。でも、毎日ずっと着ていると疲れてしまいます。お屋敷や庭で遊ぶときくらい、もう少しラフな格好がしたいのです」
「らふ?」
しまった。この世界には通じない言葉だった。
「気軽に着られる服、という意味ですわ」
「なるほど……」
仕立屋は少し考えると、店の奥から柔らかい若草色の布を持ってきた。
「でしたら、こちらはいかがでしょう。薄くて丈夫な布でございます。胴回りを締めすぎず、袖も細身にすれば動きやすくなります。裾も普段より少し短くいたしましょう」
「それがいいですわ!」
「では、刺繍は襟と裾に入れましょう。腰には同じ色のリボンを――」
「お母様。飾りは少なく」
「あら、少しくらいいいでしょう?」
結局、お母様との話し合いにより、刺繍は控えめ、リボンは取り外しできる形で決着した。
一着でいいと言ったのだが、洗い替えが必要だと説得され、色違いを含めて五着仕立てることになった。
十着から五着へ減らせたのだから、私の勝利である。
店には同じような形の見本服があったため、私はその場で着替えさせてもらった。裾が軽く、腕を上げても肩が引っ張られない。
その場で一度回ってみると、柔らかな布がふわりと広がった。
「動きやすいですわ!」
「まあ……!」
お母様が口元を押さえた。
「アルフレッド。この形で十着お願いして」
「お母様、また遊びに来たときに新しい服を買って欲しいですわ!」
◇
服飾店を出たあとは、市場を歩いた。
香ばしい匂いに誘われて串焼きを一本買い、甘辛いタレのついた肉を頬張る。お父様が屋台ごと買おうとしたので、それは全力で止めた。
魔導具の店では、握るとほのかに温かくなる石を買った。木工職人の露店では、羽根の動く木彫りの小鳥を見つけた。
自分で見つけ、自分で選び、自分のお金で買う。
それだけなのに、胸が弾んだ。
「ふふ。次はどちらへ行こうかしら」
買ったばかりの小鳥を手の中で動かしていると、通りの向こうから大きな歓声が聞こえてきた。
「何かしら?」
「広場で見世物を行っているようですね」
アルフレッドに案内されて向かうと、大勢の人が円を作っていた。
その中央では、派手な衣装を着た男が、色の違う五つの球を次々と宙へ放り投げている。球は一つも落ちることなく、弧を描いて男の手へ戻っていった。
続いて現れた女性が、細い棒の先に皿を載せて回し始める。一本、二本、三本。両手だけでは足りなくなり、最後の一本を額に載せると、観客から大きな拍手が湧いた。
「すごいですわ!」
私も夢中で手を叩いた。
広場の反対側には小さな舞台があり、手袋人形を使った芝居が始まっていた。
食いしん坊の竜が町のお菓子をすべて食べてしまい、困ったパン屋の娘が、辛い香辛料をたっぷり入れた菓子を作って竜を追い払う話だ。
竜が火を噴こうとして、口から煙だけを出すたび、子供たちが声を上げて笑う。
私も一緒になって笑っていると、お父様が嬉しそうに私を抱き上げた。
「よく見えるかい、レティ?」
「はい。ありがとうございます、お父様」
お父様の腕の中からなら、人形の細かな動きまでよく見える。
物語は単純で、舞台も小さい。それでも、次に何が起こるのかと待つ時間は楽しかった。
人形劇が終わると、私は名残惜しく舞台を見つめた。
「この町には、ほかにもこういうものがありますの?」
「こういうもの、とは?」
「皆で見て楽しめるものですわ。人形劇や大道芸のほかにも、何かありませんか?」
お母様が指を折りながら教えてくれた。
「音楽会や舞踏会ならあるわね。旅の一座が来れば、お芝居をすることもあるわ。あとは楽団の演奏や、踊りかしら」
「お芝居!」
「ただし、いつでも見られるわけではないの。旅の一座は、町から町へ移動しているから」
「そうなのですね……」
もっと見てみたい。
今日見たものとは違う物語も、音楽も、踊りも知りたい。
いつ、どこで見られるのかとアルフレッドに尋ねようとしたとき、舞台脇の布幕が風に揺れた。
その隙間から、人影が見えた。
一人の女性が、細身の剣を手に舞っている。
赤い上着の裾を翻し、音もなく踏み込むと、銀色の刃が光の輪を描いた。振り下ろされた剣が寸前で止まり、次の瞬間には体ごとくるりと回る。
戦っているわけではない。
剣を使った踊りだ。
「アルフレッド、あれは何ですの?」
「次の演目に出演する剣舞の踊り手でしょう。舞台裏で動きを確認しているようですね」
女性は剣を高く掲げ、片足を引いて静止した。
格好いい。
ドレスの刺繍や宝石を見たときとは、まったく違う胸の高鳴りを覚えた。
「私も、あれをやってみたいですわ!」
「えっ」
お父様の腕の中で身を乗り出すと、護衛たちが一斉にこちらを向いた。
「レ、レティ。剣なら危ないから、見るだけにしておこうか?」
「本物の剣でなくても構いません。私も、あんなふうに動いてみたいのです!」
今の服なら腕も上がる。裾を踏む心配もない。
さっそく新しいドレスの出番ではないか。
「お母様、習ってもいいでしょう?」
お母様は驚いていたが、やがて楽しそうに微笑んだ。
「剣ではなく扇を使って、安全な先生に教わるのならいいわよ」
「本当ですの!?」
「ええ。せっかく動きやすいドレスも作ったのだもの。お庭で練習できるわね」
「やった!」
思わず両手を上げると、お父様が悲鳴を上げた。
「待ってくれ! それなら医者と、護衛と、武術指南役を十人ほど――」
「剣舞の指導者は一人で十分でございます」
アルフレッドが静かに訂正する。
「念のため、使用する道具と練習場所はこちらで確認いたします。適任者についてもお探しいたしましょう」
「お願いね、アルフレッド!」
「承知いたしました」
私はもう一度、舞台袖へ目を向けた。
剣を構えた女性が、今度は音楽に合わせて軽やかに踏み出していく。
見るのも楽しい。
けれど、自分でやってみるのは、もっと楽しそうだ。
異世界へ来て初めての町歩きで、欲しいものがまた一つ増えた。
金でも、地位でも、婚約者でもない。
まずは、剣の代わりに使う、私専用の扇である。




