2話 地獄のお茶会での暇潰し
「婚約……?」
サクサクのクッキーを噛み砕きながら、私は首を傾げた。
口の中に広がるバターの香味が素晴らしい。
「そうだ。第一王子殿下は今年で八歳になられる。我が家との繋がりを強固なものにしたいのだろうな。王家からの打診となれば、普通の貴族なら喜んで飛びつくところだが……」
お父様は悔しそうに歯噛みした。
「私としては、レティの意思を無視して婚約を決めるような真似はしたくない。だが、無下に断れば王家への不敬と取られかねん……」
重苦しい空気が書斎に漂う。
お母様も心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
(王家の第一王子……。つまり、将来の国王候補)
そこへ嫁ぐということは、どういうことか?
毎日が外交と社交の連続(過密スケジュール)
王妃教育という名の地獄の勉強漬け
側室対策や後宮のドロドロした権力闘争
自由な外出の制限(常に護衛と監視付き)
国勢という名の他人の介護(家事の最上級版)
……冗談ではない。
私は「もう働きたくない」「自分のためだけに時間と金を使いたい」と言って、この公爵家の一人娘という一等賞を引き当てたのだ。
なぜ自ら進んでブラック企業(王室)の最高幹部に就職しなければならないのか。
「お父様」
「何だい、レティ? 大丈夫だ、パパが命に代えても――」
「うちは王家より金持ちで、借金もない?」
「左様でございます」
「じゃあ、私が王子様と結婚して、何か良いことありますか? 名誉とか誇りとか、そういう食べられないもの以外で」
お父様とお母様は、ぽかんと口を開けた。
アルフレッドは一瞬だけ口元を微かに歪めると、淡々と言い添えた。
「実質的な経済的メリットはゼロに等しく、むしろ王家の財政補填に当家の資産が流出するリスクの方が高うございます」
「お断りを」
私は即答した。
「わかった。『まだ五歳ですので、将来の当主としての教育に専念させたく、婚姻については成人後に本人の意思を尊重して決めたい』と返事をしよう」
「……旦那様。王家より、再度書状が届いております」
「またか……」
アルフレッドが銀盆に乗せて運んできた豪華な手紙を受け取り、お父様は深い溜息をついた。
我がローゼンバーグ公爵家が「まだ五歳で教育に専念させたい」
「将来の婚姻は本人の意思を尊重する」と、丁寧かつ遠回しに断ったにもかかわらず、王家はまったく諦めていなかった。
「『当主教育の邪魔はせぬ。ただ、同じ年頃の子供同士、親睦を深めるためのお茶会を開きたい。レティシア嬢の息抜きにもなろう』……とのことです」
「息抜きなら、自室でふかふかのベッドに飛び込んでいる方がよっぽど休まるのですが」
私は専属シェフが焼いてくれた新作のタルトを味わいながら、冷ややかな声を漏らした。
「当然、お断りいたしますわね?」
「ああ。我が家の天使の貴重な時間を、王家の都合で奪われてたまるか」
お父様は即座に二度目のお断り状を作成し、送り返した。
しかし――王家も必死だった。
我が家の莫大な資産と、手放したくない利権がかかっているのだ。
断っても断っても、忘れた頃に
「では、来月は?」
「では、次のお茶会は?」と、招待状が舞い込んでくる。
二回目までは「体調不良」と「家庭教師の講義」を理由に華麗にスルーした。
だが、流石に三回目となると、これ以上断り続ければ「公爵家が王家に公然と反旗を翻した」と余計な政治的騒ぎになりかねない。
「レティ……すまない。三回目は、流石に顔出しだけでもしないと、王家の面目が完全に潰れてしまう……」
お父様が苦汁をなめるような表情で頭を下げてきた。
「構いませんわ、お父様。顔を出すだけでいいのでしょう?挨拶だけ済ませたら、あとは空気のように存在感を消して、時間が過ぎるのを待ちますわ。王子様と関わる気も全くありませんわ」
そして迎えた、王城の庭園で開催された「子供お茶会」。
色とりどりの花が咲き誇る豪華な庭園には、着飾った貴族の子供たちと、その保護者たちが集まっていた。
五歳の私は、お母様に連れられて会場へ入ると、主催者である王妃様と、その隣で胸を張っている第一王子アディエル様のもとへ向かった。
「ローゼンバーグ公爵家が娘、レティシアにございます。本日はお招きいただき、誠に光栄に存じます」
完璧な貴族の礼を披露する。
前世の四十代の社会人経験と、この数年間で叩き込まれたマナーが光る瞬間だ。
「まあ、レティシア様。よく来てくれましたね。ほら、アディエル。ご挨拶なささい」
王妃様に促され、金髪を輝かせた八歳の王子様が一歩前に出た。
どこか勝ち誇ったような、上から目線の笑顔を浮かべている。
「来させてやったぞ、レティシア! 僕の相手を特別に許して――」
「では、失礼いたします」
「え?」
挨拶の定型句を述べ終えた瞬間、私は一秒の無駄もなく回れ右をした。
私は庭園の隅にある、一番影の薄い、ぽつんと置かれたテーブル席へ移動した。
お母様は少し離れた場所で他の夫人たちと歓談に入り、私には専属の侍女が後ろに控える。
ここからが、本番だった。
(……暇だ)
紅茶と一口サイズの焼き菓子が運ばれてきた。
周りを見渡せば、王子様を中心に子供たちが群がり、「殿下、すごーい!」「今度、僕の屋敷の馬を見に来てください!」などと、微笑ましい社交が繰り広げられている。
あまりにも暇である。
ただ座って時間が過ぎるのを待つだけの拷問のような時間。
私は深呼吸をし、テーブルの上の花瓶に目を向けた。
(……あのバラ、花びらは何枚あるのかしら)
よし、数えよう。
『一枚……二枚……三枚……四枚……』
視線だけで慎重に数える。十四枚だった。隣の花は十六枚。
それもすぐに終わってしまった。
(次は……テーブルクロスね)
最高級のシルクで作られた白いテーブルクロス。その縁には、細かな刺繍と縫い目が施されている。
(イチ……ニ……サン……シ……ゴ……)
心の中で、ひたすら数字をカウントしていく。
「レティシア様……?」
後ろに控えていた侍女が、心配そうに声をかけてくる。
五歳の幼女が、微動だにせず、死んだような魚の目でテーブルクロスの端をじっと見つめ続けているのだ。
「気にしないでちょうだい。今、二回目の五百九十ミリメートル付近の縫い目を数えているところだから」
「は、はい……?」
侍女が困惑する中、突如として視界を遮る影ができた。
「おい、レティシア!」
顔を上げると、痺線を切らした第一王子アディエル様が、お供の子供たちを引き連れて私のテーブルまでやってきていた。
腕を組み、不満げに眉をひそめている。
「僕がわざわざお茶会を開いてやったのに、なぜあんな端っこで黙っているんだ? 僕のところへ来て、一緒に遊ぶ権利をあげると言っているだろう!」
ゆっくりと彼を見上げた。
「……殿下」
「なんだ? ようやく僕の魅力に気づいたか?」
「いえ。ただ、私は本日、体調が万全ではなく……このように静かに過ごさせていただくのが、殿下のお茶会を汚さぬ最善かと存じます」
「体調が悪い? どこが痛いんだ?」
「……心が、少々」
「心!?」
嘘である。めちゃくちゃ元気だ。ただただ暇なだけだ。
「ですので、どうぞ私などお構いなく、皆様で楽しくお過ごしくださいませ。殿下の輝かしいお姿を、ここから陰ながら見守らせていただきますので」
「む、むう……? そうか? そこまで僕に気を使わなくても……」
単純な王子様は、「自分に気を使って遠慮している」と都合よく解釈してくれたらしい。
満足そうに鼻を鳴らすと、取り巻きを引き連れて中央へ戻っていった。
「ただいま戻りましたわ、お父様、お母様」
無事に拷問のような「子供お茶会」を耐え抜き、公爵家に帰宅した。
お父様は部屋に入ってきた私を見るなり、そわそわと落ち着かない様子で駆け寄ってきた。
「レ、レティ……! おかえり、よく無事で戻ってきてくれたね!」
「レティ、大丈夫だった? 王子様はお元気にされていたかしら……?」
両親がここまでソワソワと挙動不審なのは、理由がよく分かっている。
二人とも私を溺愛してくれているし、婚姻を強制するつもりも一切ない。……だが、それと同時に
「まだ五歳の幼い娘が、キラキラした本物の王子様に直接会ったら、コロッと参ってしまうのではないか?」
という恐怖と不安でいっぱいだったのだ。
もし私が目を輝かせて「お父様! 私、王子様と婚約したいですわ!」なんて言い出したらどうしよう……と、私が留守の間に胃を痛めていたのだろう。
お父様がおずおずと、探るような視線を投げかけてくる。
「……それで、レティ。第一王子殿下はどうだったい? その……お顔も可愛らしくて、気品に溢れていたろう?」
「……」
私は脱力したまま、冷めた紅茶を一口含んだ。
「王子の顔なんて、ほとんど見ておりませんわ」
「えっ? 見てない……?」
両親が揃って目を丸くした。
「はい。私は端の席で、ひたすらテーブルクロスの縫い目を数えておりました」
「た、縫い目……!?」
「千四百三十二個ありましたわ。千三百個あたりで少し縫い代が歪んでいたので、王室御用達の裁縫師もたいしたことはありませんね」
「レ、レティ……? 一体お茶会で何をしてきたんだい……?」
お父様が混乱し、お母様はハンカチを口元に当てて呆然としている。
私は体勢を立て直し、ふかふかのクッキーを口へ放り込むと、両親の目を真っ直ぐに見つめて、はっきりと宣言した。
「お父様、お母様。改めまして、ご報告いたしますわ」
一瞬で部屋の空気が張り詰める。
アルフレッドも背筋を伸ばし、静かに耳を傾けた。
「私、絶対に婚約などいたしません」
きっぱりとした私の言葉に、両親は一瞬固まり――次の瞬間、お父様がガタッと椅子から立ち上がった。
「ほ、本当かい!? 王子様と結婚したいなんて、ちっとも思わなかったかい!?」
「思うわけがありませんでしょう。挨拶の開口一番『遊ぶ権利をあげる』などと宣う上から目線の男ですわよ? なぜ私が自分の時間と資産を投げ打って、あのような自意識過剰な男のお世話(介護)をしなければならないのですか」
身も蓋もない理由を言い放つと、お父様の顔にパッと歓喜の色が広がった。
「やったー!! レティが王子に騙されなかったぞー!!」
「まあ、よかったわ……! 私たちの可愛いレティが、余計な苦労を背負わずに済むのね!」
お母様も心底ホッとしたように胸を撫で下ろしている。両親の心配は完全に杞憂に終わったのだ。
「ですのでお父様。今後、王家からどれだけしつこくお茶会の誘いが来ようとも、全て『体調不良』か『当主教育の多忙』でスルーしてくださいませ。私の貴重な時間を、あの暇な空間で無駄にするのは二度とごめんです」
お父様は涙ぐみながら、力強く頷いた。
「分かった! 分かったよ、レティ! パパに任せなさい! 二度とあんな退屈なお茶会に行かせないと誓うよ!」
「頼もしいですわ、お父様」
横でアルフレッドが静かに一礼する。
「旦那様。」
「何だ。」
「恐らく、来月もお誘いが届くかと。」
「……やっぱり来るか。」
「その可能性が高うございます」
「断り状を数種類用意しておきます」
「頼む」
私はその会話を聞きながら微笑んだ。
「一度参りましたもの。もう大丈夫でしょう」
アルフレッドは一瞬だけ口を開きかけ――。
「……そうでございますと、よろしいのですが」
それだけ答えた。
その夜私は自室へ戻り、勢いよく天蓋付きのベッドへ飛び込んだ。
顔を枕へ埋める。
「やっぱり、我が家が一番ですわ」




