第10話「見ようとする距離」
第10話です。
“見る”という行為が、
初めて意味を持ち始めます。
“見る”ということは。
思っていたよりも、ずっと難しかった。
アルセリアは、庭園の端に立っていた。
あの日と同じ場所。
だが、違う。
(誘導しない)
それが、今回の前提だった。
接触条件の操作もしない。 会話の流れも組まない。 状況の最適化も行わない。
ただ。
(……待つ)
それだけ。
胸の奥が、落ち着かない。
何かをしなければならないような感覚。
だが。
(違う)
それは、これまでのやり方だ。
今は、違う。
だから。
何もしない。
ただ、立っている。
風が、静かに木々を揺らす。
足音が、近づく。
振り返らない。
気配で分かる。
「……ここにいたのか」
レオンハルトの声。
いつも通り。
だが、ほんのわずかに慎重だ。
「はい」
短く答える。
それ以上は、続けない。
沈黙。
いつもなら。
ここで何かを“起こす”べきだと判断していた。
だが。
(何もしない)
アルセリアは、ただ立っている。
レオンハルトは、少し距離を空けた位置で止まった。
近くもなく。 遠くもない。
微妙な距離。
そして。
「……何も、しないのか」
小さく、問われる。
(観測)
アルセリアは、その言葉を受け止める。
今までなら。
ここで最適な返答を選んでいた。
だが。
違う。
「……はい」
少しだけ間を置いて、答える。
「今は、しません」
沈黙。
レオンハルトの視線が、こちらへ向く。
「理由を聞いてもいいか」
(問われている)
アルセリアは、息を吸う。
言葉を探す。
正解ではない。
説明でもない。
ただ。
「……分からないからです」
言い切る。
初めてだった。
“分からない”と、そのまま口にしたのは。
レオンハルトの表情が、わずかに変わる。
「……分からない?」
「はい」
頷く。
「今までの方法では、殿下を見ていなかったと理解しました」
続ける。
慎重に。
「ですので」
一瞬、言葉が止まる。
だが、逃げない。
「……どうすればいいのか、分からないのです」
静寂。
風が、揺れる。
レオンハルトは、何も言わない。
ただ、見ている。
その視線から、逃げない。
やがて。
「……そうか」
小さく、呟く。
それは。
拒絶でも、受容でもなかった。
ただ。
理解しようとする響きだった。
そのまま。
数歩、近づく。
距離が、わずかに縮まる。
アルセリアは、動かない。
動かないことを、選ぶ。
レオンハルトが、止まる。
あと一歩で、手が届く距離。
だが。
触れない。
触れようとしない。
そのまま。
「……一つ、試していいか」
静かな声。
「はい」
即答する。
だが、心臓は速い。
「今、俺は何を考えていると思う」
(……)
思考が止まる。
今までなら。
観測。 傾向。 状況。
そこから導き出していた。
だが。
(違う)
それでは、また同じだ。
アルセリアは、視線を上げる。
まっすぐに、レオンハルトを見る。
初めて。
“読み取る”のではなく。
“見ようとする”。
数秒。
沈黙。
だが、答えは出ない。
「……分かりません」
正直に言う。
逃げずに。
隠さずに。
レオンハルトの瞳が、わずかに揺れた。
「……そうか」
小さく、息を吐く。
だが。
その声音は。
少しだけ、柔らかかった。
「……前なら、答えていたな」
「はい」
アルセリアは頷く。
「ですが」
一歩。
わずかに、前に出る。
「それは、殿下ではなく“答え”を見ていたからです」
言い切る。
沈黙。
レオンハルトは、目を伏せる。
そして。
「……今は?」
問い。
アルセリアは、迷わない。
「分からないまま、見ています」
それが。
今の自分の、すべてだった。
長い沈黙。
その空気は、これまでとは違った。
やがて。
レオンハルトは、ゆっくりと視線を上げる。
そして。
ほんのわずかに。
口元が緩んだ。
「……なら、いい」
短い言葉。
それだけだった。
その一言で。
距離が、ほんの少しだけ変わった。
完全ではない。
戻ってはいない。
それでも。
確かに。
“同じ方向”を向き始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
距離はまだ同じですが、
その意味は確かに変わり始めています。
次話へ続きます。




