第1話 「始まりは一冊の本から」
※軽い勘違いから始まる恋愛作品です
※BL要素はあくまでネタ(本の中)です
婚約者と兄の関係性に違和感を覚えた令嬢が、
「なら成立させよう」と合理的に動き出すお話になります。
よろしくお願いします。
私の婚約者は、どうやら兄を愛しているらしい。
――そしてそれは、極めて自然なことのように思えた。
ならば私は、完璧に成立させるだけだ。
――そう、思っていた。
――あの本を手に取るまでは。
完璧であることは、義務だった。
公爵令嬢アルセリア・フォン・ルーヴェンとして生まれた以上、それは疑う余地もない前提であり、選択肢ですらない。
姿勢、言葉遣い、微笑の角度に至るまで。
すべてが「正しく」あるべきだと、幼い頃から叩き込まれてきた。
──そしてそれは、婚約にも同じことが言えた。
「本日もお美しい、アルセリア」
穏やかな声音でそう告げたのは、この国の王太子──レオンハルト殿下だ。
非の打ち所のない立ち居振る舞い。
整った容姿。
誰に対しても誠実な態度。
理想的な婚約者。
だからこそ私は、淀みなく微笑む。
「ありがとうございます、殿下。本日もご機嫌麗しく」
一瞬だけ。
レオンハルト殿下の視線が、わずかに揺れた。
何かを言いかけて──ほんの一歩だけ踏み込みかけて、
そして、やめる。
「……いえ、こちらこそ」
その声は、ほんの僅かに柔らかかった。
完璧な返答。
完璧な距離感。
──そして。
(……やはり、遠い)
視線が合う。
けれど、その奥に踏み込めない。
何か一枚、見えない膜があるような感覚。
嫌われているわけではない。
むしろ、大切にはされている。
それは分かる。
分かる、けれど。
(“特別”では、ないのよね)
胸の奥に落ちる、わずかな違和感。
それを言語化することなく、私は微笑みを保ち続けた。
「ヴァルク、先日の件だが」
「ああ、あれなら片付いた。心配はいらない」
不意に、会話が横から差し込む。
振り返れば、そこには兄──ヴァルクの姿。
騎士として仕える彼は、レオンハルト殿下とも顔を合わせる機会が多い。
二人の間に流れる空気は、軽い。
私に向けられるそれとは、明らかに違う。
「無茶をするなと言ったはずだ」
「言われなくても分かってる」
短いやり取り。
だが、その距離は近い。
視線。
間。
声音。
どれもが自然で、遠慮がない。
必要以上に近い、というわけではない。
だが、距離を測っていない近さ。
(……なるほど)
胸の奥の違和感が、わずかに形を持つ。
例えば。
殿下がヴァルクを呼ぶ時の、あの声音。
公の場では決して使わない、わずかに柔らかな響き。
あるいは。
報告の合間に交わされる、短い視線。
意味を持たないはずの、それが。
妙に、長く残る。
(……観測回数は、少なくない)
だがその時の私は、それを偶然の範囲と処理していた。
まだ──確信に至る材料が、足りなかったからだ。
数日後。
その“材料”は、あまりにも唐突に手に入ることになる。
「お嬢様、こちらの書庫の整理を……」
侍女に案内され、普段は使われない古い書庫へと足を踏み入れる。
薄暗く、静まり返った空間。
積み上げられた古書の山。
その中で、一冊だけ。
妙に“浮いている”本があった。
(……何かしら、これ)
場違いなほどに新しい装丁。
やけに華やかな表紙。
手に取る。
軽い。
そして。
(……嫌な予感がする)
だが、その予感は往々にして的中する。
私は躊躇なく、ページを開いた。
数分後。
「……は?」
間の抜けた声が、静寂に落ちた。
視線はページに釘付けのまま、動かない。
書かれている内容。
それは──
兄、ヴァルクと。
婚約者、レオンハルト殿下が。
恋人同士として描かれている物語だった。
(……意味が分からない)
まず浮かんだのは、極めて冷静な疑問だった。
これは何だ。
誰が書いた。
何の意図がある。
理解不能。
──にも関わらず。
ページをめくる手は、止まらなかった。
読めば読むほど、思考は加速していく。
違和感。
いや──
(……一致、している?)
兄の仕草。
殿下の癖。
視線の流れ。
距離感。
空気。
そのすべてが、現実と奇妙なほどに重なる。
思い出す。
あの時のやり取り。
あの距離。
あの、柔らかな空気。
――だが。
ページの端に、目が留まる。
そこには。
まだ起きていないはずの、やり取りが記されていた。
見覚えのない会話。
存在しないはずの場面。
そして。
(……私?)
そこに記されていたのは、私自身の名だった。
だが、その内容に。
私は、覚えがない。
心臓が、わずかに強く脈打つ。
これは、ただの一致ではない。
それでも。
思考は冷静さを保ったまま、結論へと向かっていく。
(仮説)
本の内容は、虚構ではない可能性が高い。
(事実)
殿下の感情は、私に強く向いてはいない。
(観測)
兄との関係性は、明らかに特別である。
(結論)
──この婚約は、最適ではない。
私は本を閉じた。
静かに。
丁寧に。
まるで、それが“答え”であるかのように。
胸の奥が、わずかに痛む。
――その理由を、私はまだ知らない。
考えてしまえば、結論が揺らぐからだ。
「……よろしい」
小さく、呟く。
「ならば」
顔を上げる。
決意は、驚くほど澄んでいた。
「最適解を選びましょう」
私は本を抱え直す。
その表紙を、もう一度見つめた。
(──実に合理的だわ)
わずかに、唇が緩む。
「これは、優秀な“戦略資料”ね」
その日。
私は一つの結論に至った。
──愛する婚約者と。
──最も相応しい相手を。
完璧に、結ばせる。
たとえそれが。
自分の望む未来では、なかったとしても。
──その本の最後のページには。
まだ、書かれていないはずの一文があった。
「彼女は、すべてを失う」
その“彼女”が誰なのか。
考えるまでもなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次話から、
「本の内容を検証する主人公」が本格的に動き始めます。
この先かなりズレていきます。
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