第九十三手「邪道一蹴」
対局前の厳粛な雰囲気は、まるで言葉では語り尽くせないものである。
一場面の中に秘められた数々の策略と駆け引きを予感させ、その場に集う者達にまで浸透していく。まさにその一瞬のためだけに用意された雰囲気であり、神経を尖らせるほどの緊迫感が会場を包んだ。
所詮はお気楽な大会。所詮はただの非公式戦。
そう思っていた者達はある対局者へ一瞥を向けた。向けざるを得なかった。
対局者はどちらも若者、経験の浅そうに見える青年と少女。しかしながらその目付きはこの場にいる誰よりも勝負師の炎を宿していた。
「それでは二回戦目、始めてください」
アナウンスの声が響くと、対局者達は一礼をして一斉に時計を押す。
それまでガヤガヤと賑わっていた会場が一瞬にして静かになった。
秘められた策略と駆け引きが、己のプライドと勝利への渇望が、まるで不可視の糸で繋がっているかのように予感され、その神秘的な一瞬を作り出す。
天竜一輝。黄龍戦・西地区王者。
vs
蛯名萌香。王座戦・南地区王者。
地区を代表する二人の寵児が、火花を散らして衝突した。
◇◇◇
高鳴る鼓動。久々の高揚感を冷静な思考で冷やしながら、俺は盤面を見つめる。
振り駒の結果、後手を引いた。ここ最近先手が多かったからか、手番に新鮮味を感じるな……。
「それじゃあ、いくわよ」
蛯名萌香が軌跡を描いて駒を掴んだ。
▲7六歩。
定跡常套。形ある手に魂が籠る。
蛯名萌香の初手は角道を通す一手。この段階ではまだ居飛車か振り飛車かは判断できない。
「……」
渡された手番に不動。蛯名萌香の指した一手目から即座に次の手を指すことなく、俺は初手から10秒以上考えていた。
「なによ、一手目から長考? おかしな男ね」
そんな蛯名萌香の言葉が耳に届いたが、それでも俺の手は動かなかった。
この行為は別に深い意味があるわけじゃない。作戦が決まっていないわけでもない。
ただ俺にとって対局とは、木片の駒を動かすだけの単調な勝負じゃなく、知恵と戦術が交差する戦場の象徴と捉えているからだ。
これは短絡的な長考じゃない。流れを掴むための唯一の棋風だ。だから誰かに理解されようとも思わない。
今までもそうして指してきた。そしてこれからもそう指していく──。
……でも、なぜそうしようと思ったんだろうか?
△3四歩。
一拍おいて俺も角道を通す。
居飛車しか指せないとはいえ、最初から飛車先を突いては変化の予兆を消すことになる。それはそれでなんだかもったない気がして最近は角道を開けることが多い。
蛯名萌香はそんな俺の手を見て、ノータイムで俺の陣地にあった駒を掴んだ。
──は?
頭の中で小さくそう呟いた。
△2二角成。
いきなりの角交換。いきなりの交戦。開始三手目から互いの盤上に大駒が乗る。
俺はその手を見て冷静だった感情をいきなり突き動かされた。
なんだ、この速攻を仕掛けた角交換は……。角交換型の四間飛車か? それともダイレクト向かい飛車? いや、この手順から導き出される戦法は、まさか──。
▲同銀、△4五角打。
奈落を垣間見た。蛯名萌香のニヤケ面が一瞬視界に映ったような気がする。
俺は再び盤面を凝視し、瞬時に記憶からその対応策を呼び覚ます。開始早々それをしなければいけないだけの理由が今打ちつけられたからだ。
これは振り飛車が苦手な俺にとっての一番の天敵とも言える手。
いいや、俺だけじゃない。
それは"アマチュアがやられて嫌な戦法ランキング"堂々の上位に食い込む戦法。
古今東西、将棋における安寧は『定跡』という型に他ならない。その型があって初めて人は最善手へと着手できる。
この戦法は、そんなアマチュアにとって『定跡』を序盤から崩壊させる悪魔のような投擲だ。
「旗幟鮮明。出色たるもの道理に従うことなかれ。──『筋違い角』よ」
蛯名萌香の眼光が光る。
振り下ろされた邪道の鉄槌。既存の型に風穴を開け、相手の思惑を翻弄するその戦法の名は『筋違い角』。幾多ものアマチュアに傷を残してきた古の戦法である。
この瞬間、過去の俺が悲鳴を上げているのが分かった。組み上げようと意気込んだ脳を破壊されるような気持ち、戦々恐々と渦巻く筋のズレた角。
蛯名萌香の狡猾な思考がこの一手から伝わってくる。
曰く、その戦法を指す者はプロになれない。
曰く、その戦法はプロには通用しない。
曰く、その戦法はアマチュアにとっての天敵である。
筋違い角を指されて嬉しい者などいない。
何故なら、筋違い角を指されて嬉しい者は、そもそも自分から筋違い角を指すからだ。
「あら、また長考かしら?」
蛯名萌香がほくそ笑んで俺を見下す。
俺は反応を返さない。
筋違い角最大のメリットは、有無を言わさず絶対に相手を自分の土俵に引きずり込めるところだ。
他の戦法と違って、角道を開けた状態ではこの戦法を回避する術がない。
また俺には関係ないことだが、筋違い角を指されると振り飛車に組むのが非常に難しくなる。厳密には組むことができるものの、格好が悪くかなり指しづらいらしい。
定跡となる筋違い角対策の向かい飛車も、その組み上がりが完成するのはかなり後だ。
普段とズレた筋にいる角は開始早々こちらの思考を破壊してくる。
序盤で先に一歩取られてしまうという嫌味な攻撃も、やられた側は精神的なストレスになるだろう。
それに加えて向こうはこの戦法を指し慣れているスペシャリスト。対して筋違い角を指される側はその知識や経験が疎いことが多い。
そして筋違い角は"振り飛車"の戦法だ。
筋のズレた角を活かす器用な守りと、一歩得をしながら悠長に本美濃囲いを作れるメリットがある。
振り飛車が苦手な俺にとっては害悪極まりない戦法だった。
「……それで勝つつもりか」
そんな、客観的な分析を終えた俺は小さく呟く。
「あぁ?」
それを聞いた蛯名萌香の眉間にしわが寄った。
「……よく聞こえなかったわ。今、なんて言ったのかしら?」
これだけのメリットがありながら、これだけの効力を持ちながら、それでも筋違い角はプロ間では"絶滅した"と言われるほど指す者がいなかった。
それは単にこの戦法の人気がないからじゃない。
この戦法は、筋違い角は──プロの間で対策が完了してしまった戦法なのだ。
序盤-300点。たったそれだけの差でありながら、終盤まで対策されてしまった戦法。伝説に名を残すほどの棋士によって対策本が出され、それによって絶滅まで追い込まれ、やがてプロの世界から静かに消えていった戦法だ。
だが、それはあくまでもプロの世界での話。アマチュアでは関係ない。
アマチュアでは十二分に通用する戦法だし、そもそもアマチュアは戦法の有利不利など二の次に考えるべき物事だ。
この戦法を指されて嫌な人は大勢いるだろうし、この戦法に苦汁を飲まされた者達も大勢いるだろう。現にこれまでの俺はこの戦法を指されて絶望の表情を浮かべていた。
だからだろうか。この戦法を見て、こんなにも心を突き動かされているのは。
こんなにも、──心が躍っているのは。
「聞こえなかったなら言い換える。──そんな戦法で俺に勝つつもりか?」
ゆっくりと顔を上げた俺は、読み切った瞳で蛯名萌香に視線を飛ばした。
「……っ」
舐められたものだ。たかが一介のアマチュアだからと踏んで、自分の得意戦法でこちらを潰せると? 序盤に起こり得る多少の差は活かせないと考えたのか? 役不足甚だしいな。
悲鳴を上げていたのは過去の俺だ。今の俺じゃない。
あれから一体どれだけの時間麗奈と特訓したと思ってる。どれだけの苦悩に身を焼かれてきたと思う。
それは終わりのない問題の集合体、解いても解いても増えていく課題。挑むことすらバカバカしいと思える時間に、朝から晩まで気が狂うほどの将棋漬けの毎日だった。
そして、その過程を乗り越えて今の俺はここに立ってるんだ。断じて楽観的な思考で目の前の相手と対面しているわけじゃない。
過去の俺の天敵とも呼べる筋違い角。そんな有名どころの戦法、今の俺が対策してないわけがないだろう?
「……やれるもんなら、やってみなさいよ」
これまで好戦的だった蛯名萌香の表情が崩れ始める。
それでも紡げた強気な言葉に、俺は口角を上げて真っ向から言い返した。
「分かった」
次回更新日→10月31日




