第九十一手「変格へと挑む者の覚悟」
△3九飛打。
相手も負けじと飛車を打ち返す。
だが、師匠はその手を見ずに駒台から角を掴んで次の一手を準備した。
▲6一角打。
それは0秒の返し。時計はまるで反応を止めたかのように不動を貫き、一切の変化を見せない。
何が起こってるのか知る間もなく、その刃は曲線を描いて王の首にあてがわれる。
「えぇっ……?」
対戦中ずっと黙っていた対戦相手が声を漏らす。
その声色は疑心と怒りを含むもの。
師匠の手に納得がいっていない様子だ。
なぜこうなったのか、なんでこんな手を指されているのか。その前後の繋がりに明確な理由が見つからず、軽いパニックに陥っているのだろう。
将棋には"速度"というものがある。
前回戦った横歩取りのような場合は進行が早く感じ、今回のような受け手側が中々反撃してこない場合は遅く感じる。
しかしそれはあくまで私達人間が感じ取る感覚の話であって、実際の局面が感覚と同じ速度を保っているのかは別だ。
それは私達が将棋の『変格』に手を付け始めた頃の話──。
師匠はもう二度と見たくもないであろう龍牙との棋譜を何度も見返し、そして敗因となる部分を突き止めていた。
『……やっぱり、ここか』
師匠が指さした場所は、師匠が棒銀を成功させた部分だった。
挑発した龍牙の遅い攻めを利用して、一番分かりやすい棒銀で攻めの陣形を構築する。
それは一見すれば優勢に見える局面だった。
相手の攻めは全く完成しておらず、こちらの攻めは完成している。攻めの速度が圧倒的に勝っている。だから勝てる。……と、思い込んでいた。
『よく見ると速度が逆転しているわね』
『ああ』
実際は龍牙の反撃体制が完成しており、速度も龍牙の方が圧倒的に勝っていた。
自身の勝負手を完全に隠し、カモフラージュを成立させ、心理戦すら狡猾に行うその様はまさに『変格』の指し手。
つまり龍牙は最初から一切手を抜いておらず、虎視眈々と反撃の機会を窺っていたにすぎなかった。
『俺はあの時、棒銀を使ってなんの含みも持たせない指し方をしてしまった。だが反対に龍牙は何重にも見えない罠を仕込んでその手を指した。そして勝負が決するまで俺にその罠を暴かせなかった。……だから俺は何も出来ずに負けたんだ』
そう、将棋は先を読むボードゲーム。
限界まで切り詰めた先の手を指せば、それはまるで隠された一手のように濃霧に包まれて姿をくらます。
表面上に見える局面は所詮、私達人間の脳内で処理できる範疇のものだ。
本当の形勢なんてものは将棋の神にしか分からない。
『もう二度とこんな手は指さない。霧に消える幻のように、錯覚を利用する手品師のように、俺は次の大会までに"この感覚"を身に着けるよ』
それから私達は今日までずっと『変格』の指し方を特訓し続けた。
もちろん簡単に覚えられるわけがなかった。
棋力は一気に落ちて、指し方のバランスもめちゃくちゃに崩壊した。読みだって変な癖が付きそうになるし、普段よりも見逃しが多くなった。
それでも、私達は諦めることなく最後まで『変格』へと挑戦し続けた。
そしてその結果が今形となって表れている。
△8二玉。
▲8三角成。
師匠のノータイム指しは止まらない。パンドラの箱はもう開いている。
悪手に見える一手。良くなっていると思う形勢。そんなものはただの主観に過ぎない。
目の前の男は半年ほど前まで地区大会すら勝てない敗北者と呼ばれてた。居飛車しか指せず、振り飛車を指されれば崩壊する弱者だと罵られていた。
そんな男が今やあの川内副会長を倒し、西地区の王者に輝いている。
「変わるものよね、人って」
今彼を卑下する全ての者に言いたい。
なぜ、自分がまだ彼より優位な立場にいると思えるのだろうかと。
△同玉。
ここにきてようやく師匠の時計の時間が1秒動く。
……が、師匠の手が止まることはない。
▲7一飛成。
ノータイム、ノータイム、ノータイム。
その手は止まることなくゴールへと向かう。放たれた衝撃は落ち着くことなく一帯を駆け巡り、目の前の全てを蹂躙する。
気付けば形勢は師匠の圧倒的な勝勢に傾いていた。
「う、うそだ……っ」
対戦相手が頭を抱える。
城に攻め入るたった一人が、向かい来る兵士達を全て躱して城内に潜り込む。
そう、全部、全部だ。
2三の金、3三の桂、4三の銀、5三の金。相手の要となっている駒が全部躱されて攻め入られている。
まるで一切相手にされていない案山子のように。
「こんな、ことが……」
今相手の玉を守っている駒はひとつもない。
あれだけ攻めに重点をおいていたはずの後手が、師匠の陣形を切り崩していたはずの後手が、その全てを泡沫に消されてしまったかのような現状を叩きつけられている。
これが『変格』。これが高段者の指し方。
これまで緩やかに流れていると思っていた盤面は爆速で最終局面へと移行し、師匠の攻めは豪速のカーブを描いて放たれる。
もう後手に反撃の手番は渡らない。
△3六飛成。
▲8一龍。
韜晦晴れて牙を剥き、水底から天へと昇り雨を降らす。
雷を鳴らして瞬く間に盤上を支配したそれは、まさしく一間の型であった。
「くっ……!」
久しく静寂を包んでいた会場に苦渋の火が灯る。
あれだけ後手が優位に立っていると思っていた局面は、まるで幻でも見ていたかのように霧となって消えた。
後手は豊富な持ち駒を持っているにも関わらず、ここでの受けにその豊富な小駒を使うことができない。
形は寄せの"一間龍"。金や銀で受けてしまえば一気に詰み筋へと移行する。
もう後手に受ける術はない。
△8二歩打。
後手は最小限のコストを払ってなんとか防ごうと歩を投げつける。
自身の負け筋をひしひしと感じ取りながら、それでもまだチャンスはあると顔を上げる相手。
そんな希望を師匠は瞬く間に打ち破る。
▲7五桂打。
後手に反撃の手番が渡らない、渡す気配もない。
遠目から無遠慮に放たれは王手は終幕への道に誘導しているようにも見える。
限りなく少ない持ち駒を利用した正確無比なまでの一手。それは絶望の中で僅かに感じる『勝てるかも』という淡い希望を悉く消散させる。
将棋に対しての明確な挑戦状。それを阻む者は横から全てなぎ倒す。
今の師匠に対峙するならそれほどの覚悟が必要だ。
△9三玉。▲9一龍。△9二金打。▲8四銀打。
間髪を入れずに放たれる王手。相手の受け手に対し師匠の手は止まらない。
これはただの踏襲だ。何手も前から読み切った盤面を踏襲するだけの作業。
決着はとうの昔についている。圧倒的な棋力差で、とうの昔に──。
「……」
勝負が勝ち負けの二通りしかないように、将棋に引き分けは存在しない。
どちらかが勝ちどちらかが負ける。それは避けられない未来だ。
これは、そんな先を読み合った者同士が最期に見なければならない現実という映画である。
△同玉。
▲9二龍。
△9三角打。
ここで師匠はひと息整えて、数秒の後に盤上にあった桂馬に触れた。
この数秒が、相手にとっては何時間にも思える地獄だっただろう。
▲8三桂成。
△同歩。
▲7五金打。
「……負けました」
最後の一手を指されてから、数秒の沈黙をおいた後に相手は頭を下げて投了した。
そして顔を上げた先で自分が戦っていた者の正体を再認識する。
「ありがとうございました」
嬉々の毛色もない単調な返しをする師匠。
当然だ。今の彼は油断も慢心も全てを省いている。勝利に酔いしれる煩悩も、敗北に震える恐怖もない。
ただ目の前で行われる戦いに全力で挑み、全力で勝ちに行く。
そして対局が終われば思考を切り替え、次の戦いに全力で望めるよう脳を休ませる。
私達は今日までずっとそういう特訓をしてきた。
「麗奈」
軽い感想戦を終えた師匠が席を立ち、私の方に歩み寄ってきた。
「お疲れさま。良い将棋だったわ」
「ありがとう、でもまだまだ反省点は多いよ。ミスも何箇所かあった」
「今は忘れなさい。棋譜は端末に保存してあるから、あとでゆっくり検討しましょ」
「そうする」
師匠はペットボトルに入ったお茶を一口飲み、周りの対局席を一瞥する。
まだ大会は始まったばかり、まだ予選の段階だ。それにいくら交流戦と言っても、蛯名萌香を含めた強者も多数存在しているのは間違いない。
中には聖夜を打ち破ったことのある選手も参加しており、決して油断できる大会ではないだろう。
「二回戦も気を抜かずに頑張りなさい」
私は師匠の背中を軽く叩いて見送る。
「ああ、頑張るよ。次の相手は──」
そう言って師匠は対戦表を一瞥する。
一回戦を通過した名前が赤ペンで線を引かれている中、師匠にその赤い線がぶつけられたのは『蛯名萌香』と書かれた名前だった。
「……うげ」
師匠は露骨に嫌そうな顔をした。
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