第六十六手「明かされる真実」
Bグループの大会を無事優勝で終えられた私は、一度師匠の家へと戻ることに決めた。というのも、優勝カップやら景品やらが邪魔過ぎて会場で持ち運びするのに不便だからだ。
大会は現在お昼休憩を迎えている時間帯、今頃師匠は私の作り置きしたお弁当を美味しく食べている頃だろう。
「かぁ~……」
隣で大きなあくびをしているのは鈴木会長。相も変わらず車を持たない私は、このオッサンに送り迎えをして貰っている始末だ。
「随分お疲れみたいね」
「まぁ、この仕事は多忙が取り柄みたいなものだからね」
師匠の家へと向かって車を走らせる鈴木会長。日頃の疲れか、何度もあくびをしながらハンドルを握っている。
そんな彼が一言も喋らないのを機に、私は静かに言葉を漏らした。
「……それより、そろそろ聞かせなさいよ」
「うん?」
私は鈴木会長の方を向かず、前を走る車をじっと見つめながら腕を組む。
前回の大会が終わってから鈴木会長とは一度も顔を合わせていない。
だから、一番聞きたいことを聞けていなかった。
「あんたが私を師匠に会わせる時に言ってたじゃない。"天竜一輝というアマチュアを知っているか"って。彼、ただのアマチュアじゃないんでしょう?」
師匠とは出会った日こそつい数ヵ月前だけど、濃厚な時間と日々を過ごしてきた自負がある。彼の本質が他の将棋指しとは一線を画すほどであることも、今の私には十分理解出来る。
だからこそ、そんな彼が抱えている闇に私はいつしか気づいていた。そして気づいていても、問いかける勇気が無かった。
だから私は、この男に問うことを決めたのだ。
「……特に、横歩取りを指さない理由が知りたいわ」
鈴木会長はピクリと眉を顰める。
この人は少なくとも一つの県をまとめあげる会長だ。そんな人が、何の謂れもなくただのアマチュアである師匠を紹介するなんてことはしない。
他の棋士には普通の対応をしているように見えたけど、師匠だけはまるで特別扱いしているかのような感じだった。
「……そうだね。少なくとも私は本当の天竜君を知っている者だ、特に過去の事については。しかし、それを易々と人に伝える事は本人も望まないだろう。あまり気分の良い内容でもない」
「守秘義務は大事ね。私も師匠が望まない真実を無理に聞こうとはしないし、嫌だって言うのならそれ以上問うことはないわ」
それでもと、私は鈴木会長の方を向いて真剣に言った。
「だけど、仮にその内容がどんなことだったとしても私は師匠に失望することはない。それだけは約束できる」
師匠と出会ってから4ヵ月弱、毎日一緒に暮らして毎日一緒に将棋を指してきた。色んな事を話したし、色んな体験をした。
だけど私は、師匠のことについて何も知らないままだ。
彼は自分のことをあまり話そうとはしない、常に他者の話題に乗っかってばかりだ。きっと、それだけ思い出したくない過去があるということだろう。
だから、私は知らなければならない。彼の隣を歩く者として、支える身として、知っておく義務がある。
「痛みを分け合うのに、私じゃ不十分かしら?」
僅かな沈黙が流れる。
赤信号で止まった車の中は、エンジン音しか入ってこない。
そして、おもむろに顔を上げた鈴木会長は突然笑い出した。
「はっはっはっ! いや、天竜君もきっと喜ぶよ。……そうだね、これから彼と一緒にプロを目指すのならいつかは知らなきゃいけないことだ。怒られない範囲で、少しだけ語ろうか」
鈴木会長は深いため息を吐いた後、真面目なトーンで話し始めた。
◇◇◇
かつて、巨大な将棋道場に通っていた一人のアマチュア少年がいた。
その少年の名は"天竜一輝"。当時の将棋棋力は三級程度、どこにでもいるありふれた将棋指しだった。
戦術は生粋の居飛車党、相振り飛車と対抗型だけを軸に収め居飛車一本で戦う硬派な少年。
そんな彼はまだ中学生。……いや、もう中学生だった。
プロを目指すのならば、中学生時点で既に六段を越えていなければ話にならない。しかし天竜は有段者どころか級位者、それも3級ぽっちの平均的棋力。プロを目指すのはおろか、奨励会に入ることすら敵わない実力だった。
しかしある時、彼の通っていた道場へプロのタイトルホルダー、それも"永世名人"のタイトルを持つ大物が指導対局に来たことがあった。
現役のプロと戦えるのは貴重な機会、道場に通っていた子供や大人たちは喜んで指導対局を受けた。
指導とは言え実力差は天と地、他の子どもたちはみな"6枚落ち"や"8枚落ち"といった大きなハンデを使って対局を申し出ていた。
しかし、天竜は違った。
「──平手でお願いします」
彼は無礼にも、永世名人相手にハンデ無しの"平手"で勝負を申し出たのだ。
辺りの空気が静まり返る──。
しかし、その永世名人は暫し考えた後にその首を縦に振った。ハンデを付けて勝ちに行くよりも、ハンデ無しで挑み、経験を得られると考えた天竜の意気込みを、永世名人は買ったようだった。
「指定は、横歩取りで……」
対局は当然戦型指定となり、天竜は研究勝負の横歩取りを戦型として選んだ。
そして対局が開始される──。
笑顔で答えた永世名人の顔は、対局の終わり際にはまるで別人のように変わり果てていた。
そして響いた投了宣言は、永世名人の口から放たれた──。
「……お、おぉ~、凄いね君。永世名人に勝つなんて将来有望だ」
関係者の一人が口を開いてそう言った。局面は難局化しているものの、天竜は平手で永世名人を即詰みの状況まで持っていったのだ。
もちろんこれはただの指導対局。永世名人が本気を出してくるわけはなく、手を抜いて負けるよう誘導しているのだろうと誰もが考えていた。
だが、当の本人──永世名人の顔色は真っ青だった。
「まだ時間はあるみたいだし、もう一度やるかい?」
関係者に促され、再度駒を並べる天竜。
「……名人」
「あ、ああ」
一度は勝利を味わわせて、格の違いを見せつける、プロ棋士とはいえ広報活動は怠らない。相手を一方的に負かせばこちらの印象が落ち、一方的に勝たせてもプロ棋士としての格が落ちる。それが永世名人ならなおさらだ。
永世名人は関係者に「次は本気で指してくださいよ」と耳打ちされ、1勝1敗の演出を作るよう舞台は整えられた。
だが、2度目の対局でまたしても天竜は永世名人に勝利した。
あり得ない、そう口ずさむ関係者、戸惑いの表情を浮かべる永世名人。たかが3級程度の棋力を持つ天竜が、遥か天上の彼方に座するタイトル持ちに勝利するという異常事態。
それも相手は名人戦を5回以上優勝した終生名人、栄誉称号、永世名人その人だ。
逆立ちしても、目を瞑っても、多面指ししてでも勝てる棋力差。それもプロの主流戦法のひとつである『横歩取り』で──2度も負けた。
関係者に「何やってるんですか」と声をかけられても、永世名人は反応すら返さない。盤面を見つめたまま漠然と何かを呟いている。
「まずいな……」
永世名人が来ると知って、道場の周りには記者やカメラマンなどがこぞって留まっている。その中での醜態は、棋士人生を大きく左右する結果に繋がりかねない。
無論周りにいる大半の人達はみな『わざと負けてあげた』と認識している。
だが、ある程度棋力のある者ならば分かる。
指し方に手加減がない、永世名人の指した手が決して『手を抜いていたわけではない』ということを一定の人達は分かってしまっていた。
故に、奥の方では多少のざわめきが走っている。
──子供が永世名人を平手で倒したのか?
──何者なんだあの子は?
──奨励会に推薦か?
様々な声が上がる中、道場の指導員から補足が入る。
天竜は横歩取りしか指せない、それ以外の戦型はからっきしであると。
それを聞いた関係者は頭を悩ますような表情を見せたあと、見切りをつけたような表情で天竜の肩に手を置いた。
「君、できればもう横歩取りは指さない方がいいよ」
「……え?」
「いや、こちらとしても迷惑だから指さないでくれるかな」
小声でそう伝えられた天竜は、まるで頭に石でもぶつけられたかのような衝撃を受けた。
満遍なくその棋力が永世名人に匹敵するものだったのなら、彼が奨励会へ推薦されるのも容易だったかもしれない。
しかし、天竜は横歩取り以外は平凡そのものの棋力。一つの戦法だけ特化しても将棋は勝てない。せめて居飛車という枠の中で高段者の域だったのなら、こんな言葉をかけられることは無かったのだろう。
呆然と立ち尽くす天竜を外目に、プロ棋士とその関係者たちはそそくさと去っていった。
その後、見せしめと言わんばかりに、彼の周りには振り飛車ばかりを指す大人達が道場へと入門してきた。
横歩取り以外は全くの天竜に、執拗に振り飛車で攻撃してくる大人達。やがて数日もしないうちに見切りをつけた天竜は、その道場から足を洗った。
そして一人、家に帰って静かに涙を流した。
以来、天竜はどこの道場にも所属することなく、機を見ては近くの適当な大会に参加するだけの異端者となった。
しかし、大会に参加すればするほど、周りには振り飛車が苦手だという事実が伝わっていくのも道理。数年も経てばその事実はほとんどの選手へと広まっていき、彼が目にするのは常に振り飛車ばかりの盤面だった。
対抗型、対抗型、対抗型……相居飛車の陣形には一度もならない。情報戦はどこの社会、スポーツにおいても当然の戦略だ。
天竜の振り飛車への嫌悪は、この辺りから酷くなっていった。
振り飛車が苦手ということは、自身が振り飛車を指すこともまた苦手ということ。対抗型ですらもう見たくないというほどに嫌っているのに、相振り飛車なんてもってのほか。
自分の弱点を克服するため、天竜はただひたすらに居飛車対振り飛車──対抗型の本だけを買って毎日のように読み漁る日々を送った。
だが、いくら本を読んでも戦型が頭に入ってこない。
横歩取りでプロに勝てたという感覚が脳裏に焼き付いて離れない。他の戦型を覚えようとすると、その考えが邪魔して棋譜の定着がままならない。
これを覚えているうちに、横歩取りで暗記した棋譜の記憶が消えていく感覚がする、覚えようとすればするほど過去の棋譜が色褪せて失われていく恐怖を感じる。
あれだけ苦労して覚えた棋譜を、もう一度覚えなきゃいけなくなる。そうなったらきっと心が折れる。
そんな無駄な不安という過剰な心配だけが頭をよぎり、どれだけ本を読んでもその戦型の細部までは身に付くことがなかった。
全ては横歩取りを、相居飛車を意識しすぎていたせいだ。そういう考えへと陥っていく。
──君、できればもう横歩取りは指さない方がいいよ。
脳裏で何千回と繰り返されるかつてのセリフに、天竜は頭を抱える。繰り返せば繰り返すほど、自分が将棋の人生の中で積み重ねてきた結晶のような戦法を、真っ向から否定された気分になる。
そして気づけば、その横歩取りですら自分の意志で指すことができなくなっていることに目を見開く。
完全な妄執に取りつかれ、自分の思い通りに駒を動かせなくなる精神的症状────イップスに陥っていたのだ。
症状は軽いものじゃなかった、這い上がる気力も無かった。
幾度も頭を抱え、幾度も悔し涙を流し──それでも天竜は将棋を指し続けた。自らの"好きなこと"に全力で向き合っていった。
才能の卑屈と自身の不安に無理矢理向き合いながら、天竜はなんとか棋力を一級まで持ち上げた。何年もかかって積み重ねてきたその努力は、社会から弾き出された犠牲と共に成り立った。
──だが、天竜は常に一人だった。
自分の不安を打ち消してくれる仲間も、切磋琢磨していくライバルもいない。たった一人で考え、たった一人で答えを出していく日々。
限界が来るのも時間の問題だったのだろう。気づけば20歳を迎え、子供の頃に抱いていた夢は泡沫のようなものとなっていた。
乾いた笑いを浮かべ、今日も勝てない大会へと足を運ぶ。出した会費は運営のために、自分の存在は相手の糧のために──。
一体いつから歯車が狂ってしまったのか、どこから道を外れてしまったのか。
「笑えるね」
その呟きが、彼にとっての最期の地獄だった。
◇◇◇
いつの間にか降ってきた雨を拭き払うように、ワイパーの音が車内に響く。
冷静に語り続けた鈴木会長は何とも言えない表情で前を見続け、私は少しだけ視線を落とした。
「……」
想像していたより酷い過去に、どう反応すればいいのか分からない。
「横歩取りを指すな。それが冗談紛いで言った言葉だというのは今の天竜君ならちゃんと理解しているだろう」
「じゃあ、なんで指さないのよ?」
口の滑った問いかけは、肝心なことを忘れていると鈴木会長に指摘される。
「指せないのさ、どのみち横歩取りは相居飛車の戦法だからね。天竜君に対し振り飛車ばかりを指す相手に横歩取りは使えない。間接的とはいえ、横歩取りは封印されたも同然の状態になったんだよ」
「ネットとかあるじゃない」
「横歩取りがプロレベルの強さで、その他は一級にも満たない。果たしてこんな傾いた実力でネット将棋なんて指したら、どうなると思う?」
「……ソフト指しだと、疑われたのね」
ソフト指し、それは将棋AIの手をカンニングした状態で指すこと。互いの姿が見えないネット将棋だからこそできる行為であり、ネット将棋だからこそ疑われる存在。
基本的に棋力の強さは戦型や戦法にそこまで左右されない。故にひとつの戦法で異常な強さを見せ、他の戦法をやった途端に一気に読みが狂ってしまえば運営は不正を疑うのが当然の理だろう。
事実、天竜は過去に幾度もアカウントを停止させられ、弁解の機会すら叶わなかった。
「ふざけた世の中ね、胸糞悪い」
「それが世の中というものだよ。99人を救い、1人を排除する。大衆が望む常識的な世界とはそういうものだ」
気に食わないと言った表情で鈴木会長はハンドルを切る。
「……」
将棋の戦法はひとつじゃない、故に戦法をひとつに固定させることはどうやっても無理だ。
居飛車や振り飛車など大きな枠組みに入る戦法ならまだしも、横歩取りは相手と自分の両方が居飛車を指した上で、相手が横歩取りを望んだ瞬間のみ合致する戦法。
相居飛車を指す相手でも、相掛かりや角換わりなど相居飛車の戦法は多彩にある。その中から横歩取りが選ばれる確率は薄い。
しかも横歩取りは研究勝負で有名な戦法。純粋な力勝負で臨む将棋指しが多いアマチュア界隈では、横歩取りのような研究戦型はまず選ばれない。
逆に大会と違って軽い気持ちで指せるネット将棋ならば、横歩取りはよく頻出するが、師匠のようにひとつの戦法だけ異常に偏ったスタイルだと不正を疑われる。
──行き詰まるのも当然の理だった。
「でも、今の師匠は違うわ。対振り飛車も大分マシになったし、棋力そのものも私に追いつけるくらい上がってる」
「その通り、あれから天竜君は過去を克服し大幅な成長を遂げたと見える。麗奈君との特訓の賜物だ。……だから、今日はそれを試さなきゃいけない」
「試すですって……?」
その言葉に思わず顔を上げ、鈴木会長を睨む。
この人、また何か仕組んで……!
「そんな怖い眼で睨まないでくれ、私は天竜君の味方だよ。結果的にはね」
「……いいわ、どちらにせよこれ以上私に出来ることはないもの。今は信じることしかできない」
「そうだね、私も天竜君の勝利を信じるとしよう」
先程まで降っていた雨も段々と止んでいき、夕日の太陽が雲から姿を見せる。
私は両手を握りしめて、彼の勝利を静かに願った。
「……師匠」
またそうやって期待するのがいけないことだと分かっている。
だけど、それでも……この傲慢な願いが届いて欲しいと、そう思うばかりだった。
◇◇◇
黄龍戦もいよいよ終盤戦。
敗れ去った選手達の後悔と落胆の息で飲まれる中、天竜は掻い潜るように残り続けていた。
振り返れば好調、進めば敵無し。ここから敗北が浮かぶことはまずない。
あと一歩、あと一歩でこの張り詰めた精神を解くことが出来ると。リーグ表に赤い線が上書きされ、ようやく最後の対戦相手が決まる。
ここまで来たら負けることは許されない、負けた先に道はない。
息を整え、気合を入れ直す──。そして重い腰を上げ、最後の対戦相手を視界に入れた。
夕暮れの日差しが窓の隙間から射しこみ照らす眼前、一瞬の眩さに眉を顰める。決勝リーグ常連の上位勢か、若き才に恵まれた天才児か、はたまた新生のダークホースか。
様々な予想が思いつく中、そこに姿を現したのはあまりにも予想外な人物だった。
「……マジか」