第六十四手「クールな顔して旭日昇天の優勝」
Bグループの会場は他と比べて陰湿な雰囲気が漂っていた。
暗く、冷たく、鋭い針が突き刺すような空気感。彼らの目線でそれを語るのなら──本気で勝ちに来ている、と表現するべきだろう。
そんな中でただ一人、首を軽く回しながら余裕の表情で入室する少女がいた。
少女の名は舞蝶麗奈、今年で14歳になる若き将棋指し。彼女の名を知る者は軽い舌打ちを零し、知らぬ者は女性というだけでラッキーだと心の中で安堵する。
「……」
麗奈は会場に入るなり、他のBグループの選手たちを全て視界に入れて見渡す。獲物を見定める目か、強者の選定か。
そして軽く下を向き、指定された席へと向かっていった。
「なんだアイツ……」
やがて数分後、審査員の合図と共に組み分けが始まり大会の幕が上がる。
「それでは黄龍戦Bグループの対局を始めてください」
各自対局の席に着く選手たち。
麗奈も無言で席に着くが、目の前に現れたのは一回り大きい大男だった。
「よう麗奈、オレのこと覚えてるか?」
無反応で駒を並べ始める麗奈に、大男は傲慢な色がこもる目で見下す。
「あんときは散々やってくれたが、まさか1回勝った程度で自分がこの地区で一番強いだなんて思ってんじゃねぇだろうな?」
勝負前の威圧とはまさにこのこと。大男は重そうなバッグをテーブルの横にドシン! と大きな音を立てて置く。それによって並べられた駒は振動でマス目からズレてしまい、麗奈は再度無言でそれを並べ始める。
周りから見たら脅しているようにも見えるその光景に、他の選手達は無反応。子供を相手に大人げない、などと声をかける者はいなかった。
これは大会、敵を蹴落とし勝ちに行く泥沼の戦い。嫌われる選手も数多くいるが、それでも勝った者こそが名誉を得て慕われる世界だ。
下を向いている麗奈に同情の視線は送られない、それが大会なのだと暗示している。
だが彼らもまた知らなかった。目の前の少女が、かつてまで"咎め"を知らない将棋指しでいたということを、この1ヵ月でどれだけの知を頭に詰め込んだのかを。
僅かに上がった顔から見えたその目は──相手を射殺すかのような瞳。そしてたった一言放った言葉が、彼女の全てを悟らせた。
「ええ、覚えているわ。あんたは確か玉頭位取りが苦手だったわよね」
「──あ?」
静まり返った対局場に絶対零度の圧が襲いかかる。
その意図を理解する間もなく、麗奈は頭を下げて対局を開始させた。
「お願いします」
「チッ」
対局時計が押され、両者の一回戦は幕を開ける。
ここからが長い戦いの始まり。序盤戦、中盤戦、終盤戦、そしてその途中にある様々な読み合いと秒読みの激戦が盤上で行われる。
勝つのはどちらか一人のみ、命運を分かつ一回戦だ。
一方そのころ、奥の方でBグループの審判員があくびをしていた。大会開始の進行が無事果たせたことに満足し、ようやく肩の荷がおりたと言った感じで資料とペンを置く。
密集した空間に居続けたせいで無性に喉が渇いたのか、外の自動販売機まで買いに行き、お茶をひとつ購入。冬の寒さが肌を刺激するのを感じながら会場に戻り、自身の席に着いてさきほど買ったお茶を飲む。
会場内にはパチパチと駒を打ち付ける音が響いていた。
時折「あ"ー」といった唸り声や、舌打ち、頭を掻きむしる音が聞こえてくる。見知った顔なら多少駄弁りながら指す者や、心理戦を装って独り言を呟いてる者も少なくはない。
そんな中、一方の場所から指し手の音が止んだ。
耳を傾けると誰かが席を立つ音が聞こえる。スリッパの摩るような足音がこちらに近づいてきて、やがて自分の目の前に一人の少女が訪れる。
「……何かお困りですか?」
「いや、勝ったから報告に来たのだけど」
──言っている意味が、分からなかった。
「……えーと、反則勝ちとかですかね。でしたら手を挙げて先に審判員を呼んでくださいね。今回は既に終わったみたいなので見逃しますが……」
報告しに来た少女に苦笑いで応じる。まだ開始から10分程度しか経っていない、恐らく相手の反則か何かで勝った選手だろう。
たまにいるのだ、事前に伝えられたルールを聞かずに自分勝手な行動を起こす選手が。
この子もその類の選手か、見た感じまだ若くて幼い、しかも少女、きっと大会経験が少なく勝手が分かっていないのだろう。
Bグループの審査員は困ったものだと内心で呟く。しかし、少女から飛び出た次の一言は真っ先の否定だった。
「反則? そんな事態起きてないわよ、普通に勝ったから報告しにきたの」
「え……?」
何を言ってるんだコイツはという目でこちらを見てくる少女。
そして少女は、今まで自分が座っていた席を指さす。
「気になるなら見てきたら?」
そこにはもう片方の大男が座っており、両手で頭を抱えてただただ無言で盤面を見つめている。
──その表情は、心が折れていると思えるほどに酷かった。
Bグループの審査員は訝しげに思いながらも席を立ち、少女が対局していたところまで足を運ぶ。盤面は見事なまでの詰み形。中飛車対居飛車の痕跡が見受けられ、戦型は玉頭位取りと思われる。
ふと、傍に置いてあった時計に目が行って非現実的な光景を目にする。
「……っ!?」
脇に置いてあったチェスクロックを奪い取るように手に取る。
『0:18』──『0:06』
本大会の持ち時間は互いに20分の30秒。大男の方の時間は14分消費しているのに対して、少女の時間は2分も消費されていなかった。
時計の故障か? 相手の押し忘れか?
疑いが晴れぬままおもむろにチェスクロックの詳細ボタンを押し、対局の手数を表示させる。そこには、75手と表示されていた。
「1手……3秒……」
75手、つまり片側38手。それを120秒で決着させたというのなら、彼女は『1手3秒以内』で指していたということになる。
審査員はチェスクロックを持ったままその場で硬直した。そして、隣で枯れたような声を発している大男に目を向ける。
「は……はは……」
彼がなぜここまで絶望的な表情をしているのか、それをようやく理解する。
これだけの棋風を見せられては戦意喪失するのも無理はない。高すぎる壁とは、人の心を折ってしまうものだ。
審査員はその対局の番号札を確認し、少女の名前を知った。
舞蝶麗奈──どこかで聞いたことある名前。確か鈴木会長が一目置いた選手たちの中に、そんな名前があったような気がする。
しかしこれは一目どころの話ではない。自分は今、時代の特異点を刮目しているのではないかと思えるほどに歴然とした証左。
それが今日どのような結末を迎えるかなど、考えるまでもなかった。
──続く2回戦。1回戦を勝ち残った者達の自信は過剰なまでに膨れ上がる。初戦落ちという最底辺脱出と、この大会で戦っていけるという格を手に入れている。
自分ならいけると、優勝まで届くと──。そう考える者の前に彼女は立ち塞がった。
「あっれ~? 麗奈ちゃんじゃ~ん。前回の県大会は結果どうだったの~? も、し、か、し、て、負けた? とか~?」
「あんたは4六銀左急戦が苦手だったわよね」
「──え?」
対局開始──。9分後、僅か63手で決着がつく。
甘い手を一切見逃さない現代将棋の切れ味が、素人の手を片っ端から両断。
この辺りで周りの選手たちの目の色が変わり始める。
「あんたは升田式石田流」
「あんたは白色レグホーンスペシャル」
「あんたは中田功XP」
「あんたは4→3戦法」
「あんたは飯島流引き角戦法」
次々と、相手の苦手戦術に合わせて己の得意戦法を繰り出し対応していく麗奈。先手を引こうが後手を引こうが急所にストレートを放たれる。堅実な定跡型も、意表を突く奇襲型も、全て見切られ一刀両断。
オールラウンダーの体現者が、その剣戟の間合いを全方位からぶった斬る。
次第に選手達は戦慄の表情を浮かべ、目の前の少女を前に膝を屈していく。
何かがおかしい──そう感じた頃には全てが手遅れ、選手たちは呆然と時の流れに身を任せるばかり。張り裂ける声も、悔しいと思う唸り声も上がらない。
「……負けました」
「ありがとうございました」
対戦相手の一礼をもって、麗奈は席を立つ。
次の対戦相手は──もういない。
「え、っと……優勝……おめでとうございます……」
「ええ、ありがとう」
話しかけられた選手の声を軽く躱し、クールに立ち去る麗奈。
歴然とした差に全員が固まる、夢でも見ているのかと頬をつねる。
麗奈のいなくなった会場内で、一人の選手が椅子に倒れ落ちるように座った。
「……なんだこれ、なんなんだこれ!」
その声に反応する者はいない。
ただ他の選手達も同じように頭を抱えて喚く。
「ふざけてる……」
「じ、地獄だ……」
「僕もう大会出るのやめる」
連なるように次々と頭を抱える選手達。
つい先程まであった『勝てる』という自信と『優勝』という夢。そのどれもが泡沫だったかのように消えていく。
中には40手余りで倒された選手もおり、二度とこの場に戻らないと心折れる者もいた。
そして、今まで自分達が哀れみの目で見てきた者達、上から目線で見下していた敗者の枠の中に自分達が入ることをようやく自覚する。
冷静沈着な者達が揃うBグループは、かつてないほどの絶望で埋め尽くされていた。