第三十手「青き龍の相居飛車」
決勝リーグ試合の開始時間となり、会場が一斉に静まり返る。
ついに、俺と龍牙の勝負が始まろうとしていた。
「……」
会場はもはや緊張全開、他の対局者もこちらを一瞥しながら非常に気になっている様子。
相手は一般戦の県代表、その推定棋力は四段……いや、五段に匹敵してもおかしくはない。これらは初段や二段と言った"有段者"とは違い、完全な別格として扱われる"高段者"の部類だ。並のアマチュアが立ち向かえる存在じゃない。
「んじゃ、始めるか。──振るぞ?」
余裕の表情を浮かべる龍牙は端から歩を5枚左手に落としていき、右手を被せて勢いよく混ぜる。
カチャカチャと混ざり合う音が聞こえ、それが先手後手を決めるだけの振り駒とは思えない緊迫感を醸し出す。
永遠と続いていたかのように感じた数秒の振り駒は、龍牙の放した両手によって盤上に歩が散らばっていった。
歩が1枚、と金が4枚。その結果は──俺の"先手"だった。
龍牙は左側に置いてあった時計を右側に持っていき、準備を整える。先手は手番を、後手は時計の位置を決められるのがアマチュア界での基本的なルールだ。
「ところでお前、青薔薇赤利ってガキを知ってるか?」
「……? 知らないが」
「そうか。チッ、やっぱ中央にいやがんな……」
意味深なことを呟く龍牙だったが、すぐさま対局の姿勢に入った。
「お願いします」
「あァ」
ついに、決勝リーグ第一試合が開始された。
龍牙が力強くチェスクロックのボタンを押し、開始の合図が鳴らされる。……と、同時に俺は素早く初手を指した。
▲7六歩。
迷わずに指した初手は、全ての将棋棋士が最も指しているであろう当然の一手。角道を開け、居飛車と振り飛車、はたまた奇襲戦法など全ての部類に派生出来る最善最良の手。
しかし、ノータイムで指したその手に龍牙が驚くことはない。
「俺はお前の情報をほんの少しだけ小耳に挟んでいる、居飛車が得意で振り飛車は大の苦手だってな」
龍牙は煽るような目つきで俺を見る。
「……だったら、なんだよ」
この大会で俺は振り飛車を相手に連勝を飾っている。
だがその実力はまだ完成していない。県大会優勝者の振り飛車を相手にしたら、流石の俺でも跡形もなく敗北してしまうだろう。
それくらいの実力差があることは、対峙した瞬間から薄々感じていた。
──やっぱり、振り飛車で来るのか?
絶対的な勝利を目指すのなら、俺個人を相手に勝ちにくるのなら、龍牙は100%振り飛車を指してくるだろう。
天竜一輝は予選で振り飛車を相手に二度も勝っている。だからここは逆手に取って居飛車を選択しよう、なんてのは愚策中の愚策。
今の俺は単に振り飛車の実力が底上げされただけであって、決して居飛車の実力が鈍っているわけではない。ここで居飛車を指すということは、それこそ俺の敷いた罠に嵌っているようなものだ。
恐らく、予選で俺に敗北を喫した聖夜もそれを理解している。だからこそ次も同じ振り飛車で挑もうと対策を練ってくるだろう。
決勝リーグまで上がって来た他の選手達も、俺を相手に居飛車を指すことはない。用意されたパターンを変えることは、それこそ予期せぬ事態を引き起こすと分かっているからだ。
相手の苦手な所を攻撃する、弱点を攻める。将棋に於いて鉄則の理。
それを破るなんてことはないだろう。こいつもまた、知り得た情報を使った最善手に手を伸ばそうとしているに違いない。
──龍牙が動くまで、そう思っていた。
△3二金。
銀の上を摩るように奏でた小さく軽い駒音は、周りのざわつきを一斉に沈めるには十分すぎる答えだった。
「は……?」
俺は盤面を二度見し、何かの間違いではないかと龍牙を見上げる。
「まて、この手……!」
「気づいたか?」
軽く、自分の腕の重力のみで静かに時計を押した龍牙は、ゆっくりと天竜の前まで顔を迫らせ、得意満面な表情を浮かべた。
「──俺は"居飛車"を指す」
その宣言はあまりに大きいものだった。
一瞬何を言ったのか理解できなかった俺は、再び盤面を見て現実を受け止める。
本気か、こいつ──?
俺が唯一得意としている局面、相居飛車。間違いなくこれはその局面に相違無い。相手の望んだ戦法を指すなんて愚策中の愚策、舐めている一手だ。
だが周りでそれを見ていた観戦者は皆、それとは別の期待に染まった感情を浮かべていた。
ついに、この二人が全力でぶつかる瞬間が見れるのだと。
「相手の苦手な所に付け込んで制する勝利なんざいらねぇ。俺がお前の情報を知って何を思ったか分かるか? 振り飛車を指せば勝てる、なんて馬鹿なこと考えたと思うか? ハッ、違うな、それは自分の力が相手より劣っていると自ら自覚している雑魚だけだ」
そう言って、龍牙は辺りの観戦者や選手たちを馬鹿にするように見渡す。言われた選手は顔を顰めるものの、彼の言っている言葉の正当性に口は開かない。
聖夜もその言葉を黙って受け止めるばかりだ。
「俺はな天竜一輝。お前の得意な戦型をこの手で真っ向から潰してやろうと、そう思ったんだよ」
これが王者の余裕か、それとも愚者の慢心か。
その見極めはこの一局を通せば全てが明らかになるはずだ。
「……」
俺は静かに深呼吸をし、息を呑む。今まで覚えた振り飛車の知恵と知識を全て捨て、過去の自分を思い出す。
あの時麗奈を下した居飛車の鋭利な感覚、研ぎ澄まされた本来の大局観。
目の前の存在はその土俵を自分へと託してきた。相手の得意戦法で打ち負かすことを信念とし、自身の強さを見せつけるために如何なるハンデも心理戦も問わない。
それは将棋に対する冒涜だ、それが許されるのはこの棋界においてたった一人しかいない。
アマチュア程度の自分達がそんな大層な勝負を挑んで、許される訳がない。将棋の全容を、そのほんのひとかけらも理解できていない者が、相手に施しを与えるなんて言語道断と言える。
しかしそれもまた、将棋なのかもしれない。
泥沼の勝負を繰り広げるより、相手の弱みをひたすら叩く戦術より、ただ真っ向から勝負を挑み、そして勝利する。それもまた芸術的な棋風に値するのかもしれない。
だがこれは将棋だ、勝負だ、大会という実戦の場だ──。
一度指した手は戻せない、やり直しなど許されない。その一手が、自身の全てだ。
「……分かった」
ただ一言。龍牙に聞こえる程度の声でそう呟いた俺は、飛車先の歩を親指と中指で挟み、龍牙の顔の辺りまで持ち上げた。
そして──。
▲2六歩。
信念の込められた強い駒音が会場に響き渡る。
同時に赤く、薄い龍がその瞳に宿った。
会場は騒然とする、この大会で天竜の戦型が相居飛車になったのは一体何年ぶりだろうか。それほどまでに古く、忘れさられていたはずの棋風が段々と蘇って行く。
己に秘められた有限の力を、その全てを引き出し全力の風格を表す。自身を拘束していた最良の思考を解き放つ。その姿に観戦者は皆、過去の情景を想起した。
──思えば、この男が相居飛車で負けたことがあったのだろうか、と。
龍牙の堂々とした居飛車宣言に俺は強く応じた。
そしてその手を受けて龍牙もまた、指す手を一気に強めた。
「さぁお前の大好きな相居飛車だ、全力で向かって来いよ? 天竜一輝」
「望むところだ……!」