第二十八手「魔物が姿を現す時」
予選第三試合、予選最後の対局を行っていた選手の一人が、盤上へと倒れ伏した。
「は……?」
軽快な音を立てて地面へと散らばる駒、同時に静まり返る会場。
ピー! っという甲高い音が鳴り響き、その数字が0になる。
『後手、時間切れです』
チェスクロックの秒読みが0になり、盤上へと伏している選手の負けが決まった。
「お、おい! 大丈夫か!?」
「救急車、救急車呼べ!」
審判や係の人達が倒れた選手の元へと駆け寄り、救護する。
倒れている選手は顔を真っ赤にさせ、大量の汗をかいていた。
「病気……じゃないよな、どうみても」
明らかに普通じゃないその様子に辺りがざわつき始める。
将棋はマインドスポーツであり、陸上競技とは全くの別物。怪我をすることはなく、対局中に外的要因で異常をきたすことはまずありえない。だから対局中に倒れれば、真っ先に病気や持病の類を疑うだろう。
だが、その選手は病気を患っているようには見えなかった。
「情報過多、脳のオーバーヒート……」
俺は一つの結論に辿り着く。
将棋において唯一酷使してしまう部分が一つだけある。
それは──"脳"。
膨大な情報がリアルタイムで頭の中に詰め込まれていく将棋において、しっかりと取捨選択を行わないと脳はその稼働領域を超過する。
対局には持ち時間、制限時間が存在する。時折局面から思考を切り離し、リラックスすることで我々人間はその膨大な情報量をコントロールしている。
だが、一度秒読みに入ってしまえば休憩時間なんてものは存在しない。思考を切り離し休ませる、なんて事をたった30秒でやるのは無理がある。
となると、秒読みが続いてしまう選手はいずれ限界が来る。そして限界が来てもなお集中を続けようとすると……いずれ壊れる。
しかしそれは"普通の将棋"においてはまずあり得ないことだった。なぜなら、そんな限界が来るよりも先に将棋の方が終了する。
仮にも秒読みに入るということは互いの局面は終盤、お互い詰みを模索する段階だ。そこから長期戦になることは滅多にない。
仮に長期戦になったとしても、思考に限界が来れば脳は一度思考をクリアするよう自動で切り離すはずなのだ。
そのリミッターを無理矢理解除してまで考えるほど、地区大会の選手はイカれていない。
そして思考が動かなければ人は焦ってでも適当な手を指すはず、いわゆる直感の手。その手が悪手であれ好手であれ、とにかく手は指すはずなのだ。
老人ならまだしも、倒れた選手はまだ若者だ。時間に追われているのにも関わらず最後まで指さずに考え続け倒れるなんて、そんなことあるはずがなかった。
異様な空気は選手たちを不安にさせ、平常心を蝕むように悪寒を走らせる。
「何かがおかしい……!」
俺は千鳥足で倒れた選手が対局していた場所まで歩き、その盤面を直視した。
「……は? なんだこれ……!?」
そこで俺は見てしまったのだ。
倒れた選手とその相手の盤上を、二人の試合の残骸を。
振り飛車と居飛車の相穴熊、倒れた選手の側が振り飛車だ。
一見普通のように見えるその囲いとは裏腹に、中段の駒位置はまるで常軌を逸していた。
右辺と左辺の辺り一面に"と金"が羅列され、それでいてどちらも入玉していない。相手側の玉は空中楼閣のような中段玉で、よく見れば穴熊に入っているのは角だ。いわゆる穴角戦法の名残のようなものだろうか。
特に勝った相手側の盤上は"不成"の駒が非常に多く目立っている。俺にして見ればそれは、もはや将棋とは呼べない何かだった。
「師匠? あれ? 師匠~!」
トイレから帰って来た麗奈が俺の元へと走ってくる。
「何かあったの?」
「ああ、これを見てくれ……」
俺は麗奈に倒れた選手について見た限りの事情を話した。
相手が使った穴角戦法は挑発の一種、悪手のオンパレードを詰め込んだようなハンデ戦法だ。
しかしだからといって魅力が無いわけではない、それを使う専門家も実際には多い。問題は挑発を含んだ戦法でも、入玉を狙おうとした中段玉でもない。
「投了図……随分としっちゃかめっちゃかね。一応拮抗しているようにも見えるけど、盤面の左半分がさっきの倒れた選手の影響で駒が無くなっていてよく分からないわ」
麗奈はこの対局で行われたであろう煽りや挑発といった感情的な部分を除いて、自らの思う平等な形勢判断を行う。
そう、俺もこの形は一見一目拮抗しているように感じた。倒れた選手が圧倒的に負けている、という局面でも無かったのだ。
だが、俺はその局面になぜか寒気がするほどの恐怖を抱く。
「でも、それっておかしくないか……。互角ならこんな風にはならないはずなんだが……いや、そもそもこれは本当に互角なのか……? 何かもっとこう、意図的な悪意を含んだ指し方に見える……」
捻り出そうとしても抽象的な言葉しか出てこない。
それは今まで指してきた将棋の、自分の価値観と比べて絶対にあり得ない何かが蠢いているように感じた。
「……師匠がそういうのならそうなんでしょうね。けど、そしたらここにある不成の駒ってまさか全部……」
麗奈は嫌な予感を感じ、辺りを見渡し始める。
そんな麗奈を外目に俺はふと隣に置いてあったチェスクロックのボタンを押し、手数を確認した。
「なっなんだこれ、バグじゃないのか……!?」
目に入って来た数字に俺は驚愕を隠せなかった。
チェスクロックを持っていた手が震える、見た事もないその手数に恐怖を覚える。
そこには"303手"という数字が表示されていた。
「なによ、これ……」
麗奈もその手数を見て目を見開く。
アマチュアの一般的な将棋の手数は、約80手~120手で終わることが多い。プロの平均手数も110手とその範囲に収まる。
仮にお互いの玉が相手陣地に入り込んで捕まえられない状態、"相入玉"模様になったとしても、その手数は200手前後だ。300手以上手が進むなんて、そんな対局普通は自然発生するものじゃない。
それにこの対局、お互いの玉が入玉すらしていない。ましてやこんな短い時間で300手も手数を進めるなんて異常としか……。
「嘘……なんでここに……」
会場を見渡していた麗奈は、ある一点を見つめて顔を真っ青にした。
他の有段者が麗奈の視線の先を追うと、同じように目を見開いた。
「お、おい、アイツ……」
「なんでこんな大会に出てやがるんだっ……」
見つめた先は試合結果の報告受付場、自分がその試合に勝ったか否かを報告する場所だ。
審判の人数が選手より圧倒的に少ないこの地区大会、一部の県大会では勝敗を自身が報告するものとなっている。
そしてその場所に一人の男が立っていた。
そう、こんな状況で試合結果を伝えに行くやつはただ一人、倒れた選手の対戦相手だ。自らが倒した選手が運ばれていく姿には目もくれず、その男は悠々と立ち去る。
「麗奈、アイツのこと知っているのか?」
俺の問いに麗奈はゆっくりと頷き、息をのむ。
あの麗奈が身を退き、慄いている。そんな光景に俺はただ呆然と返事を待つだけだった。
場内を不穏な空気が漂い始める。俺が巻き起こした小さな風を、突如として現れた暴風がその全てを薙ぎ払っていくような感覚。
ポツリと小雨が降っていた会場の外では、気づけば豪雨とも言える大雨に変わっていた。
「青峰 龍牙……昨年度の"県大会優勝者"よ……」
会場はその瞬間、沼に引きずり込まれたかのようなどん底の空気へと変貌を遂げた。




