愛情という名の病理
それは僅かな違和感でした。けれど確かに、ソレは変わっていました。
おじさんの手に、布が巻き付けれていたのです。そしてそこには、赤い血が滲んでいました。
恐らくは、つい先ほどの逃走中に傷を負ったのでしょう。なのに、おじさんは顔色一つ変えず、私のことを抱っこしています。
ズキズキと、胸が痛みました。私のせいです。私が、役立たずだから。おじさん一人ならそんな怪我、負うはずないのです。全て、私が足を引っ張っているから。
「ふぅ……さて、と。依月、少し頼みたいことがある」
「な、何ですか? 私に出来ることなら、何でも言って!」
「ありがとう。少し、仮眠をしたいんだ。見張りをお願い出来るか?」
「任せて! おじさんは安心して、寝てて良いからね!」
そんな私の元に、おじさんは狙い澄ましたような提案をしてくれました。おじさんは私の頭を軽く撫でると、そのまま壁にもたれ掛かって眠りにつきました。
「……おじさん?」
……す、凄い。僅か数秒で眠ってしまいました。私は呆気に取られながら、そのおじさんの顔を眺めました。
とんでもなく強いおじさんも、こうして眠っている姿は普通ですね。私は暖かい気持ちになりながら、おじさんの隣に座りました。
「あっ……」
目が向くのは、やはりおじさんの手です。赤い染みになっているそれを、私はゆっくりと解きます。血が固まって少しグロテスクな光景に、私は顔を歪めました。
「ごめんね……ごめんね、おじさん」
私はポケットからハンカチを取り出して、おじさんの手に巻き付けました。応急処置の仕方は分からないけど、血の付いた布をずっと着けているのは不衛生だと思います。私に出来ることは、これくらいでした。
「それにしても……おじさん、全然起きないな」
私はそっと、おじさんの顔に触れました。さわさわ、ぷにぷに。ひげも生えていない、綺麗な顔を撫でて突きました。
「ふふっ……ふひひ♡」
どうしてこんな幼稚なイタズラに、心が躍るのでしょうか? おじさんに申し訳ないという気持ちと、おじさんをもっと感じたいという想いが喧嘩をしています。
私を助けてくれるおじさん。私の傍に居てくれるおじさん。私を守ってくれるおじさん。おじさんから離れたくない。嫌われたくない。もっともっと、傍に居たい。
どうしたら、おじさんの傍に居られるかな……?
その時、私の脳裏にはありえない言葉が浮かびました。きっと、平常では口に出せないような、恥ずかしいこと。けれど今の私には、名案のように思えてしまったのです。
「私の全部、あげたら……受け取って、くれるよね?」
全部。そう、全部あげましょう。今の私に支払えるものは、自分の身体だけです。だから、それを差し出しましょう。
そうしたらもう、私はおじさんから離れなくて良いのです。ずっとずっと、おじさんのもの。もし、この世界から抜け出したとしても、それは変わらないのです。
「んっ……♡ そう、しよっか」
なんて退廃的で、享楽的なんでしょう。私は少し、おかしくなってしまったようです。
仕方ないのです。独りぼっちは嫌なのですから。どんな生物もうるさくて、独り善がりで、私を恐怖させるというのに、おじさんだけは……ずっと静かに、傍で私を支えてくれるのです。こんなの、手放したくないと思うのが当然でしょう?
そうしましょう、そうしましょう。おじさんは私のこと、拒みませんよね? 私、聞き分けの良い子ですから、ワガママなんて言いません。ただ、貴方が傍で私を暖めてくれるだけで、それだけで良いのです。
お願い、私を……受け入れて。
12
「おじさん♡ おはようっ」
「……あぁ。おは、よう」
視界を全て埋め尽くすほど近距離で、依月がそう呟いた。彼女はそのまま俺の瞳をじぃっと見つめたまま、ただずっとそうしていた。
「依月……? どうかしたのか?」
「おじさん、照れたりしないの? 私、結構はしたないことしてると思うけど」
「顔に出ないだけだよ。心臓バックバクで弾けそうだ」
「んっ……! 嘘じゃん! 全然普通!」
依月はそのまま、私の胸にぐりぐりと顔を擦りつけ、コアラのように腕をホールドして密着してきた。まるで、マーキングをされているようだった。
「おじさん。私、ちゃんと見張りしてたよ? ご褒美、欲しいな」
「ありがとう。依月は偉いな」
「んぅ……♡ もっと、ちょうらい……♡」
自殺すれば睡眠は不要だが、それは禁止している。なので、こういった見張りはかなり助かるのだ。偶に、生きたまま苗床化してくる生き物とか居るし。そういうのに捕まると、ロスが激しいのだ。
俺は依月を抱き上げて、歩みを進めた。彼女は当然だ、とでも言わんばかりに俺の首へ手を回し、にまにま笑いながら俺を見ていた。
「随分嬉しそうだな。そんなにコレ、良いものか?」
「とっても、幸せな気分。もっとも~っと……! たくさん頂戴♡」
彼女はそれから、一時たりとも離れようとはしなかった。たとえ彼女を降ろそうとも、彼女の手や身体は、常に俺へ張り付いたように触れていた。
困ったのは、依月の過剰とも思えるその執着だった。彼女は俺の上着を羽織りながら、常に俺の手を握っている。もし一度その繋がりが絶たれると、依月は決まって情緒を壊してしまうのだ。
「おじさん……! やだ、離れないで!」
「大丈夫、大丈夫だから。すぐに終わらせてくるから、待っててくれ」
「やらぁ……! 行っちゃ駄目ぇ……!!!」
それは、いつものように異形が襲いかかり、降りかかる火の粉を振り払おうとした時だ。俺は刀を抜くため、依月の手を離した。たったそれだけのことで、彼女は瞳に涙を浮かべ、呼吸を荒くした。
時間にしてみれば1分も経っていない。俺はその間、ずっと依月の傍に居た。だというのに彼女はその後、俺に抱き着いて泣き出してしまったのだ。
「手、離さないで……! ずっと繋いでてよぉ……!」
「す、すまん……ほら、もう離さないから」
「ぐすっ……約束、だよ?」
聞いたことがある。人間は極限の状況下に置かれると、たとえそれが得体の知れぬものや、自分に害を為す存在であろうと、その存在に同調、依存してしまうのだそうだ。
彼女は今、その状態に近い。この異様な空間に一人で、何度も強いストレスに苛まれてきた。だからこそ、一種の防衛反応としてこのような行動を取り始めている。
唯一頼れる俺の機嫌を損ねぬように、その存在を失わぬように、必死に俺を追い求める。だが、それは真に彼女を救わない。海水を飲んでも乾きは潤されないように、依月が壊れるまでそれは続くだけだ。
「おじさん……? もっとぎゅーってして?」
「あぁ……俺は傍に居る。だから安心してくれ」
「うん……♡ ずっと、こうしてて♡」
さて、俺はどうするべきだろうか。このまま依月の手を振り払えば、彼女はきっと壊れてしまう。だからといって、この手を取り続けるのが正しいとは到底思えない。
……その時、ふと一つのことを思い立った。確かに、この空間に出口がある保証は無い。だが、俺にはその保証を確実にする方法がある。
時空渡りの術を使えば、この世界からは容易に抜け出せるだろう。問題は、俺はどんな世界に飛ぼうと構わないが、依月は元の世界へと帰還させなくてはならないことだ。
以前の俺であれば、緻密で面倒な作業が必要となる時空渡りよりも、探索ついでに出口を探す方が良いと考えていた。だが、これ以上依月と共に過ごすと、それだけ取り返しがつかなくなっていく。
「なぁ、依月」
「なぁに?」
「君の居た場所は、どんなところだったんだ?」
なら、少し本気を出すことにしよう。彼女にはこの世界も、俺も、相応しくないのだから。




