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2-16 隷属の聖餐

 しばらくは警護の警察官と介護の補助のための家政婦が家に出入りすることになった。エリザベートは他人が家にいることには慣れていたが、アレクセイはこれを聞いた時、渋い顔をした。だがまあ、仕方がないと納得し、文句は言わなかった。忙しい日々で行き届かなかった掃除を頼めて、エリザベートのほうは機嫌をよくしていた。

 アレクセイが退院した日、エリザベートはキッチンに立っていた。久しぶりに、そして意図的に、彼女はハンブルク風ステーキ(日本で言うハンバーグ)を調理していた。ベルリンの官舎に通っていた頃はまだ体力的時間的余裕があり、時折作っていた料理だが、ドレスデンに来て共働きの多忙を極める生活になってからは、手間を理由にめったに作らなくなっていた。

「久しぶりにハンブルク風が食べたいな」

 アレクセイから度々そう要望されるたび、彼女は「面倒だから」「こねるのに手がつかれるから」と、さりげなくあるいは冷ややかに拒否し続けてきた。それは、彼の要求をすべて受け入れないという、彼女に残された最後の小さな抵抗の現れだった。

鉄鍋の中でバターが焦げ付く音を聞きながら、エリザベートは悟った。これまでは、彼に要求されることをすべて「与える」ことにためらいがあった。しかし、病室で彼の完全な無力さを目にした後、その心理は反転した。

「もう、何も拒否したくない。あの人の望みはすべて叶えてあげたい」

 拒否し続けることは、自分の心に「拒否権」という不安定な自由を残し、それは同時に、自分も彼に拒否されるかもしれないという強烈な不安を生み出していた。彼に完全に尽くし、その要求の全てを満たし、完全に支配されることこそが、自分自身を救済する唯一の道だと彼女の深層心理は叫んでいた。それは、彼に必要とされ、彼の一部となることで得られる、歪んだ「安息」への渇望だった。

 完璧に焼き上がったハンブルク風ステーキを並べた皿を、エリザベートはアレクセイと子供たちの前に置いた。私もずいぶん料理が上手になったものだわ、とエリザベートは自画自賛の気持ちでいっぱいだった。アレクセイはフォークを取り、静かに肉片を切り分けた。彼は一口食べ、微かに満足げな笑みを浮かべた。

「ああ、懐かしい。やはり、病院の食事よりも君の作るものが一番だ」

「お母さん、おいしいね」

 子供たちも喜んで食べている。アレクセイの言葉は褒め言葉であり、彼女の献身への承認だったが、エリザベートはそこで満たされなかった。料理は、誰でも提供できる奉仕だ。「一番だ」という言葉だけでは、彼の「必要不可欠な存在」にはなれない。彼女の心は、彼女にとって最も屈辱的で、最も深い献身を、自ら差し出す準備を始めていた。

 彼女は食事の間、静かにアレクセイを見つめていた。そのまなざしは、彼の口元や手の動きを追うのではなく、彼の無力さの残滓を探し、そして決意を固めていた。

「ずっと拒否し続けてきた、もうひとつのこと」

 それを差し出せば、彼女の自己決定権は完全に消滅し、彼の支配の中に永遠の平和を見いだせるような気がする。夕食が終わった後、彼女は、彼が寝室へ向かうその瞬間を待った。


 エリザベートは、彼に寄り添い、慎重に、しかし手慣れた様子でベッドまで付き添った。書斎から寝室へ杖をつきながら向かうアレクセイの足取りは、まだ完全ではない。そして立ったり座ったりという動作は、普段は全く意識していないが、以外と腹部に力がかかるのだ。ベッドの端に腰を下ろしたアレクセイは、ほっとしてすぐにでも横になろうと軽く身を傾けた。

「待って、寝転ばないで、そのまま座っていて」

 エリザベートは、着ていたガウンの紐を緩め、音もなくそれを床に落とした。彼女は、今夜の「儀式」のために、以前アレクセイが彼女に買い与えた、あの深紅のサテンスリップを着用していた。スリップ姿のまま、彼女はアレクセイの足の間に膝を曲げ、ベッドの脇の絨毯にゆっくりと跪いた。その動作は、彼女の自由な意思による最終的な降伏であり、彼への絶対的な隷属を意味する、この夜の儀式の始まりだった。

 アレクセイは、彼女の予期せぬ行動に、一瞬静かに目を見張った。腹部に力をかけてはいけないから、性的な行為は残り6週間できない、それは女性が上でもだめだと医師から厳命されたのだ。彼女もそれを理解しているはずだった。だが、彼女がずっと拒絶をしてきた行為、それを自発的にしようとしてきたことを、彼は即座に理解した。その動作は、彼へのサインではなく、彼女自身の内なる決意を象徴するものだった。

「……いいのか? 君はずっと嫌がって……」

 そう、産褥期の8週間という長期に渡った禁止期間はもちろん、毎月の月経期間中も、たびたび頼まれてはいたが、エリザベートはずっと拒絶し続けてきていた。ジークフリートとの結婚生活では一度もそんなことは要求されなかったことに加え、その行為は貴婦人らしくなく、ひどく屈辱的で気持ち悪さもあったからである。エリザベートは無言でゆっくりと顔を近づけた。彼は、彼女の動作の一つ一つ、慎重で、そして熱烈な瞳の奥に、「あなたを裏切らない」という、彼の知るどの誓約よりも強固な真実を見た。その眼差しは、彼の魂を尋問し、そして許しを与えていた。


 快感が徐々に高まるにつれ、アレクセイの思考はノイズへと変わっていった。マレンコフも、アバクーモフも、ジークフリートの幽霊も、すべてが雑音として遠ざかった。彼に残ったものは、彼女の技術と、彼女が与える熱に完全に支配された、剥き出しの自己だけだった。今俺は彼女に命を預けている。この行為は一見男が女を支配しているように見えるが、実のところ男は女に支配されている。「支配」と「被支配」の境界線が溶解する、甘美な感覚。

 エリザベートは、妙な気持ちだった。する前は、奴隷のように屈辱的な行為だと思い込んでいた。こちらには快楽は一切与えられない、奉仕するだけの行為のはずだった。だが今、相手を支配しているのはこちらのほうだった。喉が塞がって息ができなくなるほど深く含んでみたり、逆に先っちょや裏側を唇と舌で弄んでみた。誰に教えられたわけでもないのに、彼女は面白がるようにそれを繰り返し、相手の反応が滑稽なほどでおかしくなってしまっていた。歯を立てれば相手を殺すことだってできそうだ。アレクセイがスリップの胸元から手を入れて、乳房をつかんだので、エリザベートは自分も欲望を感じた。だが、自分は今夜快楽を与えられることはない。それでも全然かまわないのだ。


 彼の喉から漏れた声は、訓練された工作員のものではなく、純粋に解放された男の呻きだった。その行為は、彼が体制から受けたすべての命令、すべての屈辱、すべての恐怖を、一瞬で洗い流すかのように激しかった。


「洗面所に……」

 そっと離れたエリザベートに対し、アレクセイは弱々しく言った。さすがに飲ませるのはどうかと思ったからだ。だが、エリザベートは意を決したような顔をして、ごくりと音を立てて飲み込んだ。エリザベートは、反射的な感情を全て押し殺し、彼の体の一部を、彼の意志を、彼の支配を、彼の全てを、そのまま受け入れた。


 彼女は、口元を拭うこともなく、ただ一言も発せずに彼を見上げてていた。アレクセイもまた無言で彼女を見返す。彼の瞳は静かだった。彼らの間に、これで誰も踏み込めない、不可侵の秘密が築かれた。通常の愛が入り込む余地のない、強固で病的な共依存関係の完成であった。

 エリザベートは立ち上がり、腰が抜けたように座ったままのアレクセイを胸に抱いた。アレクセイは子供のように彼女の胸に顔をうずめた。

「リーザ……」

 アレクセイは何を言ったらいいのかわからなかった。何週間かぶりの快楽に浸る気持ちと、ここまでしてくれた感謝と、ついに彼女は魂までも自分に屈服したのかという喜びが入り混じっていた。エリザベートはガウンを拾い上げ、体にまとった。そしてドアの方へ数歩歩いた後、悪魔的な微笑みを浮かべて振り返った。

「時々……ね?」

 そう言ってエリザベートは寝室から出て行った。アレクセイは脱力し、ベッドに倒れこんだ。彼女に屈服し、魂を抜かれたのは自分の方だと思った。エリザベートもまた、自分が自ら入った「黄金の檻」の中で、永遠の静寂と、歪んだ幸福を見つけ、自ら鍵をかけたのだ。


第2部 完



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