2-15 訪問者たち
負傷から6日目、ちょうど感染症の危険が去り、抜糸の予定が決まった説明を受けたころだった。エリザベートはぼちぼちこの監禁生活に飽きてきており、残り2日で外に出られることに希望を抱いていた。だが、それを顔に出さないよう、アレクセイのベッドの側の椅子に座り編み物をしていた。アレクセイは彼のマフラーが編みあがるのを楽しみに待ちながら、退屈しのぎに廊下で見つけた、党機関紙プラウダをながめていた。スターリン、ベリヤ、マレンコフ……中央のお偉方の顔写真が載っている。写真印刷の技術が荒すぎて、はっきりした顔はわからないが、彼の頭には昔自分の病室に一瞬だけ顔を出した「ゲオルギー」という名の男のことがあった。元々人の顔を覚えるのは得意なほうではない。
廊下が急に騒がしくなった。二人は「急患でも運び込まれたか」と思ったが、誰かが誰かを制止するような声が聞こえた。男が大声で怒鳴っている。二人は顔を見合わせた。忘れるはずもない、3年前二人を捕らえ、この地へ送り込んだ男の声だったのである。
「貴様らあ!! えらく失敗しおってえええ!!」
歩哨が止めるのを、はなせはなせと怒鳴りながら、アバクーモフ大臣はずかずかと病室に駆け込んできた。続き間のクラーラがおびえて泣き、ナターリアがなだめる声が聞こえた。エリザベートは子供たちのほうに行くか、アレクセイの側にいるか迷ったが、決断できないうちにアバクーモフが姿を現した。その後ろから眼鏡のコズロフ中佐が大臣をなだめるように付き添っている。
「オデッサの残党を取り逃がしおったかああ! なんのためにお前らを3年もここに置いていると思っているんだあ!」
「同志大臣、説明しましたでしょう。リヒテンラーデは推定死亡と」
「そんなこと、わかったものか! 泳ぎの達者なヤツならエルベ川を泳いで逃げられるわい」
「11月のエルベ川なら凍死しますって」
夫婦はだまって二人の怒鳴りあいを聞いていた。やがて、アバクーモフは落ち着いたのか、そこにあった椅子に腰かけ、鼻息荒いままにエリザベートに話しかけた。
「奥さん、ジークフリートが水泳選手だったとかはないだろうな」
「……な、ないと思います。水泳選手でも凍死すると思いますわ」
エリザベートは落ち着いてロシア語で答えた。
「しかし、お前らはこのことをどう始末つけるつもりだ? 俺は3年間この時を待っていた。ようやく姿を現したオデッサ幹部をお前らは取り逃がしたんだぞ」
どうやらいくら推定死亡と説明しても、この男には無駄なようだった。
「同志大臣、リヒテンラーデは私に『我が妻エリザベート・フォン・リヒテンラーデ伯爵夫人に伝えよ、そなたの誇りある生き方を取り戻すべく必ず迎えにくる』と言い残しました。ヤツは生きていて、必ずまた現れると思います。その時には必ず捕らえます」
アレクセイは手の中でSS名誉リングをもてあそびながら言った。そう、あいつは死んではいない。必ずまた現れる。その時にエリザベートを守れるよう、俺は力をつけておかなければならない。権力も体力も。
「病院で大声を出すんじゃあない、廊下まで聞こえているぞ、同志大臣」
また新たなる男が現れた。アバクーモフとアレクセイはその男を見て驚いた。7年近く前、スターリングラードの病院で見た顔だった。ゲオルギー・ジューコフとともに病院に現れた、もう一人のゲオルギー。ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ、ソ連共産党中央委員会書記であり、現在ソ連閣僚会議(大臣会議)副議長の要職にある人物だった。
「やあ、同志ジューコフ中佐。いや、またの名をドイツ英雄模範市民アレクサンダー・ノイマン氏かな。ケガの具合はどうだ?」
アレクセイは返事をすることも忘れ、マレンコフの顔をまじまじと見た。中央政界のこんな大物が目の前に、それもドレスデンの地にいることが信じられなかった。
「同志副議長……なぜここに?」
さすがのアバクーモフも勢いを失った。
「なあに、甥の恩人の見舞いだ」
マレンコフの後ろからレオニード・ヴォルコフ大尉が現れた。ああ、そうか。レオニード、お前だったのか。スターリングラード攻防戦で俺が助けだした一個小隊、一緒に入院していた一団の中にレオニードもいた。そしてマレンコフがあの時病院に来たのはレオニードを見舞うためだったのだ。
マレンコフ副議長はアバクーモフ大臣に対し、冷静に言った。
「同志大臣、クズネツォフ(レニングラード事件の主要犠牲者)の残党の件だ。まだ完全に解決したわけではない。急ぎ、早急に党中央へ最終報告書を提出しろ」
アバクーモフ大臣とコズロフ中佐は慌ただしく去っていった。
「レオニード、お前は……」
「黙っていたことは謝ります。副議長の甥だとわかると、周りから特別扱いされがちですので、秘密にしていました」
レオニードは頭をかいた。
「こいつは俺の姉の子でな、小さいころから俺が弟分として可愛がっているんだ」
マレンコフ副議長はレオニードの肩を抱いた。
「あの、スターリングラードの時の『弟分の見舞いだ』というのはレオニードのことだったのですか?」
「おお、そうだ。よく覚えていたな。あの時はよくぞこいつを救出してくれた。今回こいつが珍しく連絡をよこしてな、お前さんが場合によってはアバクーモフのヤツの処罰を受けるかもしれないって心配してるんで飛んできたわけさ」
相変わらず、政治情勢に疎いエリザベートはいったいなにが起こっているのかわからず、見知らぬ男の顔をまじまじと見ていた。マレンコフはエリザベートを一瞥し、アレクセイに話しかけた。
「奥さんかい? ドイツ人の奥さん」
「そうです」
「事情は甥から聞いている。甥の恩を返すために来た。望みはなんだ? 陸軍か憲兵に戻りたいか? ベルリン勤務か? モスクワか?」
「……いったい、なぜ?」
アレクセイはまだ警戒と不思議に思う気持ちで揺れていた。
「言っただろう、遅くなったが、甥を助けてくれた礼だ。お前さんの望みを叶えてやろう。そもそもアバクーモフの地盤も危うい。あいつについておくのは、お前にとっても得策じゃあない」
アレクセイは状況を理解してきた。これは3年前と同じだ。おそらくマレンコフも自分の持ち駒として自分を傘下に入れるために来たのだろう。それならばマレンコフにつくしかない。彼は落ち着いて言った。
「では、今後は同志マレンコフ閣下に忠誠をと?」
マレンコフは顔の前で手を振った。
「そうじゃない。ソビエトではすぐに足をすくわれる。英雄同志ジューコフ将軍も足をすくわれたが、ぼちぼち政界復帰もありうるぞ。俺だっていつ失脚するかわからん。これからは『人』に対して忠誠を誓うのはもうやめろ。俺にも恩を感じる必要はない。忠誠は体制に対して誓うものだ。さあ、お前の望みはなんだ?」
「……今のままここにいさせてください。妻と、子供たちとドレスデンの地で暮らしていきたいです。私はもうロシアに帰れなくていいのです。ドイツ語とドイツ問題の専門家として、祖国ソビエトと東側陣営最前線たるドイツの復興に貢献したいのです」
マレンコフは、そうかと言い、エリザベートと目を合わせた。
「奥さん、偽装の身分で生活などさせて、本当に気の毒に思っているよ。俺個人としてはドイツ人もロシア人も結婚して混ざってしまえばいいと思ってるんだがね。奥さんはベルリンへ帰りたいかい?」
エリザベートは首を振った。
「私はアレクセイと一緒に暮らせるなら、どこにでも行きます」
マレンコフは鼻を鳴らして笑った。
「けなげだねえ。俺を単身赴任させたカミさんにも聞かせてやりたいよ」
マレンコフはレオニードにも向きなおった。
「レオニード、お前はどうなんだ。お前もドイツ語が堪能らしいな」
「まあ、役所で働ける程度にはね。おっちゃん、僕もドイツにいさせてくれよ。こっちのほうが暖かいし、給料もいいんだ」
「おっちゃんって言うなよ。年をとった気になる。ゴーシャって呼べ。ふん、まあいい。中央政界を狙わない限りソビエトでは粛清はされん。この地に、お前らは骨をうずめるといい。では、あらためて同志ジューコフ中佐」
マレンコフはアレクセイに手を出した。アレクセイは反射的に手を出し、握手をした。
「遅くなったが、ありがとう、レオニードを助けてくれて。本当に感謝している」
マレンコフは頭を下げた。
「いや、やめてください。同志副議長、そんな……」
「長い間礼が言えなかった。本当に、ありがとう」
マレンコフはMGBに寄るので、レオニードに車を回せと言った。
「ソローキンやら他の連中にも会って帰るさ。お前らが今後肩身が狭くならないくらいにはしてやれる。では、ゆっくり養生してくれ、同志中佐」
あわただしく帰って行ったマレンコフを二人は見送った。アレクセイはレオニードが「偉いさん」の近しい親族でありながら、それをおくびにも見せずに長い時間過ごしていたことに、今更ながら驚いた。レオニードはアレクセイが士官学校の最終学年に上がった時の新入生で同じ部屋だった。室長としてシーツのたたみ方からブーツの磨き方まで教え込み、俺は何度あいつを小突き、胸倉をつかんで怒鳴っただろうなあと考えた。自分の行いを振り返りながら、アレクセイは枕に頭をうずめ、彼は溜息をつき続けた。
「ねえ、どうしたの? あの人誰だったの? フクギチョウって何? なんか軍の役職?」
「ああ、かわいいリーザ。君は知らなくていい世界だ。君の先生がロシア『帝国』にいたころは、なかった役職だ。君が教わっていないのも無理はない。そして、俺もそんな中央の役職には興味がないさ」
「そういう言い方はやめてよ。ジークフリートもだけどあなたもよほど私をバカだと思っているの? 女にも脳みそはあるわ。政治のことだって勉強すれば多分わかるわ。だいたい社会主義では男女は平等だから政治家にだってなれるんでしょう?」
アレクセイは謝り、彼自身もそれほど詳しいとは言い難いソビエト中央部の政治システムをかいつまんで説明した。
「まあ、じゃさっきのマレンコフさんってとても偉い人なのね」
エリザベートはマルティン・ボルマンくらいの地位かと考えた。ボルマンにも別荘で会ったことはあったが、気のいいおじさんだった。




