愛の喜びは
茜音は、もともと鴎外の姉の使っていた部屋を借りることになった。
テスト前ということで、数学の問題集を開いて勉強を始めた。
今度の数学のテスト範囲は、チェバの定理とメネラウスの定理が含まれている。茜音にはその二つの定理がなかなか理解できない。教科書と問題集とのにらめっこ。
二問解いたら、急にやる気がなくなり、睡魔が襲ってきた。特に勉強が好きでもない茜音は問題を解くことを諦め、机に突っ伏して、目をつぶった。
その頃、リビングでは、旬と鴎外が話していた。
「どうして林太郎さんは茜音ちゃんを連れ帰ってきたんですか? 一番そういうの面倒くさがりそうなのに。」
「似ていたんだ。あの人に……。」
旬はそれ以上深く問い詰めようとはしなかった。
「少し、あの子の様子を見てくるよ。」
鴎外は、立ち上がり、リビングを出た。
パタン、とドアが閉まる音がした後、旬はため息をついた。
「林太郎さん、苦しいだろうな……。」
「茜音ちゃん、入るよ」
ノックをしても返事がない。寝ているのだろうか。眠っている女学生の部屋に入るのは些か問題があるような気がするが、鴎外は部屋に入った。
案の定、鴎外の目に映った茜音は寝息をたてていた。
「ここ、間違えてる。」
小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
やはり、似ている。長いまつげに、白い肌。まるで紅をつけたかのように紅い唇。あの人と見間違えそうなほどに。
もう一度、名前を呼んで欲しい。手料理を食べたい。願うことさえ、許されない。日本まで来てくれた彼女を、僕は森林太郎として、森家当主としてドイツへ一人帰らせてしまったのだから。自分は最悪の人間だ。
今目の前にいる少女は金髪ではなく、黒髪。その事実が、あの人ではない、と痛いほどに感じさせる。
一緒に話して、笑って過ごした日々は、一瞬のものなのに、この苦しみはずっと鈍く心の中で疼く。
「エリス……。」
その三文字が、長月の夜に溶けていった。




