ノクターン 遺作
駅についたのは、午後五時四十分。三十分に一本のバスは二分前に出発してしまったばかりだ。駅から家までは、徒歩で四十分程でつく。茜音は、歩いて帰ることにした。
今日は九月三十日。この夏服の白いワンピースを着ることは、次の六月までない。
衣替えの時期になると、太陽が隠れるのも早くなる。空にはすでに星がいくつか顔を出し始めていた。
大きな公園の前を通りかかった時、どこからからともなく、ピアノの音色が聞こえてきた。大嫌いなはずの音なのに、なぜか、それに釣られるかのように茜音の足は公園の方を向いていた。
公園は、不気味な程に人がいなかった。しかし、奥の方に人影が見えた。それは見覚えのあるものだった。
奥に進めば進むほど小さくなるあの音色。人影の前にたった時、ふと、音が消えた。ピアノの音だけではなく、周囲の音も。まるで、別世界にいるような感覚だった。
「茜音ちゃん、久しぶり。」
そう言って微笑んだのは、もう会うことの出来ないはずの人だった。
「お久しぶりです。 高宮さん……。」
そう茜音が言うと、彼女は辛そうに顔を歪めた。
「茜音ちゃん、もうピアノはやめてしまったのね。」
茜音は頷いた。
「あなたの演奏、大好きだったわ。元気をもらえたの。」
彼女に元気を与えていた、未来のピアニストの"守沢茜音"は世界中どこを探しても、見つけることはできない。
「だから、発表会も、コンクールも聞きに行っていたの。」
高宮は、茜音の演奏するものにはほとんど来てくれた。しかし、そんな彼女は四年前の五月に、病で倒れてから帰らぬ人となってしまった。
「私以外にもいたのよ。あなたの演奏が好きだった人。みんな、あなたに期待をしていたわ。」
ごめんなさい、と茜音は謝った。
「謝ることはないのよ。それでも、ピアノを辞めるのはもったいないと思うわ。だって、まだ好きなんでしょう?」
そんなことはないと、心の中の中で必死に否定をした。しかし、なぜ、ピアノの音につられたのだろうか。考えてみると、ますます分からなくなる。
「だから、もう一度弾いてほしいの。」
「私にはもう、弾けません。」
ロボットのような演奏など、もうしたくはない。
「また、茜音ちゃんにピアノの魅力を思い出して欲しい。」
しかし、高宮にそう言われる度、ピアノを弾くことが楽しかった頃の気持ちが蘇ってくる。
「弾きたい、です。」
高宮の顔が明るくなる。
「でも、怖いです。」
高宮は笑った。
「なら、目を閉じて。私が三秒数えたら目を開けて。」
言われるがままに茜音は目をつぶる。
「目を開けたらそこは、あなたが変われる場所よ。」
深呼吸をした。
「三」
怖い。
「二」
それでも
「一」
未来は変わるのだろうか。いや、変えられるのだろうか。
「また戻れる時は、あなたが変わることができた時だからね。頑張って。」
そんなことを囁かれたような気がして、茜音はゆっくりと目を開けた。




