最後の瞬間
「茜音ちゃん!」
高浜さんの声がした。もうそろそろだと、なんとなくわかった。
「わたしは今が思い出になることがこわいです……。」
数え切れないほど、たくさんの出来事があった。
あなたといる私を好きになれて、あなたといる私が嫌いになる。
でも、出会えたからこそこんなにぐちゃぐちゃで小さな自分ともやっていけそうな気がする。
やっと、想いが通じて、これからだったのに帰らなければならないことにうしろめたさを感じた。
「思い出になって色あせても、僕達の今が二人の明日を作るような今を重ねてきただろう?」
出会えた時のような星空。その下すべてのものと別れを告げる。未練がないと言ったら、嘘になる。
ここへ来て少しは大人になれたのだろうか。
ほら、こんなことを考えるほど、まだ決心がついていない。ただ、好きだったんだ……。
この時代に来て、たくさんの人と出会ってあなたと恋をして。全部が全部、今となってみると、きらきらしている。例えるならば、強く、激しく打ち付け、やがてアスファルトに消えてゆく、五月雨。
ピアニストになりたい。鷗外と過ごして生まれた未来。未来があるからこそ、終わりが来る。
「僕は、君に文章を残す。それを読んで欲しい。」
精一杯頷いた。
「昔、私の演奏をいっぱい聴きに来てくれてた人がいて、その人はもう亡くなってしまったんですけど……。」
高浜にも聞こえるように、私は声を少しだけしっかり出した。
「どうしても音を届けたい人が弾いている会場にいないのなら、今朝見た空を思い出してみてって、空は世界中ののどこにでもつながっているんだよって言ってくれたんです。」
涙を、手のひらでぬぐい、鷗外の目を見た。
「だからっ……。」
嗚咽を堪えられていたのか、わからないけれど。
「いっぱい練習して、ドイツ行きます。留学もして日本一のピアニストになります。」
涙でぐちゃぐちゃの顔さえ可愛くて、愛しくて。この切なくも美しい時間を、文豪として未来に受け継がれる鷗外にさえ言葉に出来なかった。
「鷗外さん。あなたに届くように。」
目と目が合ったけれど、うまく言葉を紡げない。代わりに、茜音を抱きしめた。
時々刻々、彼女にもその温もりは伝わった。
「もう、堪えなくていから。泣いていいから。」
ゆっくりゆっくり、彼の背中に手を回す。筋肉のついた硬い背中。きれいなテノール。この一瞬を心に、体に、私のすべてに焼き付けられるように。
この優しさはもう二度と、帰ってこないだろう。最初はエリスに似ていると思ってこれをかけたけれど、あたりまえのことに二人は別人であった。そんな僕のことさえ、茜音は優しく包み込んでくれた。最後まで、最後まで。
ずっとこのままでいたい。二人で過ごした時間を思い出にしたくない。しかし、それでは歴史を変えてしまう。
「茜音ちゃん、帰るよ」
高浜さんの声がする。
それでも最後の最後まであなたに触れていたい。
あなたと出会えて、幸せでした。
ありがとう、鴎外さん。
そう呟いて、私はこの時代のすべてに別れを告げた。




