祈りのアヴェ・マリア
二階の舞踏室を覗くと、真ん中にヤマハのグランドピアノがあり、それを囲むように椅子が並べられていた。
椅子はほとんど埋まっていて、そこで隣同士で仲良く話している。
「こんないっぱい人がいるところで弾くんだね」
「がんばりましょうね」
「うん」
川上さんはタキシードを着ていた。その姿を見て、なんだか気合が入った。
「ここに来ている外国の人たちはこういう夜会をしている日本人のことを西洋の猿真似って思ってるらしい」
それは、学校の授業で聞いたことがあった。
「だからさ、せめてここにいる人たちだけでも僕らの演奏で考えを変えてから帰ってもらおうよ」
その目には曇りがなかった。西洋音楽がようやく浸透してきた、未曾有の時代の幕開けを生きる演奏家の覚悟がそこにはあった。
「時間になりました。」
職員に促され、まず川上さんが舞踏室へ向かう。
最初はソロだ。
タキシード姿の青年がピアノの前に立ち、お辞儀をすると、拍手が起こる。しかし、談笑許可のコンサートだけあって、拍手は疎ら。それだけでなく、彼のことを見ないで話している人までいる。
バイオリンを構えた瞬間、川上さんの表情が変わった。まだ一音も出していないのに、それだけで私は鳥肌が立った。
一呼吸置いてから、川上さんは弓を動かし始めた。そのとき、確実に場の雰囲気が変わった。先ほどまで話していた人たちの視線が一度に彼へと集まる。
儚くて甘い弦の囁きに、舞踏室がぱっと華やいだ。
本当に綺麗すぎる音。そして、華やかな音。そのひとつひとつに、これからの日本に対する不安、希望、そして祈りが込められているように聞こえる。
やがて演奏が終わると、始まるときの何倍もの拍手が部屋を包む。
川上楓は、本物の演奏家だ。
自分もこんな演奏がしたい。私は、先ほどの余韻がまだ残る舞踏室へ足を踏み入れた。




