華やかな夜
それから、鹿鳴館でのリサイタルの日まで、それまでとなにも変わらない普通の日々が流れた。
意識しているのは私だけのようで鴎外さんはというと、やはり旬と私の会話を微笑みながら聞いていた。
「茜音〜。しょうゆ取って!」
旬はそういうが、私からよりも旬の方が醤油まで近い。
「自分で取ってよ〜」
文句を言いつつ、手渡しする。
「ありがとう」
「はーい」
なんだかんだ旬は友達みたいなものだ。たぶん年も近くて、話してて面白い。
目の前にあった味噌汁を飲んでみる。ミワさんの味は塩辛くなくてお上品。
「美味しいなぁ」
思わずつぶやくと、
「そう言ってくれると作りがいがありますよ」
と笑ってくれる。
鴎外だけでなく、茜音は旬やミワとも離れたくないと思った。
明治時代で過ごす最後の日。
「それじゃあ俺は合宿に行くから。」
大荷物を持った旬を屋敷の全員で見送る。
「茜音」
「なに?」
「ありがとう」
それは唐突でなにも答えられなかった。
「なんか、急に言いたくなっちゃった」
旬は恥ずかしそうに目を伏せると、すぐに門をくぐって曙色の街へ出かけていった。
結局、なにもお礼をいうことが出来なかった。
今日で、最後だったのに。
せめてなにかしたい。
私はすぐに自室に戻り、自分のカバンからルーズリーフを出すと、おもむろに五本の線を弾いた。
鴎外、旬、ミワ、そして今日共に演奏をする川上……。
彼らを思って浮かんだ音をひたすら楽譜に写した。休符や音符がきちんとしている自信も、これが音楽になっている自身も何もなかった。
それでも、手紙を書くのは苦手。旬はもう行ってしまった。今の私にできることもこれしか無かった。
いつの間にか、部屋に西日が差し込む時間になった。
「茜音ちゃん、入りますね」
ミワさんの優しい声。
「今日は頑張ってくださいね」
彼女は、私を励ましながらテキパキと着付けてくれた。おかげで緊張も少しはほぐれたし、それなりの女の子に見える。
「そろそろ行こうか」
鴎外さんの声がしてから、私はカバンの中の家庭科の教科書を出して、脚気についてのページに付箋をすると、机の上に置いた。
門の前には、馬車が来ていた。それに乗るのはもちろんだけど、生まれて初めて。楽譜を抱き抱えながら慎重に乗り込む。
そんな私の手を、鴎外さんはさらっと取ってくれる。
軍服姿の鴎外さんは格好よかった。
私の様子を見て、鴎外さんは笑った。「緊張しすぎないようにね」と。
夕焼け時の東京の街にぽつりぽつり、街灯がともりはじめ、空には月が浮かんだ。満月だった。赤みがかった月の向こうに、何か景色が見えた気がして俯いた。
やがて白い大きな二階建ての前につく。それこそがコンドルが設計した、西洋式建築物「鹿鳴館」だ。
黒門をくぐって正面の二階では、灯りが煌々と輝いていて、その華やかさに眩暈を憶えた。
アーチをくぐると、西洋の香水の香りと、日本のおしろいの香りとが混じりあっていて、不思議な感じがする。
肩が外国人に掠り、
「Oh. Sorry.」
と言われたとき、今までの人生で一番華やかな夜が始まりの音を聞いた気がした。




