人は変われるのです
この時代に来てから、十五回目の朝が来た。
「ねぇ、愛の夢って知ってる?」
それは、突然のことだった。学生服を着た旬が茜音に尋ねた。
「リストの?」
「うん。今日の授業で英語の先生が留学中に聞いてからすごく好きになった曲だと言っていたんだ。」
「そうなんだ……。」
たしかに綺麗な曲である。甘くて、深くて、どこまでも落ちてしまいそう。
「茜音は弾ける?」
弾いたことが一度あるような気がした。
「楽譜さえあればなんとかなるよ〜。」
しかし、なかなか乗り気にはなれなかった。
「聞いてみたいんだ。弾いてもらえるかな?」
なぜか旬は楽譜を持っている。
それをしぶしぶと受け取り、リビングのピアノの前に座った。
最初のミの音に手を乗せると、思ったよりも身体は覚えているもので、すらすら弾ける。
リストはこの旋律にどんな愛の夢を託したのだろうか。私が夢見るのはーーーーー
「……さい。」
爽やかな気持ちを遮るように誰かの声が聞こえた。旬の声でも、美和のでも、鷗外のそれでもない。
「あの子の音はうるさいだけでうまくないわよね。」
「あんな演奏ならロボットにだってできるわ。」
夕日が長い影をつくるロビー。そこに響くは憎しみの音。
演奏をやめて逃げしまいたくなった。でも、それはできない。仕事中ではないとはいえ、普段はピアニストとしてレストランでピアノを弾いてお金をもらっている。いわゆる、プロなのだ。
「素敵な誕生日になりました。本当にありがとう。」
あるカップルに言われたこのセリフ。彼女の誕生日を祝うということで、バースデーソングや主よ人の望みよ喜びよなど誕生日っぽいものをひいた。
実は、この日で二人はお別れだったのだそう。彼女さんが家と家の事情で嫁がなければならなくなったらしい。
私は、この時代でいろんな人の人生に、少しだけど、ピアノを通して触れた。そして、その出会いの分、思いを背負った。真剣に音楽に向き合わなければならないということに気付いた。
最後の音を弾くまでの間に、茜音はすべてを思い出した。ピアノを一度辞めたこと、高浜がここまで連れてきてくれたこと。
「素敵な曲だったね! それにお前馬鹿っぽいのにピアノはすっごくうまいんだな!」
一方、茜音の演奏を聞いて、旬と台所にいたはずの美和が拍手をしていた。
相変わらず旬は一言余計である。
「お褒めの言葉をありがとうございますっ!」
彼のいつも通りの話し方に、ほっとした自分がいた。まだ、私はここにいる。
「じゃあ、ちょっと仕事まで寝てくる。」
それでも、やっぱり色々考えてしまって、どうしようもないから、現実から逃げることにした。
布団に入ると、ものすごいスピードで眠りにつけた。
「ねえ、茜音ちゃん。」
夢の中。ふわふわ、とろとろ。
高浜が笑っている。
「昔のこと、思い出してもピアノ弾けるようになったんだね」
本当に嬉しそうだった。
「あなたが変わったら帰してあげると前に言ったでしょう? だから、平成にもどりましょう」
茜音は頷くことができなかった。どうしても、旬、ミワ、あの謎のヴァイオリニスト、そして、鷗外の笑顔が浮かぶ。
「迷ってるの?」
頷いた。
「大切な人ができたんだね」
さらにつよく。
「一週間後、もう一度帰るか聞くわ。帰りたくなければ残ればいいし、そうじゃなかったら帰ればいい。」
どちらを選べばいいのかまだわからない。
「それじゃあ、よく考えるのよ。」
そう言うと、高浜は消え、茜音は夢から覚めた。




