ヴァイオリニスト
その三日後から早速仕事が始まった。
茜音は鴎外の姉が使用していた洋服を着ていた。
「今日の夜、採寸をしてもらうことになったから、それまでこの服で我慢してくれ。」
鴎外は朝、そう言ったが、むしろ贅沢なくらい綺麗な服だ。洋服に関してはよくわからないが、なんとなく高級なものだと思う。ずっとこれを着させていただいてもいいくらいだが、さすがに人様のものをいつまでも借りるのは申し訳ない気がした。
午後六時。この時間からがいわゆる"ディナー"の時間になるのだという。
「守山さんの仕事はこの時間までです。お疲れ様。」
「ありがとうございます。」
ホールスタッフの相川さんが時間を教えてくれた。彼は私より四つ年上で、ここに務めて三年になるといった。
「実はね、もう一人演奏家がいるんだけど、彼はヴァイオリニストなんだ。」
ヴァイオリニストと聞くと静かなイメージをもちがちだが、たくさん体を動かしながら演奏するので力強くてかっこいい。
「茜音ちゃんさえよければ、いつかその人とデュオをしてもらいたいななんて思ってるんだ。」
茜音は人と一緒に演奏することが大好きだった。当然、二つ返事で、お願いします。
うきうきとした心持ちでお店を出た。
どこか懐かしくて、切ない香りがふと鼻腔につく。地面の土を見てみると、わずかに色が濃くなっていた。雨が降っていたのだろう。
上野駅(この時代では上野山下ステンションというらしい)へ向かって歩いているとき、ある男性を見た。まだまだ和服の多い明治の街ではよく目立つ、黒いダブルスーツを身につけ、手にははこのようなものを持っている。
「らんらんららーん。」
すれ違いざまに聞こえた鼻歌と、どこからか醸し出す風変わりな雰囲気に、振り返らずにはいられなかった。
たんたんたん、と綺麗にステップを踏んだ彼は、茜音が通った道を、レストランのほうへそのまま歩いていった。




