楽譜屋
「どこか行きたいところはある?」
不意に尋ねられてどきりとしたが、もちろんそんな場所などない。
「特にありません。と言うか、この時代の東京にどんなものがあるのかすら全然知りません。」
それじゃあ、と鷗外は口角を上げた。
「僕の行きたいところについてきてもらってもいいかな?」
返事はすでに、決まっている。
徒歩、二十分。たどり着いたのは、小さなお店。引き戸を開け、中に入ると、懐かしいものたちが。ショパン、ドビュッシー、モーツァルトに、リスト......。見慣れた名前たちがずらりと並んでいた。茜音は、ここがどんなところか一瞬でわかった。無国籍の文字たちを読んで、どんな言葉になるのかを想像し、運命と呼べるような旋律と出会う場所。
「好きなものを選んでくるといい。」
「そんな……! 悪いです。」
そう答えた頃にはもう鷗外は隣にいなかった。どうやら楽譜屋の店主と話しているようだ。
茜音はまだこの時代のお金を持っていない。結局鷗外にショパンの『エチュード』を買ってもらった。
「すみません。何から何まで用意していただいて……。」
「僕の屋敷に住むと決まった時点で君は家族だ。遠慮はしないでくれ。」
「すみません……。ありがとうございます。」
「それよりも、君は謝る回数が些か多すぎる。なにも悪いことをしていないのだから頭を下げる必要はないのだよ。」
女の子は怖い。感謝はもちろん、謝れない者はすぐにクラス内で下位になる。気を使いすぎ、と言われるくらいがちょうどいい。しかし、いろんな人に良くしすぎてしまうと八方美人と言われてしまう。茜音は嫌われないように必死だった。
「わかりました。気を付けてみます!」
努力をする前から無理と決めつけるのはどうもこの平成育ちの少女の性にあわないようだ。
このとき、鷗外の瞳には彼女の笑顔が映っていたことを、おそらく茜音自身は知らない。




