ピアニスト
鴎外の「少し出かけよう」の一言で、茜音は今、築地のレストランにいる。なぜか、ステーキをごちそうになった。それがものすごく美味しくて、今まで持っていた明治時代のイメージなど、ぶち壊された。
彼がコーヒーカップを傾ける。長い指が目に見えると、なぜか紅茶が喉を通らなくなる。
そんな時だった。
「君、先日、鹿鳴館でピアノを演奏していただろう?」
スラリと背の高い、紳士に斜めから声をかけられた。
「はいっ。」
思わず声が裏返る。
「はじめまして。私は、この店のオーナーの廣瀬崇史というものだ。」
「はじめまして! 守沢茜音です。」
「時に、守沢くん。君は演奏家という職業に興味はないかな?」
演奏家。そう聞いて何故か胸が痛んだ。しかし、興味が無いわけではもちろんない。
「あります。」
「私は今、君を、この店でピアニストとして雇いたいと思っているのだが。もちろんそれなりの報酬は払う。どうかな?」
やってみたいと思うが、鷗外の家に居候させてもらっている以上、自分個人の意見では決められない。
「鷗外さん。どうですか?」
私はなぜ、こんなにもうまくはなせないのだろう。こんな言い方を続けていたら嫌われてしまう。
「茜音ちゃんがいいのなら、僕も賛成だ。」
それでも鷗外はそう言って笑ってくれた。出会ってからまだ間もないのに、こんなにも安心できる人なんて、なかなかいないと思う。




