三場 運命の当日
当日の朝は自分の絶叫で跳ね起きた。腹の底から振り絞った自分の悲鳴を聞くのは数年ぶりだ。
荒くなった息を整えていたら、タオルケットの上に転がってるハンドクリームの容器と、ベッドのそばにしゃがみ込んで俺の様子を観察してる姉貴の視線に気付いた。
「……何やってんの、姉貴……?」
「おでこに載せてみたの」
「…そうじゃなくて、なんで勝手に俺の部屋に入ってんの?」
「ガッコのレポートが上がんなくて徹夜してたら、うなされてるのが聞こえたから」
こう見えて、年子の姉貴は十葉大学文学部文学科の一回生だったりする。ちゃらんぽらんな姉貴が現役で合格できたんだから、世も末だ。
「ってゆうか、『掘る』とか『掘られる』って何? 宝探しの夢でも見てたの?」
「……」
いや、深く考えるのはよそう。
「……現実逃避は程々にして、自分の部屋に戻って続きやったら? 提出の期限、大方、明日までなんだろ?」
「へーい」
姉貴はアクビを噛み殺しつつ退室した。
時計を見ると七時過ぎ。指定時刻にはまだ時間がある。
(死刑囚の最期の一日も、こんな風に始まるんだろーか?)
「へっくしょい!」
大きなくしゃみが出た。背中をさするとパジャマは寝汗でジットリ。蒸し暑い日が続き、梅雨明けも近いとはいえ、まだ熱帯夜など稀な時期なのに。
(冷や汗と脂汗だけは年中無休だな。さて、どうしたもんか?)
汗臭いまま出向いて先方から嫌われようかとも考えたが、体育会系のノリで逆に好感度が著しく上がってしまったら困るし、第一、そのままでは風邪を引いてしまう。だから、入浴して汗だけ流すことにした。
風呂を沸かし始め、少し低めの温度に設定し直してスイッチを入れる。待つ間に飯だ。
ダイニングに移動しても誰もいなかった。消防士の親父も看護師のお袋も、夜勤からまだ帰って来ていないらしい。
毎度のように、昨晩の残りとあり合わせの物で適当に済ます。喰い終わるのを待ち構えていたかのように、センサーが完了を告げた。
浴室に着替えを持ち込み、パジャマと下着を脱衣カゴに脱ぎ捨て、入浴開始。五分ほど湯に浸かってから体を軽く洗い、また五分ばかり入って、入浴終了。朝風呂なんか申し訳程度で充分だ。
外出用の服を着てから洗面所でヒゲを剃る。鏡には仏頂面した自分の顔。
(おー、おー、我ながら最悪な顔。目の険さえ取れりゃ、俺の顔もまんざら捨てたもんじゃないのにな)
俺の顔を評した中村の言葉を思い出す。いわく、「ライバル顔」。誰からも好かれる「主人公顔」とは異なり、造りや形は良くても、どこか冷たさを感じさせる損な顔。
(そのせいで女子が近寄らず、野郎なんかに惚れられる。全く、たまったもんじゃないぜ)
向かっ腹を押さえつつ歯を磨き、顔を洗う。準備ができれば覚悟も据わる。
(キッパリ断ってやる。俺はノンケだ!)
臨戦態勢が整った。
時計を見ると九時半。十葉駅までは徒歩でも三十分は掛からない。
(チャリンコは、いざって時に邪魔だ。歩いて行こう)
財布と家の鍵だけGパンのポケットにねじ込み、ほぼ手ぶらで家を出る。どう言ったら無難に切り抜けられるか、数パターン想定して頭の中で検討しながら黙々と歩いていると、やがて十葉駅東口前の広場に辿り着いた。
十時五分前。低血圧な街も、ようやくちゃんと動き始めたばかりの時間帯だ。道行く人も待ち合わせをする人も、まだ多くはない。
目指す案内板の脇には、もう人影が見えた。他には見当たらないから、まず間違いない。
しかし妙だ。待っている奴は背が低く、とても同じ高校生とは思えない。中学生、いや、せいぜい小学六年生ぐらいだ。
大体、小学生でもなければ、普段、短パンなんか穿きはしない。
(親友親友って、一体、中村の交友範囲はどんだけ広いんだ? 年齢下限無しの見境無しか? それとも親戚の子か? はたまた、あいつにショタの気でもあるのか?)
内心混乱しながらも俺が近付いて行くと、向こうもこっちに気付いたようで、にっこり微笑んでペコリとお辞儀をした。歩きながら会釈を返す。
「あのう、伏見ハジメ君、だよね……?」
そう尋ねると、向こうは目をパチクリしていたが、すぐ何かに思い当たったらしく、笑いながらこう答えた。
「いえ、少しだけ違いますよ。ボク、『うい』です。初陣の『うい』」
「え? それじゃあ……」
珍しい名前だが、その読み方なら……。
「ええ、もちろん女子です。証拠だって、ほら」
伏見さんは背負っていた『イヴ』のペン太リュック(市販品なのか?)を外し、中からパスケースを取り出して生徒証を俺に見せた。
市内にある有名な「お嬢さん学校」、私立十葉女子高校の三年生。間違いなく、同い年の女の子だ。
「名前も服装も男の子っぽいから、ボクってよく男子と間違われるんですよ」
「ああ……そう……なの……」
一遍に全身の力が抜けた俺は、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
(た、た、た……助かった……)
額の汗を拭い、ホッと一息ついた次の瞬間、ギョッとした。しゃがんだ伏見さんの顔が、どアップで寄っていたのだ。
「どこか具合が悪いんですか?」
「あ、いや、大丈夫!」
驚きの余り、やや飛びのくように立ち上がった。女の子に対する免疫が低いせいだ。我ながら情けない。
「まさか、好が何か変なことでも言ったんじゃ……?」
俺より頭ふたつほど身長の低い伏見さんが、不安そうな表情で上目遣いに聞いてきた。
(このシチュエーションて、つい最近、体験したばかりのような……)
ひとつ咳払いを入れて呼吸を外し、改めて仕切り直す。
「急にうろたえたりして、ごめん。伏見さんが男子だと聞いてたもんだから、驚いちゃったんだ」
「いいんですよ、よくあることですから」
「ところで、以前にも会ったような気がするんだけど、俺の気のせいかな?」
たちまち、伏見さんの顔がパッと華やいだ。
「気のせいじゃありません! 覚えていませんか? 先週の『わくマ』!」
「『わくマ』って、『わくわく・まあけっと』のこと?」
「はい! あの時、綾並零ちゃんのコスプレしてた天野螢はボクです!!」
「ああ、あの時の!」
ここに至り、ようやく俺は思い出した。一週間前の六月末に参加した、地元の中規模同人誌即売会での出来事を。