第一回 反省会
特務隊詰所――トレーニングルーム。
むさ苦しいうめき声と、絶え間なく響く金属音。
汗による湿気は身体へ泥のようにまとわりつき、お世辞にも新鮮とは言い難い空気が、部屋いっぱいに淀んでいた。
その空気を、まるで仕事終わりのビールでも飲み干すかのように肺いっぱいへ吸い込みながら、黙々とバーベルを持ち上げている漢がいる。
ヒロ・アシハラ。
感情保安庁、特務隊筆頭。
失われた十年。
その長い年月の中で失った大切なものを、一つひとつ思い出すかのように。
ベンチプレスを一度持ち上げるたび、ヒロは自身の想いをその一往復へ重ねていた。
上げる。
下ろす。
そして、もう一度。
「かよ……」
今、彼女はどこにいるのだろう。
一日たりとも忘れたことのない、その名前を呟く。
その時だった。
汗と熱気が混ざり合い、汚泥のように淀んでいたトレーニングルームへ、不釣り合いなほど柔らかな香りが流れ込んできた。
ラベンダー。
それはまるで、誰も足を踏み入れたことのない月の大地に、ひっそりと咲いたラベンダーが夜風に揺れ、その香りだけを地上へ届けたかのようだった。
清らかで。
気品があり。
それでいて、どこか人を惑わせる甘さを含んでいる。
鉄と汗と筋肉に支配されていた空間が、ほんの一瞬だけ月夜へ変わる。
そして、その月は――。
「陽主様ぁ」
今日も随分と甘い声で、太陽を探しにやって来た。
ユウカ・ツクヨミ。
反省会の時間である。
◇
場所を移して、トレーニングルームの片隅。
個別指導や身体測定などに使われる、小さなパーソナルルームである。
壁際には各種トレーニング器具。
中央にはホワイトボード。
その前に立つのは、ユウカ・ツクヨミ。
そして、その正面。
床の上には――。
ヒロ・アシハラ。
正座。
「…………」
怪訝な顔でユウカを見上げている。
なぜ筋トレを中断させられた挙句、正座までさせられているのか。
本人にも分からない。
我々にも分からない。
おそらくユウカだけが分かっている。
「陽主様ぁ」
「なんだ。早くしてくれ」
ヒロは露骨に面倒くさそうな顔をした。
「パンプが冷めてしまうだろ」
「うふふ」
「…………」
嫌な予感がした。
この女がこう笑う時は、大抵ろくなことにならない。
「一つ宜しいでしょうか?」
「だからなんだ」
「これはなんでしょうか?」
ユウカはホワイトボードへ向き直った。
キュッ。
黒いペンが走る。
そこに大きく書かれた文字。
【序章 主人公退場。~その名はびんびん小町】
「章名の『びんびん小町』とは?」
「…………」
「…………」
「知らん」
「作者様が書いたのでしょう?」
「俺は作者じゃない」
「では、誰が許可したのですか?」
「知らん」
「何をもって『びんびん』なのです?」
「俺に聞くな」
「何が『びんびん』なのでしょう?」
「掘り下げるな」
「小町とは、どなたを指しているのでしょう?」
「だから知らん!」
「そもそも」
「まだあるのか!?」
「『主人公退場』と書いてありますが」
「おう」
「第一話から陽主様、登場していませんよね?」
「…………」
「退場以前に」
ユウカは、にこりと笑った。
「入場しておりません」
「…………」
ごもっともである。
開始早々。
主人公は退場に至るまでの権利すら与えられていなかった。
◇
「では次です。神の声」
「そいつにも文句あるのか?」
「第一話冒頭から八百文字以上喋っています」
「俺は悪くない」
「地の文が人格を持つことは、小説界では――」
ユウカは一拍置いた。
「タブー」
「とされているのですよ?」
「作者は素人だ。問題ない」
問題しかない。
「ほら」
「何が『ほら』ですか?」
「本人も元気そうだぞ」
「そういう問題ではございません」
「そもそも地の文が喋って何が悪い」
「喋るだけならまだしも、自己紹介までしております」
「礼儀正しいじゃねぇか」
「その後、読者諸氏へ質問を始めます」
「コミュニケーション能力も高い」
「感情素子の説明まで始めます」
「仕事熱心だな」
「繰り返しますが、八百文字以上です」
「…………」
「第一話冒頭から、八百文字以上も地の文が一人で喋っています」
「…………」
「しかも最後には『少々喋りすぎましたかな』と、自覚までございます」
「なら反省してるだろ」
反省はしている。
だが、改善するとは言っていない。
「陽主様」
「なんだ」
「この方、今もいらっしゃいますよね?」
「いるだろ」
「どちらに?」
「知らん」
「…………」
「…………」
私は――神の声。
またの名を、地の文と申します。
そして現在。
ものすごく居づらい。
◇
「なんだか、世界全体に気まずさの雰囲気が漂っていますね」
ユウカが辺りを見回した。
「まるで、初めてのスペースで本名を名乗ってしまった時のような」
「確かに」
…………。
読者諸氏。
世の中には、触れてはならない過去というものがございます。
「ところで陽主様」
「なんだ?」
「創作アカウントで初めてスペースに参加した場合、普通は何と名乗るのでしょう?」
「普通ペンネームだろ」
「そうですよね」
「当たり前だ」
「では、緊張のあまり本名を名乗ってしまった場合は?」
「…………」
「…………」
世界全体に。
さらに気まずさが増した。
「陽主様」
「なんだ」
「今、神の声が泣いているような気がします」
「そっとしておいてやれ」
恐縮至極に御座います。。
できれば、その話題そのものをそっとしておいていただきたかった。
「ユウカ」
「はい。なんでしょうか? 陽主様ぁ」
「まだ、序章の第一話だ」
「はい」
「勘弁してくれ」
「何を仰っているのですか?」
「…………」
「まだ第一話ですよ?」
「だから言ってるんだよ」
ユウカはホワイトボードへ向き直った。
キュッ。
【第一話 長い、長い茶番の始まり】
「ご安心ください」
「何をだ」
「タイトルに偽りはございません」
「…………」
「長い、長い反省会の始まりです」
――帰りたい。
奇しくも。
まだ登場していないホシと、ヒロの心が初めて一つになった。
◇
私です。
神の声――またの名を、地の文です。
長い、長い茶番とともに。
どうやら、長い、長い反省会と正座の日々も始まってしまったようでございます。
読者諸氏。
本編ともども、こちらの反省会にもお付き合いいただけましたら幸いです。
何卒、宜しくお願い申し上げたい。
それでは、また次回。
私もこれより――。
長い、長い残業の日々が始まりますゆえ。




