第2話:五月の陽炎、窓口の家畜たち(2)
佐藤清が万年筆のキャップをカチリと閉め、青い承諾書を押し戻してきたとき、渡辺の背中に張り付いたカッターシャツはすでに限界まで汗を吸っていた。
「……はい、確かに。お預かりします、佐藤さん」
受け取った紙の表面は、老人の湿った体温でわずかに波打っている。渡辺がそれをスキャナーに通すと、システムは一瞬の澱みもなく『相模湖特区・一次スクリーニング対象』のフラグを弾き出した。画面の隅で、東桜市のシンボルマークを模したローディングアイコンが無邪気にくるくると回っている。
「本当に、これで保険料は上がらんのだな? 燈馬さんにも相談せず、勝手に決めて良かったんかいな……」
佐藤はまだ何か言いたげに、白濁した目で渡辺を凝視していた。燈馬、という聞き慣れない名前が耳をかすめたが、渡辺はそれを脳の「ゴミ箱」へ即座に放り捨てた。フリーランスのケアマネか何かの名前だろう。役所のマニュアルの前では、組織に属さない個人の意見など、ノイズ以下の価値しかない。
「大丈夫ですよ。お帰りの際、受付でバスの乗車票を受け取ってください」
渡辺が事務的に頭を下げると、佐藤は小さく何度も頷きながら、頼りない足取りで自動ドアの向こう、五月の狂った陽炎の中へと消えていった。
「お疲れ、渡辺くん。こっちも終わったよ」
隣の窓口の女性職員が、骨の折れる作業を終えたように大きく背伸びをした。彼女のデスクの上には、佐藤のものと全く同じ、青い承諾書の束が分厚く積み上がっている。
「異常ですよ、今年のこの『フレイル回収』のノルマ。財政課から応援に駆り出される意味が分かりました。これ、福祉じゃなくて、ただの強引な『刈り取り』じゃないですか」
渡辺の愚痴に、先輩職員は周囲を気にするように声を潜めた。
「シーッ、声が大きい。でもね、上からのお達しなのよ。『団塊の世代が完全に後期高齢者になる今年が、自治体の財政を分ける最終代謝期だ』って。ほら、先週、市議会で可決されたでしょ? 新興政党が持ち込んできた、相模湖周辺の『医療・介護包括特定区域』の条例」
「あの、テレビでやたら先進的だって煽ってるやつですか」
「そう。そこに高齢者を送り込むごとに、国から市へ莫大な『地方創生臨時交付金』が逆流してくる仕組みになってるの。だから、福祉課も財政課も形振り構っていられないわけ。とにかく、網(検診)に掛かった老人の身柄を、右から左へ流すのが今の僕たちの仕事」
先輩はそう言って、冷え切った缶コーヒーを渡辺の額に押し付けた。
キィンと脳が凝着するような冷たさの中、渡辺は机の下の給付費画面をもう一度見つめた。
『特区誘導推進費:4億2000万円』
この街の予算の血流が、明らかに特定の方向へと変えられている。その違和感の正体を確かめるには、高齢福祉課の騒がしい窓口ではなく、役所の最も冷たく、最も静かな場所へ行く必要があった。
「――よし、シフト交代ですね。僕、地下のサーバー室のログ整理に行ってきます」
生ぬるい加齢臭の充満するフロアを抜け、渡辺は旧庁舎の奥にある、地下へと続く階段を降りていった。
一段降りるごとに、外界の猛暑が遠ざかり、代わりにコンクリートの冷気と、古い機械が放つオゾンの匂いが鼻腔を突く。
最下層の重い鉄扉を開けると、そこは数十台のサーバーラックが、青いLEDを明滅させながら「ブーーン」と低い駆動音を響かせる、外界から切り離された冷凍庫のような空間だった。
「……生き返るな」
渡辺は、吐き出される冷風の前に立ち、汗ばんだ首筋を冷やした。
PCを開き、本庁舎の共有サーバーの深部、前年の予算改定時に作成され、そのまま『ゴミ箱』のアーカイブへ放り込まれていた暗号化フォルダへのアクセスを開始する。
財政課の若手という立場が、彼にその権限を与えていた。
指先が、パスワードを叩く。
カチ、と静かなクリック音が地下室に響いた瞬間、画面に展開されたのは、東桜市の公的な予算書には絶対に載らない、一枚の秘匿PDFファイルだった。
タイトルは、
『2026年度以降における人口動態の代謝シミュレーション(東桜市・モデル特区版)』。
マウスを持つ渡辺の手が、不自然な冷気の中で、ピきりと硬直した。




