第17話:泥濘のエピローグ、二進法の外側で
五月の狂った暴雨は、夜明けとともに嘘のように上がり、東京の空にはじっとりとした不気味な青空が広がっていた。
急速に気温が上昇し、アスファルトに染み込んだ大量の水が一斉に蒸発していく。街全体が、まるで生ぬるい巨大なサウナのようだった。
府中刑務所の旧医療区画から命からがら脱出した燈馬の軽ワゴンは、調布のうらぶれたコインパーキングに潜んでいた。
「……じいさん、気分はどうだ」
燈馬は運転席から振り返り、後部座席で拓也が持ってきた毛布に包まっている佐藤清に声をかけた。
佐藤の顔色はまだ土色で、投与されたアミロイドβ製剤の毒素が完全に抜けるには、まだ長い時間がかかるだろう。だが、その目は昨夜のうつろな状態から一転し、不器用だが確かな光を取り戻していた。
「……燈馬さん。私ゃ、なんだか長い、ひどい悪夢を見ていた気がするよ。テレビの中の偉い人たちが、みんなで私を笑顔で手招きしてな。気づいたら、身動きの取れない真っ白な箱に押し込められていたんだ」
佐藤は痩せ細った手で自分の顔を強く擦った。
「でも、あんたの、あの泥臭いタバコの匂いで目が覚めた。……ありがとうな」
「礼を言うのはまだ早い。じいさんの介護度は、役所のハッキングシステムの手違いってことで、今日中に『要介護2』へ無理やり差し戻してやるからな。明日からまた、歩行訓練代わりにポテトサラダを買いに行ってもらうぞ」
燈馬はフッと笑い、ダッシュボードの上で静かに明滅しているスマートフォンに目を落とした。
画面のタイムラインは、昨夜燈馬が放流した「ファクト」によって、文字通り蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
主要なニュースサイト、SNS、動画プラットフォーム。上流の検閲AIがどれだけアルゴリズムを回して火消しを試みようとも、全国の末端のケアマネジャーや介護士、そして遺族たちが一斉に『本物のデータ』を拡散し始めた質量には抗えなかった。
新興政党が推進していた「相模湖包括医療特区」の株価は完全に紙屑と化し、厚労省のOBたちが関与していた裏予算のスキームは、国会で「現代の姥捨て山政策」として激しい追及が始まっている。
テレビの画面では、かつて輝かしい笑顔で福祉を語っていた有力議員が、汗だくになりながら「解釈の誤解である」と釈明の会見を開いていた。
だが、燈馬の心に勝利の達成感など微塵もなかった。
「これで、国が綺麗になるわけじゃねえ」
燈馬は窓を開け、五月の生ぬるい風を車内に引き込んだ。
渡辺が地下室で叫んだ言葉は、100%の狂気ではない。この国の社会保障の財布が底を突きかけているのは紛れもないファクトだ。上流のハッキングシステムが一度壊されたところで、大衆の「思考停止」と、現役世代の「老人は早く消えてくれ」という無意識の悪意が消えるわけではない。
国はまた数年後、別の耳障りのいいカタカナ語(新しい福祉政策)を開発し、形を変えた『青い紙』を家畜たちに配り始めるだろう。
チリン、とスマホが短い通知音を鳴らした。
画面に表示されたのは、東桜市役所の財政課――あの渡辺の個人アカウントから送られてきた、一通のテキストメッセージだった。
『システムは破綻しました。金子係長は更迭され、僕も近いうちに懲戒免職になります。
燈馬さん、あなたの言う通り、この国は一度綺麗にパンクするでしょう。僕たちの世代には、もう何も残らない。……それでも、あなたは現場の泥の中で、最後まであの老人たちのクソを拭き続けるんですか』
燈馬はその画面を見つめ、キーボードを一度も叩くことなく、メッセージをそのままゴミ箱へと消去した。
現役がどうだ、老人がどうだ、財政の数字がどうだ。
そんな二進法のそろばん勘定は、最初から燈馬の戦場(現場)には関係のないノイズだ。
「行くぞ、拓也。次の訪問介護のシフトが詰まってる」
「うっす! 燈馬さん、俺、今日の夜勤のオムツ交換、いつもより丁寧にやる気がしてきましたわ」
拓也が助手席で頭を掻きながら笑う。
軽ワゴンは、五月のギラギラとした猛暑の陽炎が立ち上る、東桜市の住宅街へとゆっくりと走り出した。
国がハックされようが、時代が狂おうが、関係ない。
目の前で生きている、ポテトサラダが美味いと笑う頑固じいさんの命がそこにある限り、25年の泥をすすってきた一匹狼のケアマネジャーは、明日もまた、生身の肉体でその命の泥を拭い続けるだけだ。




