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引退して奴隷を買った冒険者は、幸せと言えるだろうか?  作者: 花黒子


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第1話「コロシアムと奴隷」


 春の港町には花の香りと一緒に香ばしい油の匂いが漂っていた。

 コロシアムに奴隷商が集まっている。油まみれでテカテカに日焼けした筋骨隆々の奴隷を売りに出しているのだ。

 金持ちたちがこぞって買い、買った奴隷をそのままコロシアムに出場させる。金持ちの中にはさらに鍛えなおしてからコロシアムに出場させる者もいるが、あまり強さは変わらない。

 ジョーは商人見習いとして、カプリの港町にやってきていた。一〇年ほど冒険者として、魔物を倒しながら金を稼いできた。強さに憧れがなかったわけじゃない。

 農家の四男坊として一五歳まで生活し、すぐに冒険者になった。

 冒険者になれば、きっと眠っていた能力が開花すると淡い期待もあったが、現実は弱そうな魔物を倒して、無理をせず堅実に冒険者を続けていた。

 何度かパーティーを組んだり、お宝を探して旅をしたり、強い魔物に挑んでみたこともあった。

 ただ、一〇年続けてわかったことがある。

 倒したい強い魔物も絶対に手に入れたい財宝も、自分にはないということだ。

 最初は単純に魔法を使ってみたいとか、魔物を倒して旨い肉を食べてみたいとかあったが、やっていれば何事も飽きるものだ。

 怪我をして手足を失った先輩たちや、若さに任せて無駄死していく後輩たち。死んだ仲間を弔う冒険者の涙を嫌というほど見た。このまま、冒険者を続けていけるほど、精神も体力も持たないだろうこともわかっていた。

 これ以上、冒険者として消耗するのは人生の無駄というのが、二八歳になったジョーの結論だった。ただ冒険者を辞めたと言っても、いまさら家で同然で出てきた実家に戻れるわけがない。

「無駄な時間を過ごしたな」

 冒険者時代の伝手を頼り、辿り着いたのがカプリの港町だった。

 港には毎日のように多くの船が着き、エルフやドワーフ、小人族と言った亜人や獣人、魔族でごった返していた。

 ジョーはカプリで、知り合いの奴隷商に言われ、コロシアムに出場させる奴隷に筋力トレーニングをさせて、やせ細った奴隷たちの筋肉の見栄えをよくさせる仕事にありついていた。

 強くなるための方法なんてものがわかっていたら、冒険者を続けていただろう。

 教えられることと言ったら、筋トレぐらいだった。


 今日もまた、一ヶ月ほどプッシュアップやスクワットをさせた奴隷たちがコロシアムに来た金持ちに売られていく。大したことはやっていないが、関わった奴隷たちが売れてくれると教えてよかったという気分になる。

「慣れてきたみたいだな」

 コロシアムの職員で古い知り合いの奴隷商、コザックがジョーを褒めた。禿頭とむっちりとした体型が特徴のおっさんで、愛想はいいが眼の奥が笑っていない商売人だ。ジョーは最初、何を教えればいいのかと惑っていたが、どうやったら売れるのか、どこの筋肉を肥大化させればいいのかわかってきていた。

「お前が言ってた地下室のある家な。見つかったぞ。町外れの方だけどな」

「本当か!」

 ジョーは早く自分が商売をする場所が欲しかった。何を売るかすら決まっていなかったが、自分の居場所がこの町にあるというだけで住民になれた気がするんじゃないかと思っていた。

「ああ、不動産屋には言ってある。どうせ、お前のことだ。何の商売をするかなんて決まってないんだろ? しばらく、ここに通って奴隷たちの身体作りをしてくれよ。お前のお陰で、ブランドになってきたんだからな」

「わかった」

 ジョーは教えられた不動産屋で、冒険者時代に貯めた金を払い、町外れの小さな家を買った。

 地下室があったほうがいいと思ったのは、何をするにしても倉庫代わりの部屋があったほうがいいだろう、と思ったからだ。

 さて、何を始めようか。と、考えたがアイディアがあればすでにやっていただろう。

 ジョーは相変わらず、コロシアムの訓練場で奴隷に筋トレを教えていた。それほどキツい仕事でもない。コザックは、日当としてジョーに銀貨三枚を渡していた。

 銀貨一枚あれば、一日何不自由なく暮らしていけるから、それなりのいい稼ぎにはなる。

 ジョーはせっかくなので、コロシアムで自分が筋トレを教えた奴隷たちがどうなっているのか、見に行ってみた。

 円形の闘技場は、石造りの巨大なもので、三〇〇年以上前に作られたと言われている。

 広場にはコザックの奴隷たちが裸にされ、身体に油を塗って路上に立たされていた。

 金の指輪やネックレスをつけた金持ちたちが、じっくりと奴隷たちを見て、値段をコザックに聞いている。コザックの他にも奴隷商が出店して、大声で客寄せしている。

 他の奴隷商の奴隷たちは血色も良くない者が多く、腰を怪我しているのか身体が傾いている者もいた。買ってきた奴隷をそのまま出しているのかもしれない。

 最低でも奴隷は金貨一枚(銀貨二〇枚)の値段がついていた。

 どうせ買う気はないので、ジョーは広場を通り過ぎ、コロシアムに向かう。

 コロシアムに近づくにつれ、人通りが激しくなってくる。ダフ屋から入場券を買い中に入ると、冒険者の英雄譚が俳優たちによって演じられていた。

 闘技場の真ん中には岩が積み重ねられ、子どもが魔物に追われていた。

 そこへ英雄がやってきて助けるという筋書きなのだろうが、魔物が英雄役の俳優を吹き飛ばし、観客席から歓声が上がった。黒い虎の身体をした魔物で、尻尾は大蛇。名前はブラックタイガーという魔物だったか。子どもをゆっくりと締めあげ、闘技場の中心から悲鳴が上がる。余興かと思ったが、徐々に子どもの悲鳴が大きくなり、観客席からも「助けてやれ!」と声が上がった。

 次の瞬間、闘技場内の出入口の門が跳ね上がったかと思うと、真っ直ぐに槍が飛んでいき、ブラックタイガーの眉間に刺さった。ブラックタイガーは身体を震わせ、血をぼたぼたと垂れ流しながら倒れた。

 観客席はあまりの一瞬の出来事に静まり返った。

 ブラックタイガーは一度痙攣し、絶命。

 出入口からは槍を放った黒い革の胸当てと顔を覆う鉄仮面をかぶった戦士が現れた。

 戦士が闘技場の中心まで歩いて行き、魔物の眉間から槍を引き抜き掲げると、観客席から割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がる

 魔物に襲われていた子ども役の小人族は虫の息で、闘技場のスタッフが引きずって退場させていた。あの小人族も奴隷だろうとジョーは思った。

 その後、魔境からやってきたというアマゾネスとドワーフの集団との戦いや、魔物対初心者冒険者などの戦いを見て、午前中は過ぎていった。

 観客が勝者に歓声を送る中、ジョーは敗者、つまりスタッフに引きずられていく奴隷に興味が沸いた。大方、魔物のエサにでもなるのだろうが、知らないことは確かめておきたい。

 ジョーは席から立ち上がり、観客席を出た。コロシアムの裏口のスタッフに聞くと、敗けた者は魔物のエサになるという。おそらく子どもを脅すための嘘だ。冒険者時代、何度も魔物に襲われて死んだ冒険者たちを見てきたが、人間は可食部が少ないから、ほとんど食べられることはない。人間の肉を食べるのは、ある程度知能が高く、人間の能力を手にしたいなどと考えられる魔物だけだ。もしも餌やり係がいるとして人間の肉を切っている者がいれば、病気になるだろう。

「いてぇっ!」

 先ほど闘技場で耳にした小人族と同じ声が聞こえてきた。やはり生きている。せっかく大金で買った奴隷をそんな粗末にする商人はいない。ただ、本当に死んだ奴隷はどうなるのか。わからないことは確かめたい。

ジョーが裏口から入れないか聞いたが、奴隷の剣闘士でないと入れないと断られた。

 そこへ奴隷満載の馬車がコロシアムの裏口までやってきた。スタッフが裏口の鍵を開け、馬車がコロシアムの中に入る瞬間、奴隷たちが馬車の鍵を破り、一斉に飛び出した。

 奴隷たちは逃げ出すも、すぐに棍棒を持ったスタッフに殴られ、倒れていく。足の早い筋肉質な女が、ジョーの近くまで走ってきたので、足をかけて倒しねじ伏せた。

 一〇年も冒険者をやっていれば身につく技術だ。駆け寄ってきたスタッフに女を渡すと、逃亡し損ねた女はジョーを睨みつけてきた。あの女奴隷はどこでどう間違ったのか。ジョーはコロシアムに消えていく女とスタッフに、世の無常さを感じ、自分の行動は正しかったのかと、その場でしばらく考え込んでしまった。

 そんなジョーの気持ちとは裏腹に馬車の御者をやっていた獣人の男が、明るく話しかけてきた。

「お前さん、なかなか動きがいいな」

「え? ああ、元冒険者だ」

「うちで働かないか? 奴隷商から奴隷を受け取って、馬車でコロシアムに運ぶだけだ。時々こうして脱走があるから、足の早い奴が必要なんだ」

「俺で良ければやるが、午前中は別の仕事をしているからダメだ」

「なら、午後からでもいい。ついてきてくれるだけで銀貨一枚は出す。脱走した奴隷たちを捕まえたら、その都度、銀貨一枚プラスだ。どうだ?」

「やる」

 仕事の話なので、即決だった。


 翌日、ジョーは奴隷に筋トレをさせてから、広場に向かった。

 コザックに奴隷運びの仕事をすることになったと言うと、「お前もカプリのコロシアムに染まってきたな」と肩を叩かれた。

 広場で、金持ちたちから奴隷を受け取り、馬車の中の鎖に繋ぐ。馬車の御者はスタンという名で、虎の獣人らしい。すでに齢五〇を過ぎ、身体もいうことを聞かなくなってきたとジョーにぼやいていた。

 この日は特に脱走などなく、つつがなく奴隷たちは反抗する気力もなくコロシアムの牢に入った。皆、裸で晒され、体力と気力を消耗していたのかもしれない。

 広場とコロシアムの往復が五回ほど繰り返された。最後の奴隷を運んだ後、コロシアムのスタッフがスタンに何かを渡していた。

 ジョーが気になって見ているとスタッフが声をかけてきた。

「お前もいるか? 今日は魔物が負けたからな。全員で肉を山分けしてるんだ。欲しけりゃやるよ。これも供養だ。戦った魔物を俺たちコロシアムで働く皆の血肉に変えて、覚えておくんだ。骨は魔物塚に入れられるからさ」

 魔物はスタッフに美味しく食べられるようだ。

 ジョーは魔物の肉を貰い、その日の業務は終了。家に帰る頃には、すっかり日が暮れて、酒場しか開いていなかった。

 酒場で酒とつまみのチーズをテイクアウトし、家で魔物の肉を焼いて食う。

 かなり獣臭かったが、味は悪くない。ハーブでもあれば、うまくなりそうだ。冒険者の時ほど達成感はなくリスクもない。人間関係もほとんど悩むことがない。普通の生活とはこういうものか。

ふと空を見上げれば、細い三日月が笑っているように見えた。


 翌日も変わらず、コザックのところで筋トレを教え、広場に向かう。

 コザックの奴隷はよく売れるので、馬車に入れる奴隷も筋トレを教えた奴が多かった。

 彼らが、今日のコロシアムのお品書きである熟練冒険者や魔境からやってきたターザンに扮して、大きなイノシシの魔物やトカゲの魔物と戦うそうだ。

「そうだ、ジョー。お前、女は間に合ってるのか?」

 馬車の御者・スタンが飯休憩に行っている間にコザックが声をかけてきた。

「新居に移ったばかりだ。それどころじゃねぇよ」

 ジョーは断った。

「そうか」

「なんだよ。良い娼館でも見つけたか?」

「いや、午前中の試合でな。奴隷が一人大怪我を負ったんだ。コロシアムではそれなりの活躍したやつだったんだが、女でな。怪我しちまったから、すぐに主人が売っちまった」

「娼館に売ればいいじゃないか?」

「それができれば俺たち奴隷商は苦労しねぇよ。奴隷の傷は頬から肩にかけて。顔と利き腕をやられた」

 娼婦にも剣闘士にもなれないか。

「買い手が見つからなければ、どうなる?」

「まぁ、普通に考えてエサだな」

 コロシアムで負けた奴隷は魔物のエサになる。実際は人間の肉に食べるところは少なく、ただ海に捨てられることが多いらしいこともこの頃にはジョーも知っていた。活躍した剣闘士でも墓など作られない。田舎町のコロシアムでは普通のことらしい。命あっての物種か。ジョーの頭に、死んでいった冒険者たちの顔が浮かんだ。

「気になるなら、夕方までは抑えておけるぞ」

「いくらだ?」

「銀貨一二枚」

「そんな金ねぇよ」

「俺が貸してやる」

「顔を見てからだな」

 ジョーがそういった時にはコザックは笑っていた。心まで死んでいるなら、おそらく救えない。さらに、この先娼館に通うことを考えれば悪くはない出費だ。仕事をして疲れてくればどうしても女を求めてしまう。何度も娼館で金を落とすよりもずっと経済的だ。

 打算的に考えれば、この時点でジョーは買うことを決めていたのかもしれない。


 その後、スタンが戻ってきたので奴隷たちをコロシアムに運んだ。今日は脱走する奴もいなかった。

「おめぇ、女の奴隷を買うって?」

 どこで聞いたのかスタンがジョーに聞いた。空の馬車で、広場に戻る途中だ。

「まだ決めてねぇよ」

「はっ、もったいねぇ」

 スタンは半笑いだ。

「何がもったいないんだ?」

「夜になったら、女なんて腐るほど来るんだぜ。それも金持ちのな」

「どういうことだ?」

「お前さん、ここに来てからそんなに経ってないだろ? 金持ちの貴族の夫人や大商人の奥方ってのは好きにできる金が多いからな。夜になったら、コロシアムの剣闘士を買いに来るんだよ。そのおこぼれをな……」

「……悲しくはないか?」

「はっ! なにが?」

 ジョーはスタンの精神力を尊敬した。奴隷で解消しようとしている自分も悲しいことには変わりない。女性関係であまりいい思い出がないジョーは色恋沙汰よりも金で解決できる関係の方があと腐れもないので楽だと思っていた。貴族の夫人とそんな関係になったら、金がかかるだけでなく町を出て、逃げ回らないといけなくなるのではないかと想像してしまう。

「そういうのも関係ないのか」

 ジョーには、受け入れるのが難しい感覚だった。


 夕方。

 仕事終わりのジョーはコザックに連れてこられた女奴隷をすぐに引き取ることを決めた。

 顔は十人並み。上背があり、ジョーよりもやや大きい。

 顔から胸にかけて、大型魔獣の爪で引き裂かれた傷があり、申し訳程度の薬草が貼られていた。体中から汗をかき、ジョーの前に立っているのがやっとという状態で、衣服の類いは身に着けていない。ただ、目だけは光があるように思えた。体も心もどん底のはずなのに、生きる意志だけは残っている。

「お前が買うというから、一応、治療はしておいたぞ」

「これでか?」

「本当に買うってことでいいんだな?」

 悠長に喋ってる場合なのかどうなのかジョーには判別できなかった。とにかく、この女奴隷は治療しないといけない。

「ああ、だけど、まけろ。こんな死にかけじゃ、どうしようもない。銀貨五枚だ」

 ジョーは女奴隷の傷口に布を当ててなるべく血管を縛り、コザックには適当に返した。とにかくこれほど血が出てるなら、薬草が必要だ。

「ふざけるな。銀貨一〇枚、これ以上は無理だ」

「銀貨七枚」

「……はぁ、銀貨八枚だ」

「わかった。給料から差し引いてくれ」

ジョーは急いで紐を取り出し、端を口にくわえ、たすき掛けをした。

「何をしてるんだ?」

「まじないだ。こうしたほうが楽なんだよ」

 実際、たすき掛けをすると無意識に背中に力が入り、重い荷物を運ぶのが楽になる。

 女奴隷を抱え上げて背負ったジョーは、そのまま町外れの家へと走った。

「生きろ! まだ死ぬんじゃない! このままで終わるな!」

 ジョーは走りながら、女奴隷に声をかけ続けた。今にも命の炎が消えそうな者に、声をかけても仕方がない。それでもジョーは声をかけなかったら後悔することを知っている。火を灯し続けないと命はあっさりと消えてしまう。自分の腕の中で命が消えていくのはもうたくさんだ。冒険者時代のトラウマが蘇ってきた。


 ジョーは家に帰ると、女奴隷を魔物の毛皮の上に寝かせた。

 井戸から水を汲んできて、清潔な布で女奴隷の身体を拭ってやり、厚めの布を畳んで布団代わりにかけてやった。傷口は縫われ、脈拍も呼吸も落ち着いているが、熱は出るだろうから窓を開けた。

「あ、うっ……」

「喋らなくていい。そこにある桶に水が入ってる。飲めそうなら飲め。身体を拭うならこの布を使え。薬草を採ってくるから」

 話そうとする女奴隷を止め、ジョーは家を飛び出した。


 すでに日没まで数分。町外れなので森は近いが、影が伸びて真っ暗だ。ジョーは松明の僅かな灯りを頼りに薬草を探した。めぼしいところは水辺の周辺で、魔物の気配も濃い。灯りに寄ってきた夜行性の魔物がジョーの周りを囲み始めた。

 ジョーは気配を探りながら、腰のナイフに手をかけた。大きな蝙蝠の魔物が空からジョーを襲ってきた。ジョーは松明を放り投げ、魔物の気をそらし、その隙に地面に伏せた。蝙蝠の魔物は燃えている松明に向かって飛んでいる。松明はもう捨てるしかない。

 ジョーは身を伏せたまま、匍匐前進で移動。泥だらけになりながらも、水辺まで辿り着いた。

 ズリ……ズリ……

 何かが、這う音が聞こえてきた。

 ジョーが顔を上げると、巨大なヘビの魔物、ポイズンアナコンダが草むらを移動していた。見つかれば、丸飲みにされてしまう。もしくは丸太のように大きな尻尾でぺしゃんこに潰されるかもしれない。ジョーはじっと身を潜めた。額からは汗が噴き出し、時間がすぎるのが恐ろしいほど長く感じた。幸いポイズンアナコンダは沼を滑るように泳いで何処かへ去ってくれた。

 ジョーは月明かりの中、ふと見上げれば水辺に薬草が群生しているのを見つけた。ジョーは多めに採取し、懐に入れて急いで自宅へと帰った。

 不思議と暗さは気にならなかった。目が慣れたのか、魔物の気配もしない。


 自宅に着くとジョーは急いで鍋で少量の水を温め、薬草を入れ、冒険者でも作れる簡易的な回復薬を作りはじめた。

 湯を沸かしている間、女奴隷の様子を見ると呼吸が荒くなっていた。熱も出ているのだろう。水を含ませた布で身体を拭いてやったが、汗が止まらない。

 ジョーが声をかけたが、呻き声だけが家に響く。身体は戦ってるのだから、諦めるわけにはいかない。鍋をかき回し焦がさないように回復薬を作った。

 服を脱がし傷口に水をかけて汗を拭うと、痛みで女奴隷が起きた。

「大丈夫だ。寝ていろ。回復薬を作ったんだ」

ジョーは女奴隷の頬から胸にかけての傷口に回復薬を塗りこむ。

 薬師が作った回復薬ではないので即効性はないが、無理に身体を動かさなければ治るはずだ。ただ肉がえぐれてしまっているので、痕は残るだろう。

 女奴隷はジョーが回復薬を塗りこんでいる間、口を結んで痛みに耐えていた。

この女奴隷は心が強い。ジョーは丁寧に回復薬を塗っていった。

ジョーは熱でうなされないように水を含んだ布を額に当ててやり、どうにかできる限りのことはしたつもりだ。これでダメなら、もう一度薬草を採ってくるしかない。そう思っていたが、徐々に女奴隷の呼吸はゆっくりと静かになっていった。

 それを見ながら、いつの間にかジョーは意識を失っていた。身体は泥だらけ。汚れていない箇所などない。

 真夜中、ふと目を覚ました女奴隷は、ジョーの姿を見て目から自然と涙がこぼれた。


 海から昇る日の光が開け放たれた窓から差し込んでくる。ジョーは、女奴隷がしっかりと息をして熱が下がっていることを確認した。冒険者時代は散々作った回復薬がここで役に立った。人生、無駄なことなどないのかもしれない。彼女もコロシアムで活躍した女奴隷だ。しばらく傷が治るまでは休ませてやりたい。

ジョーは女奴隷が目を覚まさぬようそっと、裏の井戸で顔を洗いに行った。井戸は古いが黴もなく、釣瓶もしっかりとしている。ロープだけはほつれているので変えた方がいいかもしれない。座ったまま眠ったので身体が固まってしまっている。大きく伸びをすると、バキバキと筋が音を立てた。井戸から汲んだ水をたっぷり使って、顔を洗う。滴がぼたぼたと茶色い地面に広がっていった。

服を脱ぐと前面は泥だらけ、背中は女奴隷を背負った時に血だらけになっていた。バケツに放り込んで後で洗おう。

「なんとかなったか……」

 ようやく緊張していた身体に血が巡り始めたような気がしていた。


 振り返ると朝の光が波に煌めき、海から吹く風がジョーの濡れた頬を通り過ぎていく。

女奴隷の体調の心配をしていたが、新生活が始まったばかり。港の方ではすでに魚河岸が開いて仕事をしている者たちの声も聞こえてくる。

 カプリは港町でコロシアムもあるが、ジョーの家は坂を上がった町外れで人通りも殆ど無く、隣の家とも離れている。家も見つけ奴隷も買い、いよいよちゃんとした商人になる下準備が整った。

 あとは、なにで商売をするかだ。奴隷に筋トレを教え、馬車の護衛だけで食べていくなら、冒険者の頃とあまり変わらない。

 ジョーは自分の顔を叩き、よしっと気合いを入れて家の中に戻った。

 女奴隷が、胸の傷口を押さえながら立ち上がろうとしていた。

「まだ、無理はするな。自作の回復薬だから、効果が薄いんだ。悪いな」

「……謝らないで、ください。命を救って、頂き、ありがとうございます」

 女奴隷は言葉を選びながら、話した。コロシアムとは違う環境に緊張しているのかもしれない。早いところ慣れさせなくては。

「名前は?」

「名前はコロシアムに捨ててきました! 新しい名前をつけてください」

 そう言って、女奴隷は上目遣いでジョーを見た。

ジョーは先ほど見た井戸の滴と、海で煌めく滴を思い出した。思い付きだった。

「そうか……。じゃあ、シズクにしよう」

「シズクですか?」

「ああ、コロシアムの奴隷だったとは思えないような、女らしい名前だろ? 今日からお前はシズクだ。俺はジョー。よろしくな」

「よろしくお願いします」

 新居であまり家具がないので、ジョーは床に胡座をかいて話し始めた。

「お前は俺の奴隷だ。ただ、俺は個人で奴隷を持つのは初めてなんだ。シズクのこともほとんど知らない。コロシアムの人気剣闘士だったんだよな?」

「人気かどうかはわかりませんが、剣闘士でした」

「筋肉もついてるし、結構強かったのか?」

 シズクの腹筋は割れているし、腕の筋肉も太い。

「わかりません。ただ生き残るのに必死で」

「まぁ、傷が治るまでは家の中にいてもらう。動けるようなら、掃除や洗濯をしてもらいたい。ま、今はほとんどする必要もないがな。俺の仕事が終わったら、町に出て服や雑貨を買いに行こう」

「わかりました。ありがとうございます」

「何か得意なことはあるか?」

「槍、ですかね?」

「いや、戦うこと以外でだ」

 シズクは困ったように、顔をしかめた。コロシアムにいた頃は戦うことしか要求されなかった。他に何をしていたのか、思いつかない。

「あ、傷が治れば夜伽をしてもらうつもりだが、経験は?」

「男としたことはないです」

「あ! 同性愛者か?」

「いえ! 違います! その……」

「ああ、そうか」

 ジョーはスタンの話を思い出した。夜な夜な、貴族や商人の奥方が、コロシアムの戦士を抱きに行くという噂を。

「じゃ、男が好きなのか?」

「男が好きです!」

「そうか。なら良かった。まぁ、相性が悪いかもしれないが我慢してくれ」

「あの……こんな顔ですが、いいんですか?」

 シズクは顔の傷を見せて聞いた。

「ああ、そのくらいのこと俺は気にしない。それより、早く治してくれ。そろそろ時間か」

ジョーは立ち上がり、仕事に行く準備をする。と言っても財布とナイフの確認くらいだ。

「じゃ、行ってくる。昼に一旦帰ってくるから、横になっててくれ」

「あの! 首輪とかしなくていいんですか?」

 シズクの言葉にようやくジョーは逃亡奴隷という存在がいることに気がついた。


 ◇


「面倒だから逃げないでくれ。まだ傷も完全に治ってないんだし。そうだな……一応、位置を知らせる魔法陣を描いておくか」

 ジョーは魔法陣など描けないが、シズクを逃さないために嘘をついた。

 シズクの肩にナイフでちょっとだけ傷をつけた。

「これで、俺はシズクがどこにいるかわかる」

「魔法陣のスキルを持ってるんですか?」

 魔法陣学は非常に難しい学問だ。王都の軍学校でも使える者は一握りだと聞く。

「これだけだ。昔、とった杵柄ってやつだ」

 ジョーがそう説明すると、シズクが振り返った。

 妙に二人の顔の距離が近く、お互いの顔をまじまじと見た。

 シズクは傷が治れば逃げ出そうと考えていたが、「自分の主人が思いの外、若いこと」「ドキドキしている自分」「そういえば、今までこれほど長く男の顔を見つめたことがなかったこと」に気がついた。

 ジョーは「もしかしたら、この程度のウソは見破られ、すぐに逃げ出してしまうかもしれない。せっかく買ったのに、なにもしないうちに逃げられるのは嫌だ。どうせなら、キスだけでも」と、唇を重ねていた。

 長い接吻のあと、ジョーはごまかすように頭を掻きながら、立ち上がりドアを開けて、足早に仕事へと向かった。

 シズクは、ただ呆然として自分の唇に触れた。

 高鳴る鼓動が鳴り止まない。シズクが男というものを意識したのは初めてだった。


 ◇


 というのが、ジョーの妄想で、実際は、魔法陣など描かず、ただ、額を合わせ熱を計っただけ。

「まだ、熱っぽいからあまり動くなよ。いってくる」

 そう言って、ジョーはシズクの頭を軽く撫でてから、外に出た。

「そりゃ、逃げるよな」

 ジョーはそう呟いて失った金を忘れるため、自分の考えの浅さを振り切るために走ってコロシアムへと向かった。

 一人家に残ったシズクは、撫でられた頭を触った。

 誰かに撫でられた何年ぶりだろう。

 誰かに気を使われたのは?

「いや、そんなことより傷が治ったんだから、逃げなくちゃ」

 自分を奮い立たせ、逃げるのに必要なサンダルや荷物を準備。多少、傷は痛む。熱っぽい。それでも、自分は奴隷なのだから逃げなくてはいけない。こんなチャンスは二度とないだろう。

 剣闘士の訓練場ではいつも言われていた。


「いくら訓練をしても、目の前のチャンスを掴めない者は死ぬ。努力や筋肉は簡単にお前を裏切る。渇望せよ! 死はいつでもお前の傍らにある! 敗者に生きる価値などない! 勝利を掴み続けろ!」

 鞭を持った教育係の奴隷を思い出す。

 その言葉を信じれば、この場合、逃げることが生き残るためには正しい。


 少しだけ戸棚にあった干し肉を口に入れ、ドアを開けて外に出た。

 シズクは、ふと立ち止まってしまった。振り返ると、それまで自分が看病されていたベッドが残されていた。

 私は奴隷なのだから誰かに恩など感じる必要はない。コロシアムでは助けてもらった者と次の日に死闘を繰り広げることなど日常茶飯事だった。無駄な感情は自分の死に直結する。

 なのに、なぜか一歩が踏み出せない。

「どうして? どうして? どうして? どう……」

 ジョーに撫でられた頭を再び触る。合わせた額を触る。気付いているのに、認めてはいけない。行き場のない感情が頬を濡らしていた。

「……ここはコロシアムじゃない」

 町外れの小さな家だ。

 自分の傷を治し、心配してくれる主人がいる。

 シズクは、動けなくなった。

 ジョーに触れられた頭がどうしても熱っぽく感じた。


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