後編
あの後、トレントにはきつく灸を据えて、私が動けなくなるほどの魔力を吸うことを禁じた。
あれから定期的にトレントに魔力を遣り続けると、段々と住処の周りは迷いの森と化してきた。
トレントから放たれる魔力に侵された草花や若木は、徐々に変質していき、森に入り込もうとするものを拒絶する。
辺りは魔力の気配に満ち、中に住む私たちには感じないが、外から見ると随分と禍々しい印象を受けるだろう。
あの腹立たしい人間の雌の訪れも途絶えた。
時たま、森のはずれに人間の気配がすることがあるから、もしかしたら何度か迷いの森に入り込もうとしたのかもしれないが、私の知ったことではない。
番は住処の周りの変化に気づいたようではあるが、家の直ぐ近くに生え始めた、魔力をたっぷり含んだ草を嬉々として摘みとり集め、嬉々としてあの狭い箱に篭っている。
そろそろ秋も終わりに近づいて、日をおうごとに空気が冷たくなってきた。
番は空を四角い穴から見上げて、冷たい空気を感じるたびに憂鬱そうにため息を吐く。
「冬篭りの準備をしなきゃなあ…流石にこれは、きちんとしないと冬を越えられなくて死ぬ」
ある日のことだ。
番は大きな袋ににたくさん緑の汁が詰まった容器を入れて、いつもとは違う布を纏った。
「憂鬱だけど…街に行ってくるよ」
番の様子がおかしい。
番は住処の外へ出ると、草がぼうぼうと生え茂り、どこが道だか判りづらくなっている獣道へ足を踏み入れる。
――どこにいく?ここは既に迷いの森と化している。ひとりで出ては危ない。
そう思って、番の纏う布の袖を引っ張るが、番はお構い無しにずんずんと進んでいく。
もしかして、狩りに行くつもりなのだろうか。
まだ赤子の番には、まだ早いのではないか?
私は大いに焦って、番いの後をついて行くことにした。
「やあ、ついてきてくれるのかい。頼もしいな。お前のお陰で、この憂鬱な道のりが少し楽しくなりそうだ」
やがて、番が辿りついた先は、人間が暮らす小さな巣だ。
番は躊躇なく巣の外に立つ人間に話をすると、その中に入っていった。
私は流石に、人間が大量にいる巣に入る気にはなれず、少し離れた場所で番を待つ。
身を屈めて伏せをして、こちらを伺ってくる人間を睨みつけながら、その巣から番が出てくるのを待った。
暫くすると、番がよぼよぼの老いた牛が引く乗り物に乗って巣から出てきた。
「待たせたね…。随分僕の薬を安く買い叩かれたけれど、なんとか一冬越えられる分の食料と薪は買えたよ。さあ、早く帰ろう…」
ああ。また番が落ち込んでいる。
私は番の乗る妙な乗り物に飛び移り、番の顔をぺろりとひと舐めした。
「わ、ははは。くすぐったいよ、お前。やっぱりお前はいいなあ。何でだか一緒にいると安心する。それに比べて、他の人間と話すと酷く疲れる。…なんでだろうね」
番の顔が曇る。何か嫌なことでもあったのだろうか。
迷いの森に満ちている魔力は、ほぼ私のものだ。
だから森は私を拒むことはない。
無事に住処に帰ると、荷を下ろして、一緒に連れてきた老いた牛は潰して肉にした。
その日から、番は毎日忙しそうに薪を割り、果実や肉に何かを擦り込んだり漬け込んだりして、食料庫に貯めていった。
「ああ、全く。早く研究を再開したい。ああいやだ、どうしてこの世は色々と不便なんだろう」
ぶつぶつと文句を言いながら、毎日何かをこなしていく。ちらちらと白いものが空から舞い降りる頃には、全ての冬支度が終わり、番はまた狭っ苦しい箱に篭って嬉々として草の汁と睨めっこをしている。
私は一番大きな部屋の、常に赤々と燃える火の前で、丸くなってうたた寝をする。時たま番がやってきて、私の体を撫で回すので熟睡は出来ないけれど。
「ああ。癒しだ…」
最近番は、恍惚の表情で私に頬ずりをするようになった。
更には執拗に私の毛を何度も撫でる。毛の流れに沿って撫でたかと思うと、逆に毛を逆立てるように更に撫で摩る。ついでに私の耳の後ろや、首の下を何度も何度も…。
その度に、あまりの心地よさに、私は力が抜けてしまい、番に撫でられるたびにくったりと体を横たえるようになってしまった。
そんな私を、番はにこにこと笑いながら眺め、更にひたすら撫で摩るのだ。
…番が私を触ってくることは別段嫌ではないのだが、余りのしつこさに、なんだか複雑な気分になるのは何故だろうか。
*********
冬の間はひたすら住処に引きこもり、番と一緒にゆったりとした時間を過ごした。
毎年冬は穴を掘って寒さを凌いでいたことを考えると、常に温かい炎で温まることの出来るこの生活は、大変素晴らしいもののように思える。
やがて雪が溶け、春が訪れた。
太陽で緩んだ雪が住処からまるで雪崩のように落ちて、酷く大きな音をたてる。
私は番と一緒に並んで外を眺める。
溶け始めた雪はきらきらと太陽の光を反射して、溶けた雪の合間から若葉がちらちらと覗いている。
「…春だねえ」
そんな様子を四角い穴から眺める番は、どこか憂鬱そうだ。
「冬は誰にも文句を言われずに、胸をはって引きこもれるから好きなのに…。冬支度は嫌いだけれどね」
番は穴の淵に顎を乗せて、じっとりと外を睨んだ。
――どうした、番。嫌なことでもあったのか?
ずっと一緒に居るのだから、嫌なことがあったら私にも解りそうなものだが、人間という生き物は思いのほか複雑に出来ているらしい。
なかなか番の気持ちの変化を汲む事が出来ないことに、苛立ちを覚えた私は、鼻先で番の腕を跳ね上げ、顔をわきの下に滑り込ませる。
そして、下から番の顔をべろりと舐めた。
「わっ、ぶ!なんだよ、お前。僕の憂鬱な気分がわかったのか?…まあ、春が来ても今年はお前が居るからな。きっと去年とは違うだろう」
そういって、番は透明な板を閉めた。
「春が本格的に来たら、薬草を摘みに花畑に行こう。きっとお前も気に入るさ」
番は私を撫でながら、優しい笑みを浮かべた。
*********
それから、何度季節が回っただろう。
春はふたりで薬草を摘みに出掛け、
夏は川辺で涼をとり、
秋は降り積もる落ち葉の中を駆け回って、森の恵みを集め、
冬は炎の前で、互いに寄り添って暖をとった。
何度も同じ季節が巡り、毎年同じようなことをして過ごした。
ふたりで四角い穴から外を眺めて、季節の移り変わりを感じる。
寂しいときは寄り添い、楽しいときはふたりではしゃぎまわった。
番は相変わらず、狭っ苦しい箱の中で草の汁を混ぜ合わせるのに夢中で。
私は時間になると、番を呼びに行く。
――番、私の番。
その頃には番は私のなかで、最も大切な位置を占め、番のことを考えて過ごす毎日はとても充実していた。
相変わらず、番の肌はつるりとしたままだし、尻からは立派な尻尾がいつまでたっても生えてこないけれど。
番と一緒にゆっくりとした時を過ごすことが、幸せで。
いつしか、私は番のことを心から愛していた。
――番、番。早く大人になれ。そして私と契ろう。
――きっとお前との子どもは最高に可愛くて強いはずだ。
そんな願いを込めて、今日も番を舐める。
ぺろり、ぺろりと、ついでに愛情も込めて舐めれば、番はくすぐったそうに私に笑いかけるのだ。
*********
ある日のことだった。
番が興奮しながら私に抱きついてきた。
「ああ、お前!みておくれよ!とうとう作りたかった、流行病の特効薬が出来たぞ…!素晴らしい!遂に僕はやったんだ!」
番は白いものが混じり始めた髪を、片手でぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「ああ、でもこの薬を使えば、更にもっといい薬が作れるかもしれない!ああ、なんてことだろう。早速研究にとりかからねば…!」
番は酷く嬉しそうに何かを喋っている。そんな番の様子に、つられて私まで嬉しくなってしまった。
だから、近くにあった番の顔をぺろりぺろりと目いっぱい舐めてやった。
「うわ、あははは。顔がべとべとじゃないか。お前も嬉しいか。そうかそうか」
「きゅうん!」
「可愛いなあ。お前は本当に可愛い」
*********
「はあ…」
最近番の様子がおかしい。
昔に比べると、大分動きが緩慢になり、体もひとまわり小さくなった。
「ああ、寒さが体に堪えるようになってしまったなあ…歳はとりたくないものだ」
番はゆっくりとした動きで、炎の前に置いてある、ゆらゆら揺れる木が組んであるものに体を預けた。
最近、番はよくそこに座り、何をするでもなくぼうっと炎を眺めていることが多い。
私はその足元に丸くなり、番を見上げる。
番は私を優しく見下ろし、すっかり細くなってしまった手で私の毛並みを撫でる。
「お前と出会って、もう…何年経ったろうね。森狼がこんなに長命だとは知らなかったよ」
番はゆっくりと、何度も何度も私の毛皮を往復して撫でる。
それはとても気持ちがよくて、私はうっとりと目を瞑った。
「はじめてあったときは、僕を食べにきたのかと思ったけれど。お前とは長い付き合いになったね…」
そういって、長く長く息を吐いた。
「なあ、お前はほんとうは森狼なんかじゃなくて、力ある魔物だったのかな…。お前が来てからだろう?我が家の周りが魔力で満ち溢れ、人が立ち入ることができないような深い森へと変わったのは。…お陰で、招かれざる客は来なくなったし、僕の研究が随分捗ったからね。お前には感謝しきりだよ」
番の声はどこまでも優しく、耳に心地よく響く。
「お前は出会った頃から姿が変わらないね?…いや、あのときより、もっと逞しく美しくなったかな…。それに比べて僕は…情けないな。なあ、お前」
なんとなく、番の声に寂しさが滲んでいるような気がして、私は顔を上げて私を撫でる番の手を舐めた。
「僕があと、どれくらい生きるのか分からないけれどね。お前に死ぬまで傍にいてほしいと思うのは――人間の欲深さ故なのかなあ。――なあ、どう思う?」
私は愛する番を慰めるために「くうん」とひと鳴きしたあと、ひたすらその手を舐め続けた。
*********
それは、ある朝のことだ。
私は、いつもどおり眠る番を起こそうと鼻先で揺する。
けれども、番は中々起きず、何度揺すってもぴくりともしない。
私は暫く番を揺すっていたが、痺れを切らして一旦住処の外に出た。
そして、幾つか果実を見繕って持ち帰り、番の頭の周りに置いた。
「きゅん、きゅ、きゅうううん…」
――番。起きろ、番…。
何故だろう、番は私が出掛けたときそのままの体勢で全く動いた気配はない。
番は、昨日の晩も夜遅くまで起きていた。もしかしたら、まだ眠りたいのかもしれない。
そう思って、私も一緒に番の傍で横になり、目を瞑った。
*********
翌朝、番はまだ眠っていた。
全く、だらしないやつだ。
私はまた鼻先で番を揺する。
――ほら、番。昨日の果実も食べていないじゃあないか。また、飢えてしまう。
――なあ。番、聞いているのか?起きろ、番…。
番を揺すった瞬間、一瞬、嗅いだことのある匂いがしたけれど、私はそれを無視した。そんなことよりも、番を起こすことの方が先だ。
「きゅう、きゅううううん」
――番。起きろ、なあ…。
*********
まだ、番は起きてこない。
果実が腐ってしまったので、新しいものに取り替える。
外に出たときにトレントが何か言っていたが、知らぬふりをした。
そして、番の横で寝そべる。
鼻先で番を揺する。
何故か虫がたくさん飛び交っていてうざったい。
*********
今日も番は起きてこなかった。
*********
もしかしたら、果実が気に食わないのだろうか。
そうだ、獲物を狩りに行こう。
*********
私が居ないうちに番が目覚めたら、寂しがるだろう。
私は成るべく番の傍にいることにした。
*********
*********
******……
住処を出て、生い茂る草を踏みしめる。
『おやおや、やっと出てきたのかい。あの人間が死んだのだろう?住処を変えるのかい』
私は、意味の分からないことを言うトレントを見上げて、睨みつけた。
『番は眠っているだけだ。下等な魔物め。邪魔をするな。狩りにいかねば、番が飢えてしまう』
それだけを言って、私は今は暗く、陽が射さなくなってしまった森へと足を踏み入れた。
『ああ、なんてことだ。壊れてしまったのか。魂の番の死に耐え切れなかったのだね。…悲しいなあ。哀れだなあ』
『番のために、日々私に限界まで魔力を分け与えたせいで、異常な成長をした狼。狼は狼をすでに超えて、永い時を生きる魔物と成り果てていたのに、人と結ばれることを信じてそれに気づかない。そして、本来なら先に死ぬはずだったのに、魔物に成り果てたせいで番に置いて逝かれてしまった。あれは、あと何百年生きるんだろうね?その果てしなく続く日々を、番の死体の横で、目覚めぬ番が起き上がるのを待ち続けるのかい?ああ、なんて滑稽で、愚かで、愛おしい。一途な獣』
私は四肢を思い切り動かして、地面を風のような速さで駆ける。
さあ、早く。早く獲物を仕留めて帰らなければ。
今日は大きめの獲物を狩ろう。そうだ、番が飛び起きるくらい大きな獲物。
私はうきうきしながら、風の中に獲物の匂いを探す。
そして、獲物の匂いを嗅ぎつけると、獲物が居る場所に向かって体を低くして、また風のように駆けた。
*********
番が目覚めたときに快適に暮らせるように、私はトレントに更に多くの魔力を注いだ。
森は今や、どろりと肌に感じるほど濃厚な魔力に満ち満ちて、弱い生き物が入り込めば魔力にあてられて昏倒するほどだ。
これで番を煩わせるものは寄れないだろう…そう思ったのだが。
魔力が豊富なこの場所を狙って、自分の縄張りにしようと、沢山の力ある魔物が現れるようになってしまった。
――ここは、私と番の住処。何人たりとも立ち入ることは許さない!
私はそれらを悉く退け、滅ぼした。
今日も私は何体かの魔物を退けた後、住処に戻る。
番はいつもの台の上に横たわり、昏々と眠ったままだ。
私は疲れた体を番いの隣に横たえると、ぺろり、と番を舐めた。
――全く。私と番の住処を奪おうなどと。
ぺろり、ぺろり、と白い番の体を舐める。
早く番が起きればいい。これだけ長く眠っているのだ。きっと尻尾も生えているだろうから、子どもを作るんだ。何匹がいいかな。成る可く沢山がいい。そして――…
私は番が目覚めた後のことを想いながら、番をぺろりぺろりと舐める。
ぺろり、ぺろり…
――ああ、愛する番。早く目覚めておくれ。
*********
「グギャアアアアアアアアアアア!」
ずずん、と大きな音をたてて、力尽きたそれは地面に横たわった。
私の目の前で、血まみれになっているのは所謂ワイバーンと呼ばれる竜だ。
今まで様々な魔物を退けてきたけれど、まさか竜までも現れるとは思わなかった。
私は、はっ…はっ…と荒い息をしながら、ワイバーンの死体の横を抜けて住処を目指す。
既に私の後ろ足は千切れかけ、腹からは何か温かいものが零れ落ちている。
体から力が段々と抜けていくのが解るが、私は歯を食いしばってなんとか番の傍までたどり着いた。
台の上にあがるのは中々苦労したが、時間をかけてなんとか上る。
どろり、と鼻から血が零れ、白い番を汚した。
――ああ。こんなことでは、番が目覚めたときに怒られてしまう。
優しい番はこんなことでは、怒らないような気がするけれど、番が汚れるのは私が嫌なのだ。
なんとかいつものように、番の隣に体を横たえると、番いを汚した私の血をぺろりと舐めとった。
そして、番の体を優しく舐める。
ぺろり、ぺろり…
――なあ、番。最近めっきりお前の笑顔をみていないなあ。
――私が舐めると、くすぐったそうに笑うお前の顔が好きだったんだ。
――番。番。愛しい、私の番…。
ごぼ、と口からとうとう大量の血が溢れた。
鼻も口も血がどんどん溢れてきて、息が出来ない。
私はやがて瞼を開けていられなくなって、ゆっくりと瞳を閉じた。
けれども、力を振り絞って番を舐め続ける。
ぺろり、ぺろり、ぺろり…
――番。お前と一緒に居るはずなのに、どうして今はこんなにも、寂しいんだろうな。
…ぺろり。
*********
「本当に此処に人の住処があったなんて…」
とある農村の近くにある、異常に魔力が濃い森。
そこにこの国の騎士と学者からなる調査団が立ち入っていた。
濃い魔力とそれに当てられた草花のせいで、迷いの森と化したその場所は、長い間だれも立ち入ることができずに、周辺住民にも恐れられる場所であった。
何故、彼らがそんな場所にいるのか。
それは、今その国が未曾有の流行病に襲われていることと関係がある。
その流行病は、かつてこのあたりで流行した病によく似ていた。
――ある伝承がある。
魔力の濃い森の奥から、狼を引き連れた賢者が現れ、食料等と引き換えに奇跡の薬を村にもたらしたという伝承。その薬によって、村の人々は当時流行った病から救われたという、よくある話だ。
それは今からおおよそ200年ほど前の伝承で、村の中で口伝で話し伝えられてきた…伝承というよりは、御伽噺のようなものであった。
けれども、そんな御伽噺に縋らないとならないほど国は困窮し、国を蝕み続ける病を治す何かの手立てがあればと、この森の調査をすることを、国の上層部は決めた。
学者が調査団の面々に、切れそうになったベールの魔法をかけなおす。
それはあたりに漂う魔力を、人体に寄せ付けないための魔法だ。
その魔法が無いと、人間なんてあっという間にこの森の魔力に侵されて、下手を打てば死んでしまう可能性すらある。
そんな所に派遣されてしまった男は、皆に知られないように、こっそりとため息を吐いた。
――こんな調査、意味があるのだろうか。
お伽話に出てくる賢者にすら、縋らざるを得ない国の現状もだが、こんな僻地へ派遣された自分の境遇にも辟易する。
貧乏くじ。そんな言葉が脳裏に浮かぶが、男はそれを頭を軽く振って追い払う。
――ざわ、ざわ、ざわ…
その時だ、木々のざわめく音と共に、何かがこちらを伺っているような視線を感じ、周りを見回す。
けれども、鬱蒼とした森には濃い魔力が漂っているだけで、別段生き物がいるような気配はしない。
――気のせいか。
男は気を取り直し、皆を鼓舞するために張り切って指示を出し始めた。
調査団の人数を半分に分けて、何故か死んでいたワイバーンの死因の調査と、大樹に抱かれるようにして建つ、ぼろぼろのあばら家の調査を早速開始する。
今にも崩れそうな床を踏みしめ、天井が抜けてしまって空が見えている瓦礫の中を進んでいく。
それほど広くないあばら家の中、かつて寝室だったろう場所に足を踏み入れた面々は、皆一様に息を呑んだ。
そこには、人間の人骨を抱くようにして横たわる、とてつもなく大きな狼がいたのだ。
一瞬化け物かと警戒したけれども、よくよく見るとその狼は明らかに息絶えている。
腹からは内臓が零れ、口の周りは血で塗れ、後ろ足は半ば千切れかけている。
「これが…伝承にあった、賢者と狼なのでしょうか」
「わからん。だが、この狼は最近まで生きていたようだ。この狼が200年前の伝承にある狼ならば、一体この獣は何年生きていたというのだ」
「…そうですね」
男は、安らかな顔で眠っているように見える狼をじっと見た後、その傍で寄り添うようにして眠る人骨に視線を移し、何やらおかしなことに気づいた。
「やけに…この人骨、綺麗ですね」
「ああ。こんな場所に野ざらしにされていたのであれば、薄汚れていてもいいのにな」
「こんなに綺麗に残っていることこそが、この人骨が200年前の賢者のものではないという証拠でしょう」
「そうだろうか…こんなに、魔力が濃い場所だ。何が起こっても不思議ではないような気もするけどな」
「団長!来てください!」
そのとき、瓦礫の中をあさっていた団員が声をあげた。
駆けつけてみると、瓦礫の中に地下へと続く階段がある。
皆で顔を見合わせ、そろそろとその下へ降りていくと、その中は長い間閉め切られていたせいか黴臭く、沢山のフラスコと書物、壁にびっしりと貼り付けられた書付けがあり、如何にも研究室といった風情だ。
「…!団長!これは!」
羊皮紙の束を捲っていた学者が驚きの声をあげた。
それはこの家の持ち主が手書きで記した手記。
そこには、調査団の面々、如いてはこの国が求めてやまなかった、病の特効薬のレシピが書かれていた――…。
目的のものが見つかり、皆晴れ晴れとした顔をしている。
皆で手分けをして、必要な書類を持ち出すと、この後のことを話し合った。
「ワイバーンの素材は高く売れます。採取して、薬の開発代にあてましょう。それに、あの狼も随分沢山の魔力を持っていたようです。皮や爪、牙を持って帰れば――」
「ちょっとまて」
「どうしました?団長」
生真面目な助手の男は、突然自分の言葉を遮った上司を不思議そうに見つめた。
「あの狼は駄目だ。出来ることなら――あの人骨と一緒に土の中に埋葬してやりたい」
「団長。今はそんな甘いことを言っていられる状況では――」
「あのワイバーンの死因は牙と爪によるものだそうだ」
助手の男はその言葉に息を飲む。
つまりは――あの大きな狼が竜を殺したということか。
「ワイバーンがこの辺りを縄張りにしていたのであれば、こうも簡単にここへ至ることは出来なかっただろう。そうなれば、我々は一生薬のレシピを手に入れなれなかったに違いない。この住処も今以上に荒れ果て、この賢者の遺物も失われていたかもしれない…わかるか」
地を這う獣が、空を飛ぶ竜を倒した。
それが如何に大変なことなのか、想像に絶する。
「この狼は、賢者の遺した遺物を守り抜いたのだよ」
その場にいた全員が顔を見合わせ、頷き合う。
そして、全員で時間をかけて大きな穴を掘り、狼と人骨を埋葬した。
「…我々の救世主たちに。安らかな眠りを」
祈りの言葉を捧げ、皆で黙祷を捧げた時、ざわざわと大きく木が騒めく音がして、ごう、と大きな風が突然巻き起こった。
あまりの風の強さに、男は目を瞑って耐えていたが、暫くするとそれは止んだ。
そして、目を開けた時――あばら家を抱くように立っていた大樹は搔き消え、暗い森には温かな光が差し込み、森を覆っていた濃い魔力は綺麗さっぱり掻き消えていた。
*********
ふと、目を開けると私は花畑の中にいた。
既に夜らしく、辺りは真っ暗。空には沢山の星々が煌き、時折星が地上に流れ落ちる。
暗いはずなのに、仄かに光る花々のお陰で遠くまで花畑を見渡せる。少し動く度に、体に触れた花が散り、色とりどりの花びらが舞う。
ゆっくりと立ち上がると、私は辺りを見回した。
すると、嗅ぎなれた大好きな匂いがした。
「――おうい!…おうい!」
声のする方を見ると、遠くのほうに人影が見える。私はその影を認めると、すぐさま影に向かって走り出した。
そして思い切り飛びつき、押し倒す。そして、見えている肌部分を丁寧に舐めてやった。
「あはははは!くすぐったい!やめろよ!くすぐったすぎて死んじゃうじゃないか!」
番はそういって私をぐいぐいと引き離した。
「私の番!やっと起きたのか。久しぶりなのだ、いいだろう?もっと舐めさせろ」
「勘弁しておくれよ。もう顔がお前のよだれでべとべとだよ…お?」
いきなり番が不思議そうな顔をして、笑うのを止めてしまった。
「どうした?私の番」
「おお…。お前の言葉がわかる。暫く見ないうちに、人間の言葉を覚えたのかい?」
「何を言っている。番こそ、狼の言葉を覚えたのだろう」
お互いにそういいあって顔を見合わせる。
そして、同時に首を傾げて「まあいいか」と笑った。
「それにしても、お前。ずっと待っていたのに、中々こないから退屈してしまったよ」
「何を言っているんだ番。私だってお前が目覚めるのをずっと待っていたのに」
どうにもこうにも話が噛み合わない。
認識がどこかずれているんだろうけれど、うまく理解できずにまた首を傾げた。
そんな私を番は優しく撫でながら「まあ、細かいことはいいさ」とにっこり笑う。
「それよりも!」
突然番が私の顔を両手で挟んで、私の目を覗き込んできた。
「さっきから僕のことを、番、番と呼んでいるけれど。僕はいつのまにか四足のお嫁さんを貰っていたのかい?」
「当たり前だ。お前と私は魂の番。運命に定められた相手だ」
番は「なんてこった」と空を見上げ、暫く黙り込んだ。
私も番と同じく空を見上げた。見上げた夜空には、沢山の流れ星。儚く消える定めの、その淡い光はとても美しい。
「…通りで、お前と一緒に居ると落ち着くし、しっくりくると思っていたんだ。魂の番…話には聞いていたけれど、まさか、お前とは」
「そうだ。今更気づいたのか?これだから赤子は。でも、もうお前は大人になったのだろう?太くて立派な尻尾やふさふさの毛は見えないが、狼の言葉を話せるようになったのだ。大人になったという証拠だろう。よし!番。私と契ろう。そして、沢山子どもを作るのだ」
私がそういうと、番は酷く驚き、そして慌てだした。
「ち、ちぎ…!?何を言ってるんだい!お前は狼だろう?そして僕は人間だ。子どもなんて出来るはずがないだろう」
「…な、なんだって!?」
私は番の話を直ぐには信じられず、番の顔をまじまじと見るけれども、番はいたって真面目な顔をしていて、冗談を言っているようには見えない。
「ほんとうなのか…?私と番は…魂の番なのに…」
「はあ、まったく。どういうことなんだろうね?これは神の悪戯か何かなんだろうか」
「神とはなんだ?」
「僕らを創り出した、大いなる創造神のことさ。この世のあれこれは、全て神が創り出したものだと言われている」
”神”か…。まったくけしからんやつだ!そいつのせいで私は、契りも出来ない相手と魂の番になったというのか!?
私の中に沸々と怒りが沸いてきて、一気に頭に血が上った。
「神!!!神め…!!!なんて事をしてくれたのだ!そいつはどこにいる!?首元に喰らいついて、息の根を止めてやるわ!」
「神にそんなことは出来ないと思うけれどね…。まあ、僕も色々と文句を言いたい気分だし。ほら、お前。みてごらん」
番が花畑の向こうを指差す。そこには、大きな光の柱が立ち昇っていた。
「如何にも、神様が居そうじゃないかい?あそこに行ってみようよ」
「そうなのか?なら、行こう。今すぐ行こう。そして、神とやらにお前と契れるようにしてもらうのだ!」
「首元に喰らいつくのはやめるのかい?」
「神とはどんなものかは知らぬが、愛する番と契れるようになることのほうが先だ!」
「愛する…かあ。ははは、そうかいそうかい。じゃあ、そうしよう」
番は私の毛をわしゃわしゃと掻き混ぜ、首元に顔を埋めて頬ずりをすると、徐に立ち上がって花畑の中を歩き出した。
私もその後に続いて歩き出す。
「どれくらいかかるかな。随分遠いように見える」
「ふん、疲れたらいつものように私に寄りかかって休めばいい」
「おお。それは素晴らしい提案だ」
「番は甘えん坊だからな」
「…お前だってそうじゃないか。いつも寝る前は僕に撫でろ撫でろと強請ってきたくせに」
「…うるさいぞ。馬鹿」
「神様ってどんなやつだろうねえ」
「きっと鼻持ちならん、気の利かない阿呆だ」
「おや、僕の番は随分と辛口だ」
「ふん、これでもいい足りないくらいだ」
ふたりで色々なことを話しながら光の柱を目指す。
一歩踏み出すたびに、花びらが舞って、様々な色が視界を染める。
番の横を歩くと心が躍る。
番もそうなのだろうか。優しい顔で私を見下ろす。
そうしてふたり、
楽しく笑いながら、
軽い足取りで一歩一歩。
どこまでも寄り添って、これからもずっと歩いていく――。