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名前を返す夜  作者: reika1021


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第6章:空欄の来訪者

朝の管理室には薄い曇りの光が差し込んでいた。雨の気配はすでに遠くなり、窓の外のビルの壁には乾いた影が張り付いていた。透花は扉を開け、まだ誰かの名前が声になっていない空気の中で机の上に置かれた拾得物の封筒を開けた。


届いていたものは多くなかった。黒い折り畳み傘、古びた小銭入れ、薄い手帳、片方だけの手袋。どれも誰かの生活から少しだけ剥がれ落ちたものなのに、今日は妙に距離を感じた。


透花は、受付票を一枚ずつ確認した。名前欄に視線を置き、品名を見て、拾得場所を控える。手順はいつも通りで、指は迷わず動いた。


水篠朔の名前はなかった。


その空白に驚かなくなっている自分に気づき、少しだけ疲れている自分に気づいた。名前がない朝が続くと、最初は胸の奥で音がしていた不在も、やがて室内の家具のように黙ってそこに置かれる。


透花は小銭入れを棚にしまい、手帳を透明袋へ入れた。紙の匂いが指先に残る。誰かが毎日開いていたかもしれないページは閉じられ、保管番号の下でしばらく持ち主を待つことになる。


「待つ」という言葉が胸の中で小さく引っかかった。


待っているわけではない、と透花は思った。そう思う癖がついてしまったことが、もう待っている証拠のようでもあった。透花は棚の扉を静かに閉めて受付台に戻った。


管理室の窓は薄く曇っていて、外の通りを行く人の輪郭を少しだけぼかしていた。車道を走る音は乾いているのに、建物の内側にはまだ季節の湿気が残っている。東京の朝は晴れていても、どこか水を含んでいた。


ベルを鳴らすと、小さなランプが緑に灯った。透花はその明かりを見て、今日も始まったのだと思った。始まったのに、どこかまだ始まっていないような感覚があった。


最初の来訪者は手帳を探しに来た人で、透花は本人確認をして表紙の色と中の特徴を尋ねた。相手はページの隅に貼った小さな付箋のことまで覚えており、手帳を受け取ると胸元に抱えるようにして息を吐いた。


「助かりました。これがないと、何をする日だったか分からなくなって」


「見つかって良かったです」


透花はそう答えた。声は自然に出た。相手の困りごとに寄り添いすぎず、離れすぎず、ちょうどよい距離感を保つ声だった。


続いて小銭入れを取りに来た人と傘を探しに来た人が来た。透花は同じ言葉を使いながら少しずつ声の温度を変えた。焦っている相手にはゆっくり、照れ隠しに笑う相手には軽く、ひどく疲れている相手には低く。


そういうことはできる。


誰かを相手にする仕事の中で、自分の輪郭を崩さずにいることはできるはずだった。透花はそのたびに胸元の名札を意識しないようにした。


名前はそこにある。ただ、今日は呼ばれない。


昼に近づくころ、空の雲は少し薄くなり、窓際の光が机の上まで届いて受付票の白を淡く明るく照らした。透花は未返却品の一覧を確認して保管期限の近いものに小さな印をつけていった。


水篠朔の名前は今日の一覧にもなかった。


返却済みのファイルにだけ彼の名前が残っている。もう管理室の棚にはない。傘も定期入れもイヤホンも鍵も、すべて彼の生活に戻っていった。


戻ったのなら、それでいい。


透花はそう思った。そう思うたびに、心のどこかで小さな反論が起きる。戻ったものがあるなら、戻ってこない人もいる。それを寂しいと言ってしまえば、何かが決まってしまう気がした。


窓口の外を昼の空気が通り過ぎ、廊下の奥から紙袋の擦れる音が聞こえてすぐに遠くなった。誰かの昼食の匂いがわずかに流れ込み、管理室の紙の匂いに混ざった。


透花は引き出しから自分の昼食を取り出したが、包みを開けるまでに少し時間がかかった。空腹はある。けれど、胃のあたりだけが静かに固まっている。


机の端で昼食を簡単に食べながら、透花は窓口を見た。アクリル板の向こうには誰もいない。そこに立っていた人の形を思い出そうとしなくても、手の動きや声の低さが自然に浮かんだ。


思い出すことは呼ぶことに似ているのかもしれない。


声に出さなくても、心の中で誰かの名前を呼べば、その人は少しだけ近づいてくる。透花は水を飲み、喉を冷やした。言葉にできないものを飲み込むには、冷たさが必要だった。


午後の管理室には少しだけ眠たげな空気が漂っていた。外の通りは動いているのに、建物の中だけ時間の流れが遅くなる。紙をめくる音、空調の細い唸り、遠くの扉の音がひとつずつ、間隔を空けて聞こえてきた。


透花は棚の整理を始め、期限の近いものを手前に出し、持ち主に連絡済みのものと未連絡のものを分けた。作業をしていると、頭の中の余計な声が少し薄くなった。


黒い傘の横に薄い手袋、小銭入れの下に持ち主の分からない切符があった。生活はこういう小さなものをこぼしながら続いていく。


棚の奥に空いた場所がある。透花はそこへ新しい透明袋を置こうとして一瞬だけ手を止めた。以前彼のものがあった位置とは違うのに、空いた場所というだけで記憶が近づく。


透花はそこへ手袋を置いた。白い布が棚の暗さの中で小さく沈み、それで少しだけ空白が埋まったように見えた。


埋まったはずなのに、胸の中は埋まらない。


窓口のベルが鳴ったのは、光がゆるく傾き始めたころだった。透花は書類から顔を上げ、反射的に来訪者の手元と顔を確認し、それから声を用意した。


水篠朔が立っていた。


一瞬、何も考えられなかった。


彼は何も持っていなかった。折れた番号札も、濡れた傘も、透明な袋に入れた何かも持っていなかった。薄いシャツの袖を少しだけまくり、肩にはいつものバッグをかけていた。髪は風で乱れていたが、急いで来たというよりもどこか迷いながら歩いてきた人のように見えた。


透花は立ち上がり、椅子が床をかすかに鳴らした。


「こんにちは。ご用件をお伺いします」


その言葉を口にした瞬間、胸の内側が少し痛んだ。ご用件。ここへ来るための理由。それがなければ、窓口での会話は始まらない。


朔はすぐに答えなかった。窓口の向こうで少しだけ視線を落とし、アクリル板には彼の顔と透花の胸元の名札が薄く重なって映っていた。


「忘れ物では、ないんです」


透花は手元の受付票を見た。そこにはまだ何も書かれておらず、空欄だけがあった。


「では、どうされましたか?」


仕事の声は出たが、少し硬かった。朔は、その硬さに気づいたかのように困ったときの笑い方をした。口元だけが先に動き、目元は少し遅れて笑った。


「近くまで来たので」


それは理由として弱すぎた。窓口に来るにはあまりにも弱い理由だった。透花は返す言葉を探しながら受付台の端を指で押さえた。


「保管品のお問い合わせでしょうか?」


「いえ」


「拾得物の確認ですか?」


「それも、違います」


違う。彼はそう言うたびに、来る理由をひとつずつ消していく。理由が消えるほど、そこに残るものが透花の胸を圧迫した。


「では」


そこまで言って、透花は続けられなかった。では、何のために? そんな風に聞くのは窓口としては自然かもしれない。けれど、その問いかけの先にあるものを、自分が受け止められる気がしなかった。


朔は窓口の下に視線を向けた。書類を差し出す隙間、物が行き来する細い通路。そこを今日は何も通らない。


「すみません。変ですよね」


「いえ」


「変です」


彼は自分でそう言って小さく笑ったが、その笑いには重みがあった。いつものように冗談へ逃げるには、言葉が少し素っ気なかった。


透花は相手の顔ではなく手元を見た。動揺すると手元を見る癖は自分でも分かっていた。朔の指はバッグの肩紐を軽く握っていた。何かを失くしていない手、何かを持て余している手。


「今日は何も失くしていないんですか?」


透花は言った。言った後、息が浅くなった。聞き方が少しだけ個人的だった。


朔はその言葉を受け取り、ゆっくりとうなずいた。


「はい、何も」


「それは、よかったです」


それは正しい返答だった。しかし、声の奥にわずかな空洞があった。朔はそこを聞いたのかもしれない。聞かれたくない場所ほど、彼は静かに気づく。


「蓮見さん」


彼が呼んだ。


透花の胸元で名前が音を持った。何度聞いても慣れない。むしろ呼ばれる前に置かれる小さな息まで覚えてしまった分、前よりも深く届く。


「はい」


「……」


朔は続けなかった。


呼びかけただけで言葉が止まり、透花は沈黙を聞いた。管理室の空調音、外の車の低い響き、アクリル板越しの彼の呼吸。それらの音の合間に、呼ばれなかった名前が浮かんでいた。


透花。


彼がそう呼ぼうとしたのかどうかは分からない。分からないのに、喉の奥が熱くなった。名字で呼ばれることにさえ揺れていたのに、今は呼ばれなかった名前のほうがずっとはっきりと胸に残る。


「何でしょうか?」


透花はようやくそう言った。声は少し遅れた。朔は目を伏せて短く息を吐いた。


「すみません。今のは、なしで」


なしにできるわけがなかった。呼ばれた名前よりも途中で止まった名前のほうが消えずに残ることもある。


「承れません」


透花は思わず言っていた。


朔が顔を上げ、透花自身も驚いた。「承れません」という言葉は業務の言い回しだったが、今の意味は明らかに違っていた。


「今のは業務ですか?」


朔の声が少しだけ柔らかくなった。


「……違います」


透花は答えた。自分の声が仕事用のトーンから外れていることを隠せなかった。


管理室の空気が静かに濃くなった。窓口にはいつものようにアクリル板が置かれている。薄い仕切り、触れない距離。しかし、何も渡していない今日のほうが今までより近い気がした。


朔はバッグの肩紐から手を離し、指先を少し落ち着かなさそうに動かしてから止めた。


「忘れ物がないと、ここに来る理由がないと思っていました」


「はい」


「でも、理由がないまま来たら、どうなってしまうのかと思って」


「どうなりましたか?」


透花が聞いた。聞いてしまった。自分の声が思っていたより低く、落ち着いていた。


朔は少しだけ困った顔をした。


「想像よりずっと困りました」


「私もです」


返事はほとんど同時に胸の中から出ていた。透花はすぐに視線を落とした。受付票の空欄が目に入る。品名、拾得場所、保管番号、持ち主名。そこには書くべきものが何もない。


朔はその空欄を見ているようだった。


「記録、できませんね」


「はい」


「何も失くしていないので」


「はい」


「でも、何かは置いていっている気がします」


その言葉に、透花は返事ができなかった。彼は自分でも何を言っているのか分かっていないようだった。だからこそ、言葉の輪郭が危うく、聞いているこちらまで慎重に息をしなければならなかった。


「置いていかれても、こちらで保管できるものには限りがあります」


透花はそう言うと、少しだけ逃げた。けれど、逃げ切れないことも分かっていた。


「そうですね」


朔はうなずき、それから窓口の向こうでほんの少しだけ体を引いた。近づきすぎたと思ったのかもしれない。透花は、その動きに胸が沈むのを感じた。


離れないで、と思ったわけではない。そう思ったと認めるにはまだ早すぎるが、彼が一歩分距離を置いたことを体が先に寂しがっていた。


「最近、忘れ物は」


透花は言いかけて、言葉を選び直した。


「減りましたか?」


「たぶん」


「たぶん、ですか?」


「失くしていないのか、気づいていないだけなのか、分からないときがあります」


朔は軽く笑ったが、そこには以前よりも少し疲れたような正直さがあった。


「それは困ります」


「はい。でも、ここに来る用事がなくなるのも少し困ります」


透花の指が受付票の端を押さえた。何も書かれていない紙なのに、そこだけ少し歪んだ。


「水篠様」


彼の名字を呼ぶと、朔の目が静かにこちらへ戻った。名字だけの呼び方。仕事での呼び方。けれど、今はその呼び方にも逃げ場が少なかった。


「はい」


「用事がない方を窓口で長くお引き止めすることはできません」


「そうですよね」


「でも」


透花はそこで言葉を止めた。自分が何を言おうとしているのか分からなかった。言えば何かが変わる。言わなくても、すでに変わっている。


朔は続きを急がず、窓口の外でただ待っていた。その待ち方がかえって透花を苦しめた。急かされれば仕事の声で返せるのに、待たれると自分の中から言葉を探さなければならない。


「来てはいけないとは言えません」


透花は言った。


朔は、小さく息を止めたように見えた。


「それは、業務ですか?」


また聞く。少しだけ笑いを含めて、しかし答えを茶化すためではない。


透花は受付台の上で指を離した。


「分かりません」


その答えは弱かったが、今の透花にはそれ以上に正直な言葉がなかった。分からない。仕事なのか、配慮なのか、それとも自分が彼を拒みたくないだけなのか。


朔はその答えを乱暴に扱わなかった。いつものように受け取ったものを指先で確かめるように、黙っていた。


「分からないままのほうがいいこともあるんですかね」


「私は、分からないままだと落ち着きません」


「でしょうね」


「今、笑いましたか?」


「少し」


朔はそう言って、やっと少しだけ表情を緩めた。透花も、ほんのわずかに息が楽になった。会話が軽くなったわけではないが、重さを抱えたままでも立っていられる場所ができた気がした。


外の光は少しずつ黄みを帯びてきており、窓口のアクリル板に映る彼の肩は朝よりも近い色に見えた。何も失っていない人が何かを探すように立っている。


「今日は、本当に何もないんですね」


透花は言った。


「はい」


「傘も、定期入れも、イヤホンも、鍵も」


「全部あります」


「よかったです」


「蓮見さんがそう言うと思っていました」


「言います」


「それだけですか?」


透花はその問いにすぐには答えられなかった。それだけ。よかった。それは本当だった。彼が困っていないことに安心した。でも、それだけではないから苦しい。


「それだけにしたいです」


透花は言った。


朔の目が少しだけ変わった。痛みではなく、理解に近いものがそこにあった。


「僕もです」


その短い同意が胸に残った。彼もそれだけにしたい、忘れ物がないことを喜ぶだけにしたい、窓口の職員と来訪者の距離だけにしたい、と。


でも、できない。


言葉にしていないのに、そう聞こえた。


廊下の奥で誰かの足音が近づき、また別の方向へ去っていった。管理室には来ない。窓口の前だけが少し長い時間の中に取り残されている。


朔も透花も壁の時計を見なかった。時間を知ったところで、この沈黙の扱い方がわかるわけではない。


「長くいてすみません」


「いえ」


「帰ります」


「はい」


「帰ります」という言葉に、透花は前の鍵の日を思い出した。今日は帰れると言った彼。今日は最初から帰れるはずの彼。それなのに、「帰る」という言葉の端に少しだけ名残があった。


朔は窓口から離れかけ、もう一度こちらを見た。


「蓮見さん」


そこで止まった。


呼びかけは途中で切れた。今度は明らかだった。名字ではない何かへ移ろうとして、その直前で彼は止めた。


透花の胸が、静かに崩れた。


呼ばれていない。呼ばれていないのに、呼ばれたときよりも強く名前が自分の中で響いた。「蓮見さん」ではない。「蓮見さ」の先に置かれなかった音。透花という名が彼の口元で止まった気がした。


「すみません」


朔はすぐに言った。


透花は首を振ろうとして動けず、大丈夫ですと言えばいい、気にしないでくださいと言えばいい、窓口の人間として穏やかに終わらせる言葉はいくつも知っているのに、言葉が浮かばなかった。


でも、どれも今は遠かった。


「呼ばないんですか」


声が出た。


その言葉に透花自身が一番驚いた。管理室の空気が一瞬だけ止まり、朔の表情から笑いが消えた。


「呼んで、いいんですか?」


透花は答えられなかった。いいとは言えないし、だめとも言えない。どちらを選んでも、自分の中にあるものを認めることになる。


沈黙が落ちた。


アクリル板の向こうで朔が息を吸い、こちら側で透花が息を吸う。たったそれだけの音が管理室の中で大きく響いた。


「分かりません」


透花はやっと言った。今日はそればかりだと思った。「分かりません」。けれど、その言葉の中に逃げではなく、まだ形のない正直さがあることを彼はたぶん分かっていた。


朔はうなずいた。


「じゃあ、今日はやめます」


その言い方が透花をさらに揺さぶった。今日は、つまりいつか、と読み取ってしまう自分がいた。


「……はい」


返事は遅れたが、朔はその遅れを責めずにただ受け止めた。


「また」


そこまで言って、彼は少し笑った。何かを付け足そうか迷ったが、結局やめた。


「失礼します」


「お気を付けて」


いつもの言葉が今日ほど頼りなく聞こえたことはなかった。朔は静かに会釈して管理室を出て行った。扉が閉まる音は小さかったのに、透花の中では長く響いた。


窓口の前に、何も残っていない。


受付票は空欄のまま、拾得物も返却確認書も署名もない。彼が来た記録は、どこにも残らない。


それなのに、透花の中には今日のことが確かに残っている。彼が何も失くさずに来たこと、呼びかけて止めたこと、自分が「呼ばないんですか」と言ってしまったこと。


透花は椅子に座り直した。足元が少し頼りない。管理室の白い光が急に現実味を失って見えた。


受付票の空欄を見つめる。そこに書けるものがあるとしたら何だろう。品名:なし。拾得場所:窓口。持ち主:不明。 そんな馬鹿げたことを考えて、透花は小さく息を吐いた。


何も失くしていない人が来て、何かを置いていった。


それは記録できない。


夕方の色が窓の外で濃くなり、ビルの影が通りに落ち、遠くの車の音が少し低くなった。管理室には彼が帰った後の静けさがゆっくりと沈んでいった。


透花はそのあと、仕事を続けた。来訪者があって傘を返し、封筒を預かり、記録をした。声は戻っていたが、その奥にさっき呼ばれなかった名前が沈んでいた。


「蓮見さ」


たったそれだけ。途中で切れた音。それなのに、名字よりも近く、下の名前よりも危うい。呼ばれなかったからこそ、そこに想像の余地が残りすぎていた。


夜の気配が建物の中へ入り始めたころ、透花は窓口のベルを切る前に今日の記録を確認した。拾得物の追加、返却数、未処理の書類。どこにも水篠朔の来訪の記録はなかった。


来たのに、残らない。


そのことが今日のすべてを少しだけ夢のように感じさせたが、夢ではない。彼の声は耳に残り、アクリル板の向こうで止まった唇の動きまで目の奥に残っている。


透花は机を整え、番号札の箱を閉めた。棚の扉を確認し、保管品の位置を見直す。何度も繰り返してきた閉室の作業が、今日は少しだけ手になじまない。


管理室の明かりを一つ落とすと、窓口の周囲が暗く沈んだ。アクリル板に映る自分の顔が、昼間よりも知らない人のように見える。胸元の名札だけが白く浮かび上がっていた。


蓮見透花。


彼はそこまで呼ばなかった。呼ばなかったのに、その名は今までで一番近くまで来た。呼ばれないまま、唇の手前で止まった名前。その未完成の音が、透花の輪郭をゆっくり崩していた。


戸締まりのために扉へ向かう前、透花は一度だけ窓口の前に立ち、今日彼が立っていた場所を見た。そこにはもう誰もいない。床も壁もアクリル板も何も変わっていない。


変わったのは、自分のほうだけだった。


外へ出ると、建物の入口には夜の空気が薄く溜まっていた。通りの光はまだ強すぎず、路面の端にやわらかく伸びている。少し離れた場所で、車のドアが閉まる音がした。


透花は管理室の扉に鍵をかけた。金属が回る感触が手の中に伝わる。何かを閉じたはずなのに、胸の中では閉じられなかったものがまだ静かに開いていた。


今日は、彼は何も失くしていなかった。


それなのに透花は、自分の名前の一部をあの窓口に置いてきたような気がした。


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