スターチスの花海
おかしい。
治癒魔術が、反応しない。
魔力を流しても、何も返ってこない。
ポーションを口元へ含ませようとしても、
液体は、唇の隙間から零れ落ちるだけ。
呼吸が――
……止まっている?
いや、違う。
違う、はずだ。
「……時を、止める魔術……?」
頭が、ぐらりと揺れた。
あれ?
私、展開できたの?
いつ?
どれくらい?
周囲を見回すと、空気が妙に静かだった。
音が、ない。
揺れるはずのカーテンも、止まったまま。
「……時が、止まってる」
今のうちに――
「助けを、呼ばなきゃ……」
そうだ。
助けを。
「クオン……待ってて……!
すぐに、戻ってくるから……!」
声が、震える。
急がなきゃ。
止まった時が動き出して、
彼が苦しむ前に。
はやく。
はやく――
私は、シュタットへ向かって走った。
久しぶりに走ったせいか、足がもつれる。
思うように、前に進まない。
どうして。
急いでいるのに。
ふらつきながら、門へ辿り着き、
守衛に縋りつく。
「お願い……彼を……
私の、夫を……助けて……!」
息が切れ、言葉が途切れる。
事情を察した守衛が、
治癒魔術師と医療師へ急いで伝令を走らせた。
私は、再び走る。
早く。
早く、戻らなきゃ。
扉を、開け放つ。
止まったままの時間の中にいる彼のもとへ。
「……これは……」
医療師の声が、遠い。
「……」
治癒魔術師が、言葉を失う。
どうして、黙るの?
「あっ……時を……
時を、止めたままだった……」
そうだ。
動かさなきゃ。
でも――
どうやって?
「ま、待って……
時を動かす魔術陣が……どこかに……」
焦って視線を彷徨わせる。
「……彼は……」
その声が、耳に届いた瞬間。
「……天に、召されています」
違う。
「……と、時を動かせば……」
違う。
違う、違う。
彼は、眠っているだけ。
「……眠っているだけ、です……」
声が、自分のものじゃないみたいだった。
「時を止めたから……
呼吸が、止まってるだけで……」
「……あなたも、治癒魔術師なら……
分かりますよね……」
分からない。
分かりたくない。
周囲の声が、遠くで反響する。
別の世界の出来事みたいに。
彼は、そこにいる。
横たわって。
静かに。
少しすれば――
また目を開けて。
私に、
「愛してる」って言ってくれる。
よく分からないまま、
人の手が伸びてくる。
「……待って……!」
反射的に、声が出た。
「この魔術陣から動かすと……
彼の生命が……!」
……あれ?
床を見る。
魔術陣が、ない。
魔力の流れも、感じられない。
いつ、途絶えたの?
神官の声が、響く。
「……彼が、好きだった場所は?」
一瞬、息が詰まる。
「……スターチス……
スターチスの花が……咲き誇る……」
ふたりで過ごした、花海。
淡い紫に包まれた、あの場所。
彼は、スターチスの花海へと運ばれていく。
「……どうして……?」
理解が、追いつかない。
「天に召された魂が、
輪廻によって生まれ変わるように……」
魂?
生まれ変わる?
その新しい肉体で――
彼は、私を覚えているの?
どれくらい待てば、
私のもとへ、帰ってくるの?
季節が、巡る。
何十回も。
彼が座っていた席に、
紅茶を二つ、並べる。
彼が研究していた資料を、
一つずつ、私も読み解いていく。
彼が戻ってきた時、
一緒に未来へ帰るために。
スターチスの花は、
今日も、変わらず揺れている。
――あの約束を、忘れないまま。




