祈りと奇跡
奇跡は、滅多に起きない。
だからこそ、人はそれを奇跡と呼ぶ。
ありえないほど低い確率。
何百万分の一、何億分の一――
日常の中では決して巡り合わないはずの出来事。
彼が、ここにいること。
それ自体が、もう奇跡なのかもしれなかった。
彼が崩れ落ちてから、約一ヶ月。
どうにか、生命は維持できている。
それもすべて、彼が未来の知識を頼りに書き溜めてきた研究資料のおかげだった。
時を遅らせる魔術。
時の流れを歪め、伸ばし、縫い止める術式。
研究の副産物として生まれた魔術陣と魔石。
そこに、私の治癒魔術とポーションを重ねる。
――かろうじて。
本当に、かろうじて、という状態。
そして。
彼に何か起きるのが怖くて、私は傍を離れられない。
助けを呼びに行きたい。
でも、私がいない間に何かあったら――
その想像だけで、足がすくむ。
彼を連れて行く?
……無理だ。
魔術陣から外せば、生命が保たれない。
正直――詰んでいる。
だめ。
そんなふうに考えちゃだめ。
なにか。
なにか、必ず。
彼を助ける方法が、あるはず……。
ひゅ……ひゅっ……
浅く、掠れた呼吸音。
「……!」
心臓が跳ねる。
「……大丈夫!? ねえ、聞こえる!?」
彼の瞼が、わずかに動いた。
ああ――
神様。
意識が、戻ってきた。
「あっ……水……水を……」
声が、震える。
手も、震える。
水差しを持つ指が、言うことを聞かない。
それでも、口元へ運び、少しずつ、少しずつ流し込む。
「…ぃ…ちの……水……生き……返る……」
「ばか……ばかばかばか……!」
堰を切ったように言葉が溢れる。
「死んじゃうかと思ったんだから……!
本当に……本当に……!」
あなたが、もう二度と目を覚まさないんじゃないかって――
掠れた声に応えながら、私は、この一ヶ月に起きたことを、途切れ途切れに伝えた。
治癒魔術を切らさなかったこと。
ポーションを、少しずつ、少しずつ飲ませ続けたこと。
水を含ませ、流動食を口に運び――
ただひたすら、
生命を、繋ぎ止め続けたこと。
「……ヤバいな、それは」
「本当にありえないから!
もう、二度と……二度としないで!」
怒りが湧く。
でも、それ以上に、彼が目を覚ましたことが嬉しくて。
声が、震えてしまう。
「夢の中で……
君を、ずっと抱いてたから……
目、覚ましたくなかったのかもな……」
精一杯の冗談だって、わかる。
……こんな時まで。
「……もう……!
それなら、現実で抱きなさい……!」
力の入らない拳で、彼の胸を叩く。
ばし、ばし、と。
「……痛い……」
小さな声。
「……愛してる」
「……本当に、心から……」
言葉が、続く。
「……ありがとう」
「……君に出逢えた奇跡を……
神様に、感謝してる……」
やめて。
そんな言い方。
まるで、遺言みたいじゃない。
胸が、締め付けられる。
顔を上げると、彼が手を伸ばしてきた。
震える指先。
私は、そっと頬を寄せる。
口付けを、重ねる。
――でも。
次の瞬間。
「……眠い……」
手が落ち、身体が、ベッドへ崩れる。
「……っ!」
即座に、治癒魔術を展開する。
お願い。
神様。
やめて。
――私から、彼を連れて行かないで。




