甘くて幸せな日常
彼と出逢ってから、世界はずっと楽しくて、やわらかな光を帯びていた。
朝は並んで目を覚まし、昼はそれぞれの役割をこなし、夜は同じ灯りの下へ帰る。
変わらない毎日なのに、ひとつも色褪せない。
彼は毎日、変わらずに愛を囁き、抱き締めてくれた。
触れる仕草も、声の調子も、私を大切に扱うことを忘れない。
――幸せだった。
それでも、その穏やかな日々の裏で、彼の研究だけは、静かに続いていた。
なぜ、やめないのだろう。
私と一緒に、未来へ帰るため。
でも、この時間を、この世界を、共に生きていくことは……ダメなの?
問いは、胸の奥で膨らみ続けていた。
ある夜。
眠る前、灯りを落とした部屋で、私はそっと口を開いた。
「……どうしても、帰らなきゃダメ?」
一瞬の沈黙。
「……やめてしまったら……君が、離れていってしまう気がして……」
思わず、目を瞬かせる。
「へ? そんなわけないよ?」
「ああ。……だけど……やめるわけには……いかない」
煮え切らない答え。
その横顔を見つめていると、彼はふっと笑って、私を引き寄せた。
「大丈夫だ。俺が死ぬまで、君から離れることはない。……愛してる」
「わ、私だって……離す気はないよ!」
腕の中で笑い合う。
「ははは。……トワに似た子どもが、欲しいな」
「もう! そればかりは授かり物だからね?」
……授かり物。
短命種と長命種の婚姻で、子どもが生まれる可能性は、極端に低い。
それでも。
彼に似た子どもが欲しい。
私だって、欲しい。
朝になれば家事をして、シュタットへ花とドライフードを納品する。
その帰りに二人で買い物をして、本屋へ寄って。
拠点――いいえ。
いつの間にか、私たちの家と呼ぶようになった場所へ帰る。
そんな生活が、三年。
私にとっては、一瞬のような三年だった。
「……できた」
静かな声。
「……完成したんだね」
なぜか、心のどこかで、完成してほしくなかったもの。
紅茶をテーブルに置きながら、いつもの笑顔で、完成した魔術陣を見つめる。
「……ああ。これで、記憶が鮮明になれば……
あの魔術陣が、見えるはずだ」
古代遺跡ダンジョンの祭壇。
彼が踏み抜いたという、幾重にも重なって展開されていた魔術陣。
「すごいね。頑張ったね。おめでとう」
称賛の言葉。
疑いも、不安も、そこにはない。
これは、彼が積み重ねてきた研究だった。
「万が一、失敗した場合……
俺が、俺じゃなくなる可能性がある」
「……えっ!? それはダメでしょ!」
「……成功したら、トワとの初夜も、
鮮明に思い出せるぞ?」
あまりに真剣な顔と声音。
外されない視線。
「バッカだー!!!
変態がいる!!!」
魔術の無駄遣いにもほどがある!
「よし。……やるか」
覚悟を決めたように、彼が動き出す。
床に展開される魔術陣。
幾重にも重なり、淡く煌めく光の粒子が、静かに空間を満たしていく。
彼は、もう一度だけ、私を見た。
それから、迷いを断ち切るように、研究者としての思考へ切り替え、
魔術陣へと意識を沈めていった。
「……っ」
膝をつく。
「……紙と……ペンを……頼む……」
言葉が途切れ途切れになる。
慌てて、道具を差し出す。
彼は震える手で、ペンを走らせていく。
何枚も。何枚も。
汗が落ち、手が震えている。
それでも、止まらない。
「……はぁ……はぁ……」
魔術陣が、ひとつ、またひとつ、解除されていく。
――次の瞬間。
彼が、崩れ落ちた。
「……っ!」
鼻血。
口元にも血。身体が、痙攣している。
「ダメ! ダメダメダメ! 待って!!」
必死に治癒魔術を展開する。
……でも、馴染まない。
まるで、ザルに水を注ぐみたいに、魔力がすり抜けていく。
「どうして……!? 魔力が、抜けていくの……!?」
ダメ。
このままじゃ、生命が危ない。
腰のポーチからポーションを取り出し、彼の口へ流し込む。
ベッドまで引きずって運ぶ。
どうしたらいい。
離れるわけにはいかない。
ここに人が訪ねてくることなんて、ない。
――私が。
私が、彼の命を握っている。
「大丈夫……!
あなたの生命は……私が、必ず……必ず、守るから……!」
マジックバッグから保存食とポーションを取り出し、私も飲み下す。
「……目、開けて……お願い……」
手をぎゅっと握りしめたまま、
私は治癒魔術を展開し続けた。
彼の呼吸が、途切れないように。
この幸せな日常が、壊れないように。




