第3回
こんな、こんな、こんな――!!
現実世界に存在するということすら信じられないと、麻痺していた頭が回復し始めると同時に激しい拒絶反応が湧き上がる。
「? 自室だから」
入り口で1人苦悩している紫蘭の姿に、軽く返してベッドから下りると、本からズボンに移っていた埃をぱんぱんと払う。
「で、何の用?」
が。
「……おっと」
靴先が床の服に引っかかって、その上に置かれていたコップがかたんと横に倒れた。
「あああああああっっ」
こぼれ出た液体にあせり、悲鳴を上げてかけ寄って、急ぎ回りの物を避けたのは、部屋の持ち主にあらず、紫蘭である。
じわじわ広がってゆくそれに、まるで世界滅亡の危機でも起きているような顔をして目をむくと、あわてて身振り手振りで拭くための布を要求した紫蘭は、ようやく意味を解したランスの差し出してきたそれで急ぎ吸い取ったのだが。……それが、ついさっき感応式で自分と感応した際にランスの着ていた盛装衣であると知った直後。紫蘭は見るも哀れなほど脱力して、へなへなとその場に突っ伏してしまった。
人の天敵たる魅魎を断つことのできる生きた剣・魔断との感応式。生涯生死をともにする、まさに己の半身ともいう存在となる魔断と感応することによって、自分はたしかに退魔師になるのだと実感し、感じ入った候補生たちの大半が、その記念として一生大切にしようと決意する服だというのに、この人は……。
「いいんだよ、べつに。どーせ今日で用ナシなんだから」
紫蘭が何にショックを受けたのか知ってそう言うと、椅子に腰かける。
「用なしって、あなた……」
そういう問題じゃないでしょう、と非難しようとする。だが顔を上げた途端、顔のすぐそばをふよふよ漂う綿ぼこりと、部屋の有り様にあらためてよろめき、言葉を失ったのち。
おもむろに、紫蘭はくしゃくしゃになって床に放り出されている上着へと手を伸ばした。
ひどい。いくらなんでもこれはあまりにひどすぎる。満足に見えない床の、一体どこを踏んで歩くのか。本棚は何のためにある? 戸棚は? 机は? ゴミ箱は?
床や棚に引っかけられている服を全部拾って、とりあえず1箇所に集めた。
「……週に1度の掃除が、義務づけられているはずですが……」
この部屋は幻聖宮より『借り受けている』部屋なのだ。室料が取られないかわりに週に1度の掃除と、退出時に自費で元通りにしていくことが義務づけられている。
「してるよ」
返事は簡単に、素っ気なく返ってきた。
とてもそうは見えないが……では1週間もかけずにここまで汚せるのかと滅入ってしまう。
「図書室のまで……ちゃんと戻してください。期限はとっくに切れているんでしょう?」
拾い上げ、本棚へ片そうとしていた本の背表紙に図書印を見つけて肩越しに振り返る。対し、ランスは再び膝上で開いていた本へ目を落としたまま、その片手間といった様子で答えた。
「んー? 期限ってあったのか?」
「って、まさかっ」
無断借用っっ?
ばっと表紙をめくって最後の貸出印を確かめたあと、ゆるゆると閉じる。
どおりで図書室で会った覚えがないと思ったら、一体いつの間に……。
「そういやおまえ、司書長だっけ。ちょうどいいな。持ってけよ、もういいから」
がっくり落とした肩に、ずん、とさらにおもしのような言葉がのる。
「……操主ううぅう……」
その、まるで地を這うように上がった恨みがましい声にふと上げた目をかち合わせると、ため息を吐き出してランスは言った。
「そういやおまえ何しに来たんだ? 部屋片付けにか?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど……でも、これだとどうも……おちつかないんです」
おそらく彼自身は意識していないのだろうが、まるでにらむような視線の強さに、つい「すみません」とつけ加えた。
どうして謝らないといけないのか、今ひとつ分からなかったが、でも一応ここはランスの部屋だし、とあやふやなまま納得してしまう。
そりゃ、彼はいいかもしれないけれど、でも、やっぱりこれはちょっと、ひどいんじゃないかと……。
並外れて神経質・潔癖性、というわけではないつもりだが、さすがにこの状態は我慢できない。自分が座る所もないし。(埃の積もった寝台に腰を下ろしたくはない)
手早くすませなくてはランスに悪い、ある程度で切りやめないと、とは思いながらも、部屋が汚れたままでは出立早々要らぬ出費をすることになると思うと、つい、掃除に力が入ってしまう。
もしかすると自分はケチなのかもしれない。そんなことを考えながら黙々と棚を整理する、紫蘭の手元をふと、影が横切った。
何気に目で追ってそちらを向くと、ランスがベランダへ向かうところだった。
「どうかしましたか? あの、埃、たちますか?」
「べつに。その様子だとおまえ、ここにいたいんだろ? 俺は行くから。
じゃそーいうことで」
「えっ?」
でも、あの、そっちは――。
ベランダ。しかもここは3階で。
しかしその状況をものともせず、ランスは腰まである手擦りに膝を乗り上げると、慣れた手つきで少し離れた木へ飛び移った。
「なっ! そ、そそそ……」
ザザザという葉擦れの音に、血も凍る思いであわてて手擦りに飛びつき下をのぞき込む。だがすでにランスの姿はそこになく、どこからも見つけることはできなかったのだが、それでも紫蘭はしばらくの間目を放すことも、そこから離れることもできかった。




