第7話 仔猫、誘拐事件
「じゃあ、行ってくるよ」
扉の前で、リアン王子は仔猫に優しく声をかけた。
「にゃん……」
悲しげな鳴き声が喉からこぼれる。
すると、彼はすぐに抱き上げ、目線を合わせた。
「今日はどうしても外せない公務なんだ」
「……にゃ」
愛する人の前で駄々をこねるわけにはいかない。
――私は従順な猫でいるのです!
「じゃあね」
その声に顔を上げた瞬間、王子の唇がそっと額に触れた。
「……にゃん!?」
(またキス!?朝から刺激が強すぎます!!)
心臓が破裂しそうになりながらも、私は王子を見送る。扉が閉まって足音が消えるまで、じっとそこに立ち続けていた。
「にゃん……」
王子が出て行った後の部屋は、やけに広く感じる。
(ご飯は執事が運んでくれるし、寝ようと思えばいくらでも眠れる……けど)
前世のように、リアン王子のために料理を作ることもできないしーー。
(猫の生活は、思っていた以上に退屈ね)
「にゃあぁぁ……」
(ああ、早く帰ってきませんか……)
ふかふかのクッションに丸まって、王子の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、私はうとうとと目を閉じた。
――その時だった。
きしっと床板が鳴る。
仔猫の耳がぴくりと動き、瞼がわずかに開いた。
(……今の音は?)
王子の部屋は厳重に守られている。
扉の前には、王兵が三人も並んでおり、そう簡単に誰かが入って来られるはずがない。
だが、その足音は扉の方から近づいてきている。
すると、いきなり仔猫の頭上で声がした。
「……お前を調べさせてもらう」
恐ろしく低い声。
次の瞬間、視界が布で覆われ、仔猫は小さな悲鳴をあげる間もなく持ち上げられていた。
「にゃああっ!」
(だ、誰!?放して!!)
必死に足を突っぱねて、爪を立てる。
だが、相手はびくともしない。
大きな腕に首根っこを押さえられ、息が詰まっていく。
そして、朦朧としていた仔猫の意識は途絶えた。
◇
目を覚ますと、そこは暗い部屋だった。
湿った空気の中、蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。
「にゃ……」
(やっぱり……この男……!しつこすぎます!)
それは忘れもしない。
私を断頭台へ追いやった男。
処刑人――。
ヴァルト・アイゼンベルク卿。
目の前に立つヴァルトは、じっと私を見下ろしていた。その目は、獲物を逃さない狩人のように鋭い。
対する仔猫は両手両足を縄に縛られ、身動きを取ることすらできなかった。
重たい沈黙が続き、狭い部屋には滴り落ちる水滴の音だけが響いている。
「まさか……寡黙な王子が猫を飼い始めるとはな」
低い声が響いた。
「にゃっ……」
(そ、それは偶然です!たまたま庭で拾われただけで!)
「ここは、俺だけが使用を許された尋問部屋…」
ヴァルトの瞳が、仔猫のもふもふの毛を見つめる。
「お前のことを徹底的に調べあげて、リアン様を危機から救う」
「にゃ…」
(そんな。私が、危ない存在かのように…!)
すると、彼の様子が少しおかしくなる。
背中を丸めると、狂気に満ちた微笑みを浮かべ、そっと呟いた。
「なぜだ。なぜ、俺に向かない……」
唐突に洩れた内なる心。
その声は憎しみよりも、どこか歪んだ悲しみが混ざっていた。
「これだけ、リアン様に尽くしているのに……」
そして、バンッと机に拳を叩きつける。
この男もリアン王子に尽くしてきたのね。
盲目的に、まるで狂気のように。
(……なんだか、前世の私みたい)
だが、ヴァルトはすぐにいつもの冷酷な表情に戻った。そして、荒れた髪型を直して告げる。
「俺は密かに彼を支える。邪魔者はすべて、私が"消す"ーー」
ヴァルトの声は低く、冷たい。
「あの悪女リリアナ・ラグドールの時と同じようにな」
「にゃあっ!」
(やっぱり、私を恨んでるじゃない!)
心臓が跳ねる。必死に縄を引っ掻くが、解けない。
ヴァルトの手が仔猫のもふもふの毛並みに触れ、全身が強張っていく。
「やはり、魔法の匂いがする……」
その手が触れるだけで、背筋をぞわりと走る寒気が仔猫に走る。
彼が目を閉じると、周囲に存在する魔力が反応する。だが、ヴァルトの反応は思いがけないものだった、
「…………強力すぎる」
彼の額には、汗がにじんでいる。
「……にゃ」
(それは、私にかかった魔法のことでしょうか…)
「…俺には、この魔法を分析することができない」
その一言に胸をなで下ろす。
(よ、よかった……!私の正体がばれなくて……)
だが、次に続く言葉に仔猫は絶句した――。
「……殺そう」
静かに告げた言葉に、息が止まる。
「王子には、別の猫を与えれば済む話だ」
「にゃあああっ!」
(そんなの絶対だめ!!)
仔猫は必死に暴れるが、大きな手は離れない。
その時、ヴァルトの目が細まり、口角がゆっくりと上がった。
「……ほう」
ぞくりと背筋が冷える。
「お前……私の言葉が分かっているみたいだな」
「にゃ、にゃっ……!」
(ま、まずいのです……!)
「猫のくせに怯えた目をしているな。私はこれまで何人もの人間を処刑してきた」
「……お前がしているその目は、死を恐れる目だ」
低い声に、背中が凍る。
「言葉を理解しない猫が、そんな目をするはずがない」
ガッとと頭を掴まれ、強制的に顔を上げさせられる。
「ほら、なんとか言ってみろ」
「……にゃ……」
(落ち着け私……ただの猫のふり……!)
必死で鳴き声を絞り出す。
だが、ヴァルトの瞳は、ますます狂気を増していった。
蝋燭の炎が揺れて、壁に映る影が大きく伸びる。
――まさに、絶体絶命です。
このままでは、本当に彼に処刑されてしまう。
「……に…ゃ…」
(リアン王子……助けて……)




