∞日目
それは、妻が退院した明くる日のこと。
「アナタぁー! 忘れ物ー‼」
仕事へ行こうと靴を履いていると、ごく一部以外すっかり綺麗になった部屋から、パジャマ姿の妻が俺を呼ぶ。目を擦ってすごく眠たそうだが、具合が悪いからではない。退院早々、入院中は出来なかったからと、夜遅くまでゲームをしていたからである。
「忘れ物?」
俺は眉をしかめながらも、再確認する。
少し高めのクリーニングに出したスーツのポケットには、携帯や財布、ハンカチはちゃんと入っている。ネクタイもきちんと締めたし、ビジネス鞄に必要書類が入っていることも確認した。
忘れ物はない――それでも、妻の得意顔から想像するのだとしたら、
「ま、まさか弁当を作ってくれたとか⁉」
「んな、まさか!」
俺の淡い期待はあっさり打ち砕かれるものの、妻の笑顔が曇ることはなかった。
「チュー!」
「…………」
俺はつま先を鳴らし、「じゃあ」と妻に背を向ける。だけど、妻は諦めない。
「チュー!」
俺は小指を出す。その指はしっかりと握りながらも、
「行ってきますのチュー‼」
やっぱり、妻は諦めない。
少しだけ振り返ると、妻はタコみたいに一生懸命に唇を尖らせていて、
「……バカだなぁ」
「チューっ‼」
「ネズミかよ」
俺は、両手で妻の肩を掴み、ぐっと引き寄せた。
そして、唇が触れようとする瞬間――――
「それじゃあ、行ってきます」
その距離、およそ三センチ。寸止めされた妻の顔が、珍しく赤く染まっていた。
俺はしてやったり気分で、玄関を出る。
俺の背中には「ばかああああああああ!」と叫ぶ妻の声が投げかけられ、妻の悔しがる顔をひと目見ようと、少しだけ振り返ろうとした時だった。
「そんないじわるだと、またティッシュのドレスで、チュー迫っちゃうんだから!」
「――えっ⁉」
慌てて振り向くと、今度は妻がしてやったり顔で「行ってらっしゃい」と手を振っていた。
◆FIN◆