第三十九話 隠れ家の日々
今から約一千年前、『ジーネボリス帝国』の前身、『魔法帝国エル・ゲネア』の都であったここ『ジーネロン』は、かつて百万人を超える人口を有する巨大都市であった。
『サドラス湖』のほぼ中央に浮かぶ『ニフレイム島』に築かれたこの街は、周囲を高く分厚い城壁で囲んだ鉄壁の城塞都市でもあった。
しかし現在、この街の人口は当時の数分の一、約十五万人と見做されている。
世界的に人類勢力の衰退が起こった結果だが、今のレイドリオン大陸では、人口数千から一万程度の街が一般的であり、帝都ジーネロンは今でも大陸有数の大都市とされていた。
それ故だろうか。
所々壊れ、修復されないままの城壁。再開発も行われず、廃墟のまま放置されている区域。そのような場所が、街中の各所に見られる。
それら『廃棄地区』には、街の人口にも数えられていない不法住民が、多数暮らしていると言われていた。
豊かな大国の光と影。
そうした場所の片隅に、逃亡者達は隠れ潜む。
「……どうしても、そうしなければいけませんの?」
粗末なテーブルに着き、丸椅子に座ったエリーエルが、憮然とした顔で抗議する。
ここは帝都に散在する、廃棄地区の一つ。
そのさらに片隅に用意された、セディル達四人が潜伏している『隠れ家』であった。
「少なくとも、そうしないと、外には絶対に出られませんよ。今、帝都中がクレイム家の話題で持ち切りなんですから」
対面に座るセディルは、何とか彼女を説得しようとしていた。
二人は今、共に同じ姿に化けている。
粗末なシャツやズボンを着て、襤褸靴を履き、大きな帽子を被っているのだ。それは街中でゴミ拾いや靴磨きなどの雑用をこなして小銭を稼ぐ、下層民の少年達の姿そのものだった。
セディルは汚した包帯を顔に巻き、長い黒髪も、手入れを放棄したようにボサボサに加工している。
皇帝親衛騎士隊が包囲したクレイム家の屋敷から、地下通路を通って脱出してから、二日。
彼らは、この隠れ家に潜みながら、情報収集を行っていた。
「お嬢様の似顔絵を持った兵士達が、街中をたくさん巡回しています。街の人達の話題も、今はそれ一色です。何の事か、判りますよね?」
そうセディルに説明され、露骨に嫌な顔をするエリーエル。
彼女とて、それはもう承知していた。
今、帝都のみならず、ジーネボリス帝国全土を揺るがしている大事件。
皇帝ミルファウスの殺害。
犯人は、皇帝の忠臣だった筈のクレイム伯爵オーネイル。
その伯爵も自害し、彼の二人の息子は捕らえられた。
しかし伯爵の愛娘にして、次期皇太子となる筈の皇子アレイファスの婚約者エリーエル・クレイムだけは、屋敷の地下通路を使って逃げ出した。
彼女の行方は、何処か。
クレイム伯爵は、何故皇帝を殺したのか。
ジーネボリス帝国は今、未曽有の混乱の中に叩き落されていたのだった。
「だから、お嬢様の変装は、完璧にして置かないと駄目なんです。服を変えたくらいじゃ、お嬢様の特徴を隠し切れていません」
エリーエルに変装の徹底を主張するセディルは、改めて彼女の顔を確認する。
粗末な服を着ていても、その黄金の髪や、真珠色の肌、整い過ぎた目鼻立ちは隠せていない。見る者が見れば、そのちぐはぐさに却って疑いを持つだろう。
彼女は、貧乏人を装うには、根本が高貴過ぎるのだ。
「大丈夫ですよ、たかが髪を黒く染めて、顔を【化粧】の魔法で汚くして……、あとはお嬢様は良い匂いがするから、それを誤魔化す為に身体に馬糞でも塗り付けて置けば、完璧です。それで、簡単にはバレなく成ります」
自信を持って、エリーエルに下層民への変装術を勧めるセディル。
そんな事を笑顔で勧めて来る少年に、彼女の形の良い細い眉がピクピクと動く。今までの彼女の人生の中でも、最大級の侮辱に相当するからだ。
しかしそれでも、エリーエルは屈辱を噛み殺し、家族への思いを胸に耐えていた。
彼女にはまだ、『希望』が残されていたからだ。
兄達が捕まったらしいが、それならば裁判が開かれる筈。その場で、彼らはクレイム家の潔白を、誇り高く宣言してくれるだろう。
父、オーネイル・クレイムは無実であり、真犯人は、第二皇子と共に毒薬の密造を行なっていたウォルドーズ伯爵。
それを告発出来る証拠の品も、彼女の手元にある。
それに、殺された皇帝も蘇生魔法の儀式を経て、今頃はもう、生き返っている筈なのだ。
どんな目に遭おうとも、全ては元に戻る。
悪は裁かれ、家の名誉は回復し、家族にもまた会える。
エリーエルは、そう信じていた。
だから彼女は、『希望』を失ってはいないのであった。
「判りましたわ。変装は、承知致しましょう。わたくしは、いずれ皇宮に行き、裁判で証言をしなければ成りません。それまで、敵に捕まる訳には行きませんから」
『絶望』しない限り、どんな辱めにも耐えられる。
彼女は悲壮な覚悟で、自らの身を汚す事を承諾した。
「そうですか、覚悟を決めてくれましたか! それじゃあ早速、馬糞を拾って来ないと……」
「それをやったら、殺しますわ」
とは言え、限度はある。
「……判りました、それは止めます」
かつて見た事が無い程に大きく目を見開き、ギラギラと輝く光を宿す蒼い瞳で威嚇して来る少女に、セディルも少し冷や汗を流して怯んだ。
別に、冗談や悪ふざけだけが理由で提案した訳ではなかったものの、セディルが求めた変装案の一部は、エリーエルの断固たる反対によって却下されたのであった。
「予想していたとはいえ、やはり敵は『情報操作』も始めているようだな」
ライガは、街中の到る所で囁かれる事件の噂話を耳にし、今自分達を追い込もうとしている相手の規模を測ろうとしていた。
水飲み場では主婦達が、酒場では労働者達が、街の住人ではない旅人の『エルフ』や『ドワーフ』、『獣人』達までもが、皇帝殺害事件について語り合っている。
その内容はどれも同じで、帝国政府から詳しい説明があった訳でも無いのに、妙に統一されている。
「街に噂を流し、クレイム伯爵が犯人だと既成事実化したがっているのか……」
だとしたら、敵はある程度纏まった数の手駒を有している事に成る。
それも裏の仕事に使える人材を中心にして、十分な人数を確保しているのだろう。
その推測が正しければ、今はまだ積極的に動くべきでは無い時。エリーエルの所在だけは、何としても秘匿しなければ成らないからだ。
ライガは、待ち合わせの場所に移動した。
今の彼は、身長二メートルもある目立つ大男の姿を、『忍者系忍法』の第九レベル忍法【肉体変化】を発動して、平凡な顔立ちで目立たない中肉中背の男に変えていた。
何処にでもいる、若い肉体労働者。
誰の注意も引かずに、人気の無い目的地にやって来る事が出来た。
「おおっ、待っていたでやんすよ、アニキ」
そこにいたのは、白い髪にどことなく鼠っぽい特徴を持った、小柄な獣人の男だった。
彼の『現在の名前』は、ウッドチップという。
ライガとは若い頃に知り合い、それ以後長らく彼の舎弟をしていた。
今では冒険者を引退して、この街で『何でも買取り屋』を営んでいるが、同時にいくつかの裏社会に情報ルートを持ち、それらとのコネも確保している胡散臭い男だった。
「へっへっへっ、相変わらず、お見事な変身でやんすね、アニキ。昔の合図が無かったら、気付かなかったでやんすよ」
姿形を変えているライガに彼が気付いたのは、何気無い仕草の中に隠された、兄貴分の合図を読み取ったからだった。
「世辞はいらん。それより、お前が集めた情報を聞かせて貰おうか」
ライガ達は、エリーエルの護衛を務めるに当たって、彼に隠れ家の用意と情報収集を頼んでいたのだ。
「へい、アニキ。で、何をお知りになりたいでやんすか?」
「全部だ」
「まあ、そうでやんすよね」
ウッドチップは当然だと言うように頷き、集めて来た情報をライガに話し出した。
「街での噂通り、皇帝が死に、アニキのところのクレイム伯爵も死んだってのは、事実のようでやんす。あと、皇帝の侍医を務めていたラミレスっていう医者も死んでいるでやんす。で、その皇帝と医者を殺したのが、クレイム伯爵。伯爵自身も、その後自害したって事になっているでやんすよ」
それは、皇帝親衛騎士隊が言った事と同じ。
やはり、この一件の絵図を描いた者は、そういうストーリーでこの事件を収束させようとしているのだ、とライガは睨んだ。
「皇帝の蘇生は、どうなっている? もう行われたのか?」
問題は、その次。
殺された皇帝の蘇生問題。
たとえ殺害されたとしても、皇帝程の重要人物ならば、必ず蘇生魔法による生き返り措置が成される筈だった。
皇帝が生き返りさえすれば、この事件は、別の意味で収束するだろう。
「へい、寺院から皇宮に大司教以下、多数の高僧が集められて、目玉が飛び出るような高価な魔術素材を触媒にした集団魔術で蘇生を試みたようでやすが……、失敗に終わったみたいでやんす」
魔術の効果を拡大、強化、確実化する手段は、いくつか知られている。
それらを行使し、儀式として行えば、魔法の成功確率はある程度上昇する。
しかし、それでも蘇生術は、必ず成功すると保証されている御業では無いのだった。
「【奇跡顕現】も、行われなかったのか?」
「大司教はやろうとしたらしいですけど、周囲が皆で止めたらしいでやんす」
僧侶系魔法の最高位、第十レベル魔法【奇跡顕現】。
術者自らの命と引き換えに、奇跡的な効果を呼び起こす自己犠牲的な魔法だが、それを使えば、ほぼ確実に対象を生き返らせる事も可能な筈だった。
だが、それを使える大司教自身も国の重要人物だ。
皇帝が死んだ上に、大司教にも死なれたら、帝国を襲う混乱に拍車が掛かってしまう。
「……それだけの用意をしても、蘇生に失敗したという事は、殺人犯は蘇生に対抗する為の措置を、死体に施していたな?」
「へい、その通りでやんすよ、アニキ」
ウッドチップは、ライガの推測を肯定した。
殺された皇帝達の死体には、蘇生出来ない様に処置が成されていたのだ。
「使われたのは、『堕天使の黒血』か?」
「そこまでお気付きでしたか、アニキ。そうでやんす、皇帝達を殺した刃物には、あの毒がどっぷりと塗られていたそうでやんす。それに自害した事にされたクレイム伯爵が飲んだ毒も、それだったようでやんすよ」
声を潜めて事件の情報を語る、ウッドチップ。
決定的な事実を聞き、ライガはその鋭い目を静かに閉じた。
(あの毒が使われたのならば、皇帝とクレイム伯爵の蘇生は不可能だろう。二人の死は確定し、最早覆らない。伯爵に擦り付けられた大逆の罪も、同様か……)
全ては敵の思惑通り。
そいつらは、皇帝達の殺害にその毒を用いる事で、証言者達の蘇生を阻止し、同時にその毒の存在を理由にして、エリーエルも容疑者の一人に仕立て上げたのだ。
(希望は既に、潰えていたか……)
オーネイル・クレイム伯は、死んだ。それも、皇帝殺しの罪を押し付けられて。
そして当主の死と国家への反逆の罪は、クレイム家の一族そのものの終わりも意味している。死んだ伯爵だけでなく、その息子達、親類縁者、一族郎党が、厳しい処分の対象に成るだろう。
その事実を受け入れ、忍者の男は、次の事態に備えなければ成らなかった。
「ウッドチップ、帝都からの脱出手段を用意出来るか? 出来れば、水上での移動が良いだろう」
この街は、湖上の島に築かれた城塞都市。
脱出するルートは、島から対岸まで掛かる大橋を渡るか、湖を船で渡るかしか無い。
「へい、密航ルートなら、いくつか伝手があるでやんす。ご用意しときやすよ、アニキ」
既に、それを予想していたのだろう。
ウッドチップは、脱出の手筈を整える事をライガに約束した。
「アニキの十五年ぶりの仕事は、とんでもない厄介事に成ったでやんすね」
「面倒を掛けるかも知れんぞ?」
「へっへっへっ、面白くなって来たでやんすよ」
かつて彼と共に、何度となく厄介事を切り抜けて来た男は、不敵に笑う。
全てを失う事に成るだろう、クレイム家の一族。
だからこそ、『最後の希望』だけは護らなければ成らないのだった。
『廃棄地区』には、人が住まなくなった石造りの建物が、無数に残されている。
それらは壁が崩れたり、屋根が落ちたりしたものもあるが、中には、まともな形を保っている建物も数多くある。
そうした二階建て、三階建てのたくさんの建物を修繕し、改装も施して住んでいる『不法住民』達も、この場所には暮らしていた。
そんなよくある廃墟の一つ。
そこに今、新参者の住人が紛れ込んでいた。
「こんな感じで、良いんじゃないですか?」
セディルは、自分の手掛けた『作品』に満足し、ニンマリとした笑顔で頷いた。
彼の正面、椅子に座っているのは、男の子に変装したエリーエル。
その変装をより完璧なものにする為に、彼は色々と工夫を凝らし、アイデアを積み上げてみたのだった。
「どうですか、アンナさん。僕としては、良い感じにお風呂にも入れない、卑しい貧乏人風に見える雰囲気が出せたと思うんですけどっ!」
壊れず残っていた竈で料理を作っていたアンナを呼び、仕上がり具合の感想を求めるセディル。
「セ、セディル君……、あ、あのね、私も変装は必要だと思うけれど、やり過ぎるのは……」
そう言い辛そうな事を言って、言葉に詰まるアンナ。
大事な黄金造りの宝石細工を扱う様に、毎日エリーエルの髪や肌の手入れをして来た彼女の目には、この状態は見るも無残な有様に映った。
いつも綺麗な縦ロールにセットされているエリーエルの黄金色の髪は、染料で真っ黒に染められ、偽装の為に竈から取って来た灰を撒かれていた。
その真珠の如き白い肌には、一般魔法の第三レベル魔法【化粧】による、幻影の汚れが付けられている。
顔は垢塗れに見えるよう黒っぽくし、容姿に目が行かない様に、頬っぺたに目立つ青痣も作って置く。
手は泥だらけにし、服にも灰を撒いて埃っぽさを演出する。
「お風呂には入れませんけど、魔法で身体は綺麗にしているから、衛生面では問題ありませんね」
隠れ家には、お風呂が無い。
その為彼らは、一般魔法の【洗浄】で身体の汚れを落としている。
しかし【洗浄】の魔法では、汚れは取れるし清潔には成るものの、お風呂に入って身体を洗った時のような、爽快なサッパリ感は得られない。
「うん、これぞ正に『灰被り』。これなら、お嬢様だとは、そう簡単には気付かれませんよ」
良い仕事が出来た、と満足げに頷くセディルの前で、エリーエルは彫像のように固まっている。
或いは、今にも動き出し、敵を粉砕しようとする『ゴーレム』の様に、その身を小刻みに震わせている、だ。
「……平民、この変装ならば、外に出てもわたくしだとは気付かれませんのね?」
静かな、それでいて感情を殺した淡々とした声で、エリーエルが訊ねる。
「はい、多分大丈夫だと思いますよ。あ、でも、外に出ちゃ駄目ですよ。さっきから言っている通り、お嬢様も、容疑者として手配されているんですから」
今、街中の兵士や衛視が彼女を探している。
そこへノコノコと出て行くのは、罠に自ら掛かりに行く兎のようなものだ。
「街に出て行けないのなら、わたくしは何故、この様な姿に成ったのかしら?」
「慎重を期す為ですよ。用心は大切です」
半分の本音を全部であるかのように、セディルは真顔で答えた。
実際、この地区には他の住人も暮らしている。どこから見られるか判らない以上、変装にも手は抜けない。
「……わたくしは、捕まる訳には行きませんわ……。裁判で証拠を提出し、敵を撃ち滅ぼすまでは……」
身を汚す屈辱に耐えるエリーエルは、その恨み辛みを敵にぶつける様に、暗い面差しでブツブツと呟く。
怒りを向ける対象が存在しなければ、精神の均衡が保てないようだ。
(まあ、理不尽な怒りを僕に向けられても、困るしね。判り易い敵がいる方が、お嬢様にとってはマシなのかな?)
自分の事は全て棚に上げ、セディルはまだ見ぬ彼女の敵に、全ての責任を押し付けた。
エリーエルには敵がいて、それを打ち倒す彼女にとっての英雄達も必ず蘇る。
そう固く信じる彼女は、希望を胸に、如何なる理不尽にも耐えてみせると、歯を食い縛るのであった。
その希望が既に失われている事を、彼女はまだ知らない。




