第二十一話 伯爵からの呼び出し
月日は、知らずうちに流れて行く。
セディルが最後の忍者ライガと出会い、彼に弟子入りしてから、いつの間にか七年の歳月が経過していた。
ジーネボリス帝国の貴族クレイム伯爵の領地にある、森の中の館には、年に一度やって来る伯爵一家と定期的に清掃や整備に来る使用人達以外には、誰もやっては来ない。
この場所に常時暮らしているのは、二人の師弟だけである。
その為、セディルは一日の大半を忍者の修行に専念し、残る僅かな自由時間を、エリーエルと探検して見つけた書庫の書物を読み漁る事に費やして来た。
普通に考えれば、不遇な少年時代と言えるだろう。
五歳まで家に閉じ込められて育ち、逃げ出した先では人里から離れた館で、七年にも渡る師と二人での過酷な修行に耐えて来たのだ。
しかしセディルは、それを辛いとまでは思っていなかった。
過去の記憶は失ってしまったが、おそらく転生前とは全く違った人生を歩む事に対する期待。
それに、日に日に自分の中に力が蓄えられ、『忍者』に近付いて行くという感覚を得ている事。
それらの高揚に比べれば、厳しい修行などどうという事もなかった。
そして、そうした全ての苦労と渇望が報われる日が、ついに訪れる。
十二歳に成ったセディルは、森の奥にある今では日々を過ごす修行場となった岩場の上で、顔と上半身を外気に晒した半裸の姿で結跏趺坐を組み、目を瞑って日課の修行を行なっていた。
大気から呼吸によって魔素を取り込み、身体の隅々にまで流し込み、その流れを自身で把握し制御する。
七年間、毎日欠かさず行って来た忍者の基礎修行だ。
季節は、春の半ばに近付いている。
ここジーネボリス帝国の深い森でも若葉が芽吹き、過ごし易い風が木々の隙間を流れ吹いて、少年の長い髪を靡かせる。
月日が過ぎ去り、セディルの漆黒の髪は、腰辺りまである癖の無いストレートロングへと伸びていた。
体躯はまだ小柄だが、身長も百五十センチ近くまで成長している。
その顔は相変わらず性別がハッキリせず中性的で、女の子と言っても疑う者はいないだろう、白皙の美少年。
しかし、その首から下は忍者に成る為の鍛錬の成果を如実に表し、華奢な骨格ながらも、しなやかな筋肉が若駒のように引き締まり、十二歳の子供とは思えぬ強靭さを示していた。
滑らかな肌は幼い時と変わらずに真っ白で、なぜか日焼け一つしていない。
幼児から少年に成長したセディルは、成人まで三年の時を残して、職への階段を上り切るところに辿り着こうとしていた。
(感じる……、今まで積み重ねて来た色々なものが、僕の中で形を作り、固まろうとしているのを……)
目を閉じたセディルは、全身を流れる魔素を感じ取りながら、その時が来た事を確信する。
(魔素の流れ……、師匠は、取り込んだ魔素を臍の下に溜め込み、骨や腱、筋肉、内臓、手足の指の一本一本にまで流し込み、肉体に薄く纏う姿をイメージするように、と言った……)
魔素を流し込まれた手足は、レベルを上げて行く毎にその威力を増し、いずれは通常武器が通じない魔物でも殺せる程の必殺の凶器と化す。
(でもそれだけじゃ、僕はつまらない……)
セディルは、自分だけが持つ独自の知識と発想を、この修行の中に取り入れていた。
魔素の流れを、より強く自分の中にイメージする。
それは手足や指先といった、目に見える身体器官にだけではない。
彼は肉体を構成する『細胞』の存在を知っていた。骨でも筋肉でも、手足でもなく、人の肉体はもっと細かく分ける事が出来るのだ。
その全身の細胞、六十兆個の一つ一つに魔素の流れを作り出す。
この七年間、セディルはずっとそのイメージを抱きつつ修行を行なって来た。
(そして、それは成った……ね)
セディルの口元に、軽い笑みが浮かぶ。
今、彼の肉体全体に、目には見えない魔素の衣が張り付いていた。
正確には、見えない油のような物が、全身の皮膚の上を薄く流れて循環していると、セディルは体感していた。
当然、魔素の流れは体内でも起きており、呼吸で取り入れ、臍の下に溜め込んだ魔素が全身の血管を流れ、赤血球が届ける酸素と一緒に一つ一つの細胞に送り込まれて行く。
もうその流れは、息をするのと同じように無意識の内に行える。
『ニンジャハイマスター』であるライガが、弟子に課した基礎修行は、ここにより洗練された形で完成したのであった。
「ここまで来るのに、七年か……」
不意に、ライガの声が岩場に響く。
セディルは、目を開いた。
彼の黒い瞳に、正面に立つ師の姿が映り込む。
「師匠……」
一切の気配も感じさせずに、ライガはいつの間にかそこにいた。巌のような巨体も、年齢に反して若々しい顔も、七年前と少しも変わりがない。
「俺が下忍から忍者に転職した時には、それを習得するのに二年掛かった。当時マスターレベルだった俺が、二年だ。それをお前は、五歳の子供から初めて七年だ……」
弟子の異常な成長を、過去の自分と比べて振り返り、ライガはその刃のように鋭い目でセディルの周囲に渦巻く魔素の流れを読み取る。
彼の心眼には、淀みなく流れる魔素の気配が捉えられていた。
「お前はいったい、何者だ?」
「僕は僕ですよ、師匠。半分人間で、もう半分は何だか良く判らないものだけど、取り敢えず今の僕は、ただの冒険者志望のあなたの弟子です」
岩の上に座ったままのセディルが、真っ直ぐな視線でライガを見上げた。
その黒い瞳には、一点の曇りも見られない。
弟子の答えとその瞳に、ライガの眉間の皺が深くなる。彼もついにやって来たこの日に対し、何か口に出せない想いがある様子であった。
「では、師として認めねばならんな。お前がもう、忍者の職に就けるだけの修行を全て成し遂げた、という事を……」
それは職に就く為の修行の終わりを、弟子に告げる師の言葉だった。
「それじゃあ、僕は忍者に成れるんですね、師匠?」
ライガの口からその言質を得て、セディルは意外と静かな口調で確認を取る。
「そうだ。最後に、お前がそれを望みさえすれば、な」
職に就く為には、その職に就いている者の下で様々な修行を重ねて、十分な能力値を得る必要があった。
その条件を満たした後、人はその職に就く事を己自身の魂に刻み込み、受け入れる事を誓う。
それが、『職の宣誓』。
職に就く為に、最後の儀式であった。
「勿論、僕は忍者に成る事を求め、望みますよ」
ここに到って、セディルの決意がぶれる事はない。この日を待ちわび、望んだのは誰でもない、彼自身なのだから。
「ならば己の中の根源に、それを誓え。それで……、全てが決まる」
自分の選択の、その結果を見届けんと、ライガは弟子の姿を凝視する。
「了解です、師匠。では……」
セディルは、再び両目を閉じる。
そして、己の中に渦巻く不定形の魔素の塊を意識した。それは脈動しつつも、決まった形を持たない。今だ定まらぬ、『何か』であった。
(魔素への適性、必要な能力値、技術と知識、条件は全て満たされた……)
忍者という職に就くのに必要な条件を、内心で数え、それらが全て揃っている事を確認する。
(さあ、僕は忍者に成ろう。始まりはレベル1だけれど、いずれ辿り着く先は……、うん、目標の限定はしないで置こう。行ける所まで、行くんだ!)
そう決意したセディルの中で、不定形だった魔素の塊が徐々に形を成し始める。
職を得る為に修行し、蓄積して来た魔素が魂に染み渡り、固定化する。
それは、セディルという一人の人間の姿として顕現された。
『ドクンッ!』
セディルの心臓が、一際強く大きく高鳴る。
体温が一瞬上昇し、自分の中に新たな力が漲るのが感じられた。
ゆっくりと目を開く。
その目に、先程と全く変わらない表情と姿勢で立つ、ライガの姿が映った。
「終わったみたいですよ、師匠」
そう告げる弟子を、ライガは無言で見下ろす。
そしておもむろに、腰の収納鞄から一枚の黒い金属製のカードを取り出し、セディルの前にスッと差し出した。
「師匠?」
「これをやる。今日から、お前の『ステータスカード』だ。それで、自分の【ステータス】を確認してみろ」
ライガがセディルにくれた物は、自分の【ステータス】を確認出来る魔法の道具、『ステータスカード』であった。
現代では作れない古代魔法文明の遺産だが、今でも遺跡等で大量に発見されている為、金さえ出せば普通に買える道具だ。
冒険者の多くが持っている道具だが、一文無しのセディルは、当然持ってはいなかった。
そのカードは、職に就く弟子の為にライガが街で購入して来た、新しいステータスカードなのである。
「ありがとうございます、師匠」
意外な師の配慮に素直に感謝し、セディルはライガに貰った新しいステータスカードの魔石に指を当て、その内容を確認する。
レベル:1
名前 :セディル・レイド
HP :30/30 MP :30/30 状態 :正常
職業 :忍者 年齢 :12 性別 :男 種族 :半人間 属性 :混沌
筋力 :32 敏捷 :38 魔力 :36
生命 :32 精神 :32 幸運 :43
スキル
【絶対天与】【能力強化】【忍装備可】【秘伝忍術】【盗賊能力】
【回避能力】【攻撃強化】【奇襲攻撃】【即死攻撃】【二刀流可】
【二回行動】【HP増強】【MP増強】
魔法
一般系レベル:10 忍者系レベル:0
ステータスカードの黒い文字盤の上に表示された、自分の【ステータス】を、セディルは感慨深げに読み解いた。
「やりましたよ、師匠っ! 僕、レベル1の忍者に成りましたっ! 間違いありませんっ!」
結跏趺坐を解いて、立ち上がったセディルが歓喜に叫ぶ。
彼の【ステータス】の職業表示に、『忍者』の二文字が確かに示されていた。
「確かか?」
「はいっ!」
ライガの確認に、セディルが少々興奮気味に答える。
この世界に生まれ変わって、十二年。師となったライガに出会って、七年。セディルはついに、伝説の職に就く事が出来たのだ。
(よし! 僕の本当の冒険は、これからだっ!)
最終回のような台詞が彼の心の中で叫ばれたが、高揚感に満ちた溢れた今のセディルにとっては、どうでも良かった。
レベルはまだ1でしかなく、忍者系忍法もまだ使えない状態ではあるが、職に就いて『レベル0』から『レベル1』になった意味は大きい。
これからの修行と実戦次第で、このレベルはどんどんと上昇して行く。
その果てに、セディルが望む最強の冒険者という、夢と浪漫があるのだった。
岩場の上で、ステータスカードを握り締めて立ち上がる弟子の様子を、無表情で見つめていたライガだったが、忍者に成った事を確かめた瞬間、彼は目を閉じた。
そして、十秒程経ってから再び目を開く。
「これで俺は、世界で最後の忍者ではなくなった訳か……」
それは安堵か、憂慮か。
ライガは、自分の立場が大きく変化した事を悟る。彼はもう、世界で唯一の忍者ではなく、最後の忍者でもなくなったのだ。
ある意味、それらの束縛から解放され、自由の身に成ったとも言えるだろう。
「セディル、お前の【ステータス】を確認するぞ。七年前のように、また変な数値が並んでいるのではあるまいな?」
七年前に確認したセディルの【ステータス】の異常さを思い出し、ライガは師として忍者に成った弟子にその確認を促す。
カードに表示される【ステータス】は、他人には見えない為、本人による自己申告を求めているのだ。
「変な数値ですか? ……えーと、まあ、確かにちょっと数値に変なところや、スキルの数の計算が合わないところなんかはありますね」
改めて自分の【ステータス】を確認してみて、セディルは涼しい風を浴びながら、背中に冷や汗を垂らした。
そのHPとMP、各種の能力値、それらはとてもレベル1の駆け出しが持っているような数値ではなかった。
それに最初から持っていた『種族スキル』と、忍者の職に就く事で得られた新たな七つの『職業スキル』が表示されているが、その他に、なぜか四つの『特殊スキル』が生えている。
特殊スキルが得られるのは、通常ではレベル16から。それは、マスターレベルを超えた者だけが得られる、特典だった筈なのだ。
「……言え」
「はい」
師からの命令に、素直に頷くセディル。
「えーとですね、まずHPとMPは、どちらも30あります。能力値も、全部30以上ありますね」
ステータスカードに目を通し、セディルはそれらの数値を確認する。
通常、戦士系の職に就いたレベル1のHPは、8~10の間。MPは4~6が、標準であった。
能力値も十代で職に就いた時、いくつか二桁なら優秀。全部二桁に届いていれば、相当に優秀と言われる。
忍者の職に就く為に必要な能力値は、全能力値で24以上を要求されるが、それに比べてもセディルの能力値は異常に高かった。
(これは、自己修行の賜物かな?)
ライガに言われた魔素の流れを作り出す修行を、自己流で解釈し、さらに発展させた結果なのだろうかとセディルは推測した。
「……滅茶苦茶だな」
今まで冒険者の間で伝えられて来た常識が、ガラガラと音を立てて崩れる実例を目の前にし、ライガが鋭い目を更に鋭くする。
「はい……、それとスキルなんですけど……」
自分の異常さを理解しているだけに、少し言い澱んだセディルだったが、今さらな事なので全部話す事にした。
「忍者に就いて得る筈の七つの『職業スキル』は、全部得ています。でも、それ以外にも『特殊スキル』が四つ生えているんです」
「……特殊スキルだと?」
「はい」
常識を更に超えた特殊スキル獲得の話を聞き、ライガの眉間の皺がますます深くなる。
「得たのは、師匠が持っているのと同じ、【二刀流可】と【二回行動】ですね。これが生えたのは、多分、僕が師匠の影響を受けて、このスキルを欲しがったせいじゃないですかね?」
特殊スキルは、本人の特性や望みによって発現するものらしい。
セディルの得たその二つのスキルは、ライガももっているものなので、彼から受けたであろう影響が感じられる。
「残りの二つは、【HP増強】と【MP増強】です。やっぱり、HPとMPは、いくらでも欲しいから生えて来たのかな?」
最強を目指すセディルが得たのは、単純にHPとMPを増やすスキルだった。
【HP増強】は、本来戦士系の職『バーサーカー』や『アマゾネス』が持ち、【MP増強】はエリーエルが目指す『賢者』が持つ職業スキルである。
これらの増強スキルは、レベルアップの際に増加するHPやMPの最大値に、+3のボーナス補正を得るスキルだ。
このスキルを持つ冒険者は、高レベルに成った際には他の職とは一線を画す程の、最大HPと最大MPを得る事になる。
それら異常な数値やスキルは、自己修行の影響もあるだろうが、究極的には彼だけが持つスキル【絶対天与】の効果なのだろうと、セディルは思うのであった。
彼をこの世界に送り込み、転生させた『何か』が用意した、特別な力とやらの発露なのである。
「お前自身はその自分の異常性に、何か確信があるようだな?」
(ギクッ!)
冷めた目付きで弟子の様子を観察していたライガが、ぼそりと呟く。
やはり忍者のハイマスターの目を誤魔化すのは難しいらしく、彼は少しずつセディルが秘密にしているスキルに迫っているらしかった。
「うーん、やっぱり、僕『悪魔の子』なのかな~、アハハ?」
取り敢えず自嘲の言葉を吐きつつ、曇りなき瞳を前面に主張して師の追及を回避するセディル。
そのセディルを、胡乱な奴だと目で語るライガ。
そんな奇妙な師弟関係にあった二人だったが、この日を境に、その関係にも変化は訪れる。
セディルが正式に忍者となり、レベル1を獲得した事によって、彼はもうライガの庇護対象ではなくなり、一人の冒険者となったのだ。
これからはいつでも、自由に冒険の旅に出発する事が出来るのである。
「セディル、出立の準備をしろ」
「へ?」
唐突に言われたその命令に、セディルが間抜けな声を出す。
「クレイム伯爵から、手紙が届いた。この館の管理は、使用人達に任せて、俺達に帝都まで来て欲しいそうだ」
ライガは懐から、一通の手紙を取り出した。
封は切ってあるが、そこには確かにクレイム伯爵家の印章が押されている。
「伯爵様が? 師匠と僕を帝都に呼んでいる?」
それはいったい何の用なのかと、セディルは頭の中に疑問符を浮かべる。
クレイム伯爵家の御一家は、毎年この森の中の館で静かに時を過ごす事を、家族の行事としていた。
しかし、それも二年前を最後にして、去年からは途絶えている。
伯爵の後妻で、エリーエルの母親エミーシャ・クレイムが、この世を去ったからである。元々病弱だった彼女だが、二年前の滞在の後に体調を崩し、あえなく死去した。
それ以来、残された伯爵や子供達は、この館を訪れず、今では全員が帝都で暮らしていた。
「師匠なら兎も角、僕にまで何の御用でしょうかね?」
「知らんな。だが、呼ばれている以上、行かねばなるまい」
ライガは伯爵に雇われている身であり、セディルは伯爵の許可を貰ってこの館に滞在し、今日まで彼に養われて来た身なのだ。
伯爵からの呼び出しを断れる事情は、両者とも持ち合わせてはいなかった。
「行くぞ、『帝都ジーネロン』へ」
「はい」
忍者に成ったといっても、それで全ての柵から自由に成れる訳でもない。
セディルが一人の冒険者として、自らの冒険に出て行くまでには、まだいくつかの物語が必要なのであった。




