15話・裏
一度だけ遠目で見た事のある、奴隷商の男が店に招いた女性。この女性が影狐が知る限り最も綺麗な人間だ。それなりに高いだけの普通の娼婦だが、最下層である亜人の奴隷が姿を見れる中では最高のお手本であった。
清潔で過剰な露出のない上品で穏やかな女性、それが今影狐の化けている姿だ。大都会ともいえるアルファストの王都では地味ともいえるが、任務を考えれば丁度良い。たまに胸元に視線を感じるくらいで人混みに紛れる事ができている。
「店員さん、身分の高い方へのお土産と、その使用人たちに配るお菓子が欲しいのです。予算はこれで見繕っていただけませんか?」
影狐は自分で金を出して買い物するなど初めてではあったが、紅雪鬼からの助言で、店の者に任せてしまえば良いと言われ実行した。言葉遣いは変ではないだろうか? ボロが出ないよう可能な限り丁寧な口調で店員に頼む。
後で子供にでも化けて買い物の練習でもするべきか、他人に化けれる固有魔法を持つ彼女は今後物資の調達を任せて貰えるだろう。
そうすれば買い物ついでに姉の情報を探せるし、取り入るにはまず堅実に仕事し信用されるのが近道なのだから。
店員には特に不審がられることもなかった。それどころか思った以上に良い物が買えたがこんなものなのだろうか? 実際は鼻の下を伸ばした店員がおまけしてくれただけなのだが、その辺の機微は影狐には分からなかった。
路地裏で周囲の人間に見られないよう、こっそり紅雪鬼から借りたスペアの転送門のカギでお菓子をダンジョンに送る。初めての買い物で緊張したが任務完了だ。これでダンジョンの主に名前を憶えて貰えれば言う事なしだが、流石に土産の菓子を買った程度ではまだまだだろう。
思ったよりも早く買い物が終わり、影狐は少し考える。紅雪鬼からある程度自由にして良いと言われたし、慣れるために街を歩くのも悪くはないだろう。
かつて人目を恐れ暗い裏道をコソコソ歩いているだけだった自分が、表通りの真ん中を誰にも咎められることなく胸を張って歩く、それだけの事だが影狐は泣きたくなるほどの充足感を感じていた。
店舗の並ぶ通りを歩きながら、思ったよりも時間が過ぎてしまったので、そろそろ拠点に戻ろうと、踵を返した時だった。カタカタと……細かく金属同士がぶつかるような音がして何気なく目を向けると。
「貴様、悪魔だな?」
豪奢な、それこそ動きにくいんじゃないかと心配なるような装飾過多な鎧の騎士が娼婦に化けた影狐に向かって歩いてくる。一歩近づくごとに鞘に納めた剣からの振動音が強くなっていく。
そして街中で躊躇いもなく抜いたその剣を見た瞬間、影狐は心臓を鷲掴みにされたような恐怖に、咄嗟に走って逃げだした。
「貴様か! 逃がさんぞ悪魔め」
影狐の固有魔法は変身した人物の身体能力までも真似る。だからと言って強い相手、例えば紅雪鬼に化けても、影狐本人以上の身体能力は得られない。まだまだ成長の余地はある能力だが、覚醒したての悪魔の固有魔法では限界がある。
仕方なく、街を歩いていた警備兵に化け、人混みに紛れながら派手鎧の騎士から逃げる。どうにも足が遅いので、別の兵士に化けても騎士の持つ剣のせいで誤魔化し切れない。
まだ派手な鎧の騎士が警備兵を追いかけまわしてる形だから、人々も面倒を避けてるが、これで悪魔の姿を晒しては足は速くなっても城門を潜れるかすら怪しい。まして人間に拠点の位置がバレるような真似をしたら、その時点で無能の烙印を押されてしまう。
どれほど走っただろう? イチかバチか通行人を人質に逃げようか悩んでいると、見覚えのある偵察型ゴーレムが彼女に並走するように飛んでいる。そして先導するような動きをするので付いて行く。
そうして逃げた先、ゴーレムの誘導で拠点から離れた森の中まで走り続けると、見覚えのある山羊の角に目立つ鎧姿。不手際を詫びようとするが、その前に転送門の対となるカギを押し当てられダンジョンまで瞬間移動した。
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黒天姫が配下たちに戦い方の指導をしてる時だった。紅雪鬼から連絡が入り、同行した影狐に監視用術がかけられてる可能性があると言われ、フロア管理者権限で一瞬で地下三階まで降りて、転送門まで飛ぶ。
見れば疲れ切った影狐が、転送門の近くで座り込んでいたので、事情を説明しようとする前に彼女を掴んで、有無を言わせず地表に戻り破魔の効果を持つ紅い雪の中に放り込む。
すると影狐の体内から黒い靄のようなモノが這い出て、紅い雪に触れるやすぐさま消滅する。
「エーコさん、もう大丈夫ですよ。監視の術はもう解除され……い、いけない干乾びかけてる!」
急いで影狐を助けると、疲労の上に血を吸われたせいか、影狐が気を失ってしまった。自分だと紅い雪に触れても多少疲労するだけなので勘違いしていたが、紅雪鬼の固有魔法は鍛えた騎士でも数秒で絶命するのだ、覚醒したての影狐に耐えられる訳もない。
死んでないのを確認してほっと一安心したところで、回復の霊薬を飲ませてから、女奴隷に風呂に入れて身体を温めるてやるよう命じる。それから紅雪鬼に術が解除されたのを連絡する。
さて、訓練の再開をしようと思った矢先に今度は、聖なる武具を持った騎士を捕らえたので、お館様に献上するように、と連絡が入った。仕方ないとはいえ仕事の邪魔をされてるようで困る。
「セツ様、直接念話で連絡を取り合うのは便利ではありますが、配下の指導をしてる時や侵入者と戦っている時に、急に頭の中に声が響くと万が一がありえます。余程緊急でもない限り取次役を介しませんか?」
「それもそうだな、転送門の維持する者達に念話を保管する魔法道具も同時に維持させるのはどうだ? 急ぎでないなら送ったモノを確認ついでに聞けるからな」
「賛成です、なにかが送られれば私に連絡が入ることになっておりますので」
話しながら転送門に戻ると、送られてきた氷漬けの男は、転送門の維持をする者たちに牢屋に運ばれようとしていた。基本的に半魔族なら住居に案内し休ませ、人間なら牢屋に運ぶように予め指示してある。ただし、氷漬けとは言え手に持った剣は聖なる気を帯びて、弱い悪魔たちでは近づく事すら厳しいようだ。
「御苦労、その者は私が運びます」
黒天姫が声をかけると配下たちは畏まって通路の脇による。改めて氷漬けの男を見ると、見知ったかつての婚約者だった。
特に感慨も抱かずに氷を砕こうと床に落して踏み付けるがビクともしない。二度三度と段々と威力を高くするがやはり効かない。意識が混濁しなにやらブツブツ言ってるが、氷を砕かないと主君に精気を差し出す前に死んでしまう。
「はぁ、紅雪鬼様ったらやり過ぎですよ。参ったわね本気出すとこの男まで氷と一緒に木っ端微塵だし……」
とりあえず体を温める薬を飲ませて氷ごと牢屋に放り込む。うわ言で人間だった頃の黒天姫の名前を繰り返すが、どうでもいいモノとしてなんの感慨も浮かばなかった。
黄泉姫に報告に行こうとした黒天姫だったが、配下の一人が、少し前に転送されたものだと言って見覚えのある箱を渡してきた。これはアルファストの有名な菓子屋で売ってるものだ。
最も高価で丁寧な包装をされた箱が一つ、それとは別に小分けにされたクッキーが沢山入った大箱が複数。紅雪鬼に連絡をしてみるが、今気絶してる影狐に指示して買わせたものらしく、高価な箱は主人に、それ以外は配下たちで分ける事になった。
配下たちは初めて食べる高級なお菓子に感動したようで、黒天姫の予想以上の感謝と忠誠を約束され少し困惑する事となった。